二〇二四年十二月十九日(木)。
早朝(午前五時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。
朝食(午前八時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。
昼食(午後一時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。
夕食(午後六時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。
タマさん、今朝は小さな座布団を見つけて引っ張り出してきてお利口に座ってたね。
えへん。ぬいぐるみでたくさん遊んだ後に思い出したんだ。部屋の隅っこの籐椅子の下に体重計があってその上に何か載っけてあったのを何日か前に見つけて一度座ってみたら気持ちよかった。すぐ忘れたんだけど今朝は居間で遊び回ってるときにたまたま籐椅子の下に潜り込んでね、そこで、あっ、て思い出して口に咥えて居間の入り口の脇に持ってきた。そのまま香箱座りしたら心地よいんだ。
生地が違うんだな多分。ふつうの座布団には座らないよねタマ。
小型のクッションを用意してくれてたみたいなんだけど全然座ってないな。クッションの紐をくちゃくちゃ噛んで遊んだくらい。ときどき蹴飛ばしたりもするな。座布団に見えないんだ。
今朝お利口に座ってた生地はフェルトって言うのさ。一般的な座布団は木綿だけど。
タマはフェルトが好き。小型だと持ち運びに便利だし。木綿はなんていうか大げさな感じでいかにも人間様って感じで違うんだなぁ。
そりゃお前さん、始めから飼い猫のために座布団が出来たわけじゃないよ。座布団にも歴史ってのがある。
あるの?
原型は平安時代の筵(むしろ)なんだけど今みたいな形ができたのは中世だね。一般化したのは江戸時代。
小型もそうなの?
小型にも歴史的な共通点があるよ。例えば木魚とか大黒さんとか勾玉とかの座布団ね。
勾玉、、、あ、タマわかった。儀礼とか作法とか尊厳とかってことを考えたんだ、きっと。
よくわかったね。で大金持ちの商取引とかだとさ、何かの間違いで平謝りに謝らなきゃなんないってことになると謝る側が座布団から降りてさらに土間があれば土間まで降りてさらにさらに庭があれば庭まで降りて出資者の面前で額に何度も泥をこすりつけて謝んないと許してもらえないこともある。大口顧客の大金とメンツとに泥を塗ってしまうと塗った側がその泥を引き受けるってことになる。
へぇ。でも大口顧客って言う場合の問題はお金のことだよね。それも大金。そんなに大事なことなのにその辺にいくらでもある泥を額にどろどろ塗りつけて引き受ける形にしただけで肝心の巨額取引の責任は出資者から別のところへ移しちゃうことが出来るの?
出来るのさ、それが。不思議だろ。
むぅ、猫にはとても理解できないや。でもさ何で土下座って、土とか泥までへりくだらなきゃなんないのかな。
土下座やらせたりやらされたりしてる人々がどこまで意識的なのかわからないけどまあ、実をいうとヒューマニズムとはほど遠い世界的規模の人類学史的課題だね。世界のどこへ行ってみても民族建国神話ってのがあるだろ、日本だと古事記とか日本書紀が圧倒的に有名だけどもっとマイナーな風土記ってのもちゃんと見ないといけない。でもどの民族建国神話を見ても途轍もなく深い共通点がある。特に日本を含む東南アジア一帯に残る建国神話ってのは。そのどれを見てもほぼすべて土と泥と水とが交わり合うところから始まってるのさ。
どういうこと?
土と泥と水は商取引の終わりどころか逆に人類史の始まりってわけ。近いところまで接近した日本の作家に大江健三郎と中上健次とがいた。津島佑子もなかなかやるだけやった。暴力と向き合うことと書き手自身もそれなしでは生きていけない暴力性は今この時も繰り返し生じてやまないという「いろは」の「い」を直視できるかってことだね。今では韓国のハン・ガンとかが果敢に挑戦してる。それを押さえた上でね、ポスト大江やポスト中上と言いうる小説家として新しい書き手、二十代から三十代半ばくらいの作家がそれぞれの課題に取り組もうとしてる姿勢を大切にしてあげなきゃいけないと思ってるわけさ。
タマの頭ではまだ早いような、気の遠くなるような。
いやいや、地球には人間に先立って動植物が先住してたってことですでに猫たちが繰り広げる人間世界のパロディは完成してる。それがわかってりゃ後は生身の人間同士でどう「落とし前」をつけるかってことでいいんだ。タマは寝たい時に寝てりゃあいい。
黒猫繋がりの楽曲はノン・ジャンルな世界へ。ウール&ザ・パンツ。年末年始の大掃除は師走にまとめてじゃなく一年間通して少しずつやっていくスタイルなので十二月に入ったからといってさほど慌てる必要はない。なので多少なりともいつも世の中とずれているわけだが、そうすることでこんな音楽にもゆっくり耳を傾けて体を休める機会が持てるという利点がある。