「イメージの本」についての展覧会の様子。掘潤之はいう。
「『幸福なアラビア』のセクションの中央付近に、橙色のランプでひときわ明るく照らされ、何やら存在感のある一冊の本が置かれた小さな作業台がある。足元には東洋風の絨毯が敷かれ、その上に一脚の古びた椅子が据えられている。椅子に腰掛けて作業台に向き合うと、薄汚れたクリーム色の表紙には、哲学書を多く刊行しているフランスの出版社ガリレーの文字が見えるものの、著者名と書名の部分は、『群島』『強制収容所(グラーグ)』『文学的調査の試み』という文字をコラージュした紙によって覆い隠されている。ソルジェニーツィンの『収容所群島』の表紙と扉をコピーして組み合わせてこのコラージュを見るだけで、『さらば、愛の言葉よ』の冒頭付近で哲学者ダヴィッドソンがしきりに本書のタイトルとその副題の『文学的調査の試み』というフレーズを口にしていたくだりが脳裏に蘇ってくる。もしかしたらこの本はソルジェニーツィン論なのかもしれない」(掘潤之「空間、イメージ、書物」『ユリイカ臨時増刊ジャン=リュック・ゴダール・P.134』青土社 二〇二三年)
ゴダール作品を観ているといつも思うようなことが書いてある。
「著者名と書名の部分は、『群島』『強制収容所(グラーグ)』『文学的調査の試み』という文字をコラージュした紙によって覆い隠されている。ソルジェニーツィンの『収容所群島』の表紙と扉をコピーして組み合わせてこのコラージュを見るだけで、『さらば、愛の言葉よ』の冒頭付近で哲学者ダヴィッドソンがしきりに本書のタイトルとその副題の『文学的調査の試み』というフレーズを口にしていたくだりが脳裏に蘇ってくる。もしかしたらこの本はソルジェニーツィン論なのかもしれない」
一方ゴダールはそのようなエクリチュール(文字言語)による侵入を嫌ってもいた。
「ゴダールにとって、エクリチュールとは『見ること』を妨げるものである。ここで『戒律』そして『聖書』が示唆されている通り、彼はエクリチュールの起源を、偶像崇拝を禁じるモーゼの十戒のうちに見出している。偶像の中止、それは『映像』そして『見ること』の禁止なのだとゴダールは考える。そして彼は、映画を作るとき自分はいつもこうしたエクリチュールに苦しめられているのだと打ち明ける」(柴田秀樹「作家になりそこねた男」『ユリイカ臨時増刊ジャン=リュック・ゴダール・P.184』青土社 二〇二三年)
と同時にゴダール作品は否応なくエクリチュール(文字言語)の侵入と離散さらには変容に満ちてもいる。スティグレールはいう。
「《記憶化のテクノロジーとして》の写真と映画の本性は、《アナログ・テクノロジー》(写真、レコード、映画など)だけでなく、既に記憶の文字テクノロジー(正書法的エクリチュール)、さらに《デジタル・テクノロジー》を特徴づける《正定立》の概念のもとで考えねばならないのである」(スティグレール「技術と時間2・P.44」法政大学出版局 二〇一〇年)
この引用を参照しつつ難波阿丹はいう。
「稀代のアーキビスト、ゴダールによるイマージュの離散化、アーカイブ化の技術的端緒を端的に示す事例として『リア王』を取り上げたい。ゴダールは無機質ともとれるタイトルやテロップをしばしば弾丸のように画面内に撃ち込み、例えば『リア王』のコーディ-リアの『Nothing』に伴う表明を、『NO』と『THING』に字幕において分解してみせる。このように、言語をデフォルメして、別の言語を生み出す技法こそ、モンタージュという映画的な文字テクノロジーの力能なのだ。『バーバリズム(barbarismes)』と呼ばれる、言葉をその言葉が本来有していない意味合いで使う技法は、ゴダール映画のもつ言いよどみや冗長とも言える繰り返し、あるいは誤った結合によってこそ生じる新たな言語体系を示唆している。
そして、例えば、アンヌ=マリー・ミエヴィルとのテレビ番組『6×2』でのゴダールは、ブレヒトの詩を引用して『私には/もはや/希望はない/盲たちは/抜け道を/口にしている/私には/見える』というスーパーインポーズがゴダールの顔面と共時的に刻印されるように、『デジタル』加工技術に伴って、ゴダールは離散的『文字(gramma)』の文節化という作業傾向を更に加速させていくのである。
ここにいう文字テクノロジーと『文字化(grammatisation)』のプロセスについて説明しておきたい。ギリシアのアルファベットは『文字化』、すなわち『ことば(parole)』が書き取られ『文字(gramma)』となるプロセスを構成する。文字化とは、加算的に書き込むことを意味している。ベルナール・スティグレールに拠れば、このような文字化のプロセスは、『正定立(orthothese)』による記憶化の文字テクノロジー(正書法的エクリチュール)として、アナログ・テクノロジー(写真、録音、映画等)だけではなく、デジタル・テクノロジーをも特徴づけるものであった。
テクノロジーの文字による微分化、積分化を経て、意識や時間の書き取り、再現、および保存が成立し、文化と記憶の視聴覚的アーカイブが構築されるなら、ゴダールの実践は、このような文字テクノロジーの加算的結合を映画/テレビ/ビデオ技術を用いて最も『野蛮な(barbaristic)』な形で成し遂げたものと考えることができるだろう」(難波阿丹「空隙を撃つ」『ユリイカ臨時増刊ジャン=リュック・ゴダール・P.239~240』青土社 二〇二三年)
作品自体がまたいつも暫定的として呼べないように思える。ドゥルーズのいうような変容。
「分裂症患者は、生者《あるいは》死者であるのであって、同時に両者であるのではない。むしろ、かれは、両者の間の距離の一方の端において、それぞれ両者のうちのいずれかであり、かれはこの距離を滑りながら一方の端から他方の端へと飛び移るのである。かれはこどもあるいは両親であるのであって、同時に両者であるのではない。むしろ、かれは、分解不可能なる一体空間の中にある棒のように、他方の端において一方であり、一方の端において他方なのである。ベケットが行っている離接の意味は、こうしたものである。かれは、自分の作中人物たちやこれらの人物に到来する諸事件をこのような離接の働きの中に登記している。すなわち、そこでは、《一切は分割されるが、しかし自己自身の中においてなのである》。離接が包含的になると同時に、距離でさえも肯定的なものとなる。ヘーゲル学派の最後の哲学者がするように、あたかも、分裂症患者が、<種々の矛盾を同一化する漠然たる綜合>を用いて<離接の働き>の代りとしていたかのように考えるのは、上にのべたような思考の秩序を全く誤解することであろう。分裂症患者は、離接的綜合を矛盾の綜合に代えるのではない。そうではなくて、離接的綜合の排他択一的制限的使用をその肯定的使用に代えるのである。かれは、種々の矛盾を奥深く掘りさげることを通じてこれらを一体化させ、離接の働きを消滅させるのではない。それどころか逆に、かれは、不可分の距離をたえず飛び移りながら、離接の働きを肯定するのだ。かれは単純に<男女両性>であるのでもなければ、男性と女性との間に存在するのでもなく、また<男女交錯>でもない。そうではなくて、<男女横断>なのである。かれは<生死横断>であり<親子横断>である。かれは、二つの対立項を同一項に一体化させるのではない。そうではなくて、かれは、異なるものとしての対立両項を相互に関係づけるものとして、この両項の間の距離を肯定する。かれは矛盾に対して心を閉じるのではなくて、逆に心を開くのだ」(ドゥルーズ=ガタリ「アンチ・オイディプス・第二章・P.98」河出書房新社 一九八六年)
横断的な、あまりに横断的な。というほかないのかも知れない。