白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・二代目タマ’s ライフ408

2024年12月11日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇二四年十二月十一日(水)。

 

早朝(午前五時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

朝食(午前八時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

昼食(午後一時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

夕食(午後六時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

タマね、新聞紙の上に乗って遊んでたらカルティエって時計屋さんの広告が目に入ったんだけどさ、いつもと違う匂いがはたとした。

 

まあ一般的には独立志向で洗練された大人の女性ってイメージなんだけど、広告で言えば伝統的に豹柄が印象的だよね。猫として何か思ったってこと?

 

朝刊みたら豹柄じゃなかった。飼い主の妻もさ、あれ、いつもと違う?って感じだった。それにお空が青いんだ。微妙に水平線に見えなくもない。

 

だったね。後で見た。それがどうかした?

 

モデルさんがね、飼い主のいうちょっぴりポストモダンな階段をのぼってくんだけどその階段が真ん中に配置されててさ、きっぱりした女の人がその階段をのぼってくところで、タマとしてはどこかで見覚えがあるってひらめいた。

 

見覚えあんの?

 

うん。一緒にDVD見せてくれたじゃん、ゴダール映画に出てた。なんて言ったかな、、、

 

ブリジッド・バルドーでもアンナ・カリーナでもいいんだけど、女のなかの女ってイメージだな。お前らみたいなオトコどもにはほとほと愛想が尽きたって背中ね。

 

でもタマにはよくわかんないんだ。カルティエ時計屋さんがなんで今頃ゴダールの有名なシーンを思わせる広告打ったのかな。

 

飼い主が大学在学中の頃だとゴダール作品もそろそろ古いんじゃないかなあって言う学生がちらほら出てきてたのさ。で、この前ね、最初に見たときから三十八年くらい後になって見直して思ったんだけど、古いっていうより古くて新しいんだよね。古き良きノスタルジーとは全然違う意味で。例えば坂本龍一が即興でベートーヴェンのフレーズを忍び込ませたら会場が一瞬でベートーヴェン色に染まるんだけど聴衆がはっ!と思った時すでに元の坂本龍一に舞い戻ってるって感じかな。いつものカルティエとちょっと違う。そういう狙いがあるのかも知れないね。

 

黒猫繋がりの楽曲はノン・ジャンルな世界へ。ジャブー。いわゆるブリストル・サウンド。といってもジャブーの音楽自体が色々変化してきたことからもわかるようにその要素はエレクトロニカ、エクスペリメンタル、オルタナティヴ・ヒップホップ、レゲエ、ダブなど解像度を上げていくときりがなく分解されうる。そういう聴き方よりも今作は今作のポップでいいのではと思える。


Blog21・なぜ「見えなくなる」のか?

2024年12月11日 | 日記・エッセイ・コラム

人類学者もまた常に「移動」のなかにある。この、一見わかりきった事情について、にもかかわらずいとも容易に忘れられてしまうという珍事が時々発生する。松村圭一郎はいう。

 

「私がエチオピア人女性の『海外出稼ぎ』を人類学の研究対象となる特異な『移動』として切りとってしまうと、エチオピアの村に住む人びとが経験してきた移動の歴史が見えなくなり、移動によって変化する前の静止した純粋な状態に固定されてしまう。しかし、それは実態からかけ離れている」(松村圭一郎「海をこえて(16)」『群像・1・P.541』講談社 二〇二五年)

 

「海外出稼ぎ」という言語の並びのなかの「出稼ぎ」は極めて動的な行動だという印象をあらかじめ受け持たされている。読者はしばしば思い込みがちなのだが言語そのものを人格化してしまうという傾向から抜けきれずにいる。とすれば「出稼ぎ」という言語は単なる言語でしかないにもかかわらず国「内」の事情について否応なく静的なもの、固定化されたもの、として信じて疑わない事態に陥らせる力を持つ。

 

この錯覚。言語にのみ限ったことではなく貨幣にも同じことが言えるだろう。

 

「商品世界のこの完成形態ーーー貨幣形態ーーーこそは、私的諸労働の社会的性格、したがってまた私的諸労働者の社会的諸関係をあらわに示さないで、かえってそれを物的におおい隠すのである」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.141」国民文庫 一九七二年)

 

また人類学者が一定の地域にどれだけ住んでいれば人類学者と言えるかどうかという境界線は、文化人類学が誕生した時すでに消滅し始めていたとも言えるのではと思うことがある。境界線の位置決定不可能性とはどういうことか。

 

「例えば、古代帝国の大土木工事、都市や農村の給水工事であり、そこでは平行と見なされる区画により、水は『短冊状』に流される(条里化)。ーーー現代の公共工事は、古代帝国の大土木工事と同じ地位を持っていない。再生産に必要な時間と『搾取される』時間が時間として分離されなくなっている以上、どのようにして二つを区別できるのだろう。こう言ったとしても、決してマルクスの剰余価値の理論に反するものではない。なぜならまさにマルクスこそ、資本主義体制においてはこの剰余価値が《位置決定可能なものでなくなる》ことを示しているのだから。これこそがマルクスの根本的な成果なのである。だからこそマルクスは、機械はそれ自体、剰余価値を産み出すものとなり、資本の流通は、可変資本と不変資本の区別を無効にするようになると予知しえた。このような新しい条件のもとでも、すべての労働は余剰労働であることに変わりはない。だが、余剰労働はもはや労働さえ必要としなくなってしまう。余剰労働、そして資本主義的組織の総体は、徐々に労働の物理的社会的概念に対応する時空の条理化とは無縁になってきている。むしろ、余剰労働そのものにおいて、かつての人間の疎外は『機械状隷属』によって置き換えられ、任意の労働とは独立に、剰余価値が供給されるようになっている(子供、退職者、失業者、テレビ視聴者など)。こうして使用者が被雇用者になる傾向があるだけでなく、資本主義は、労働の量に対して作用するよりも、複雑な質的過程に対して作用するのであり、この過程は、交通手段、都市のモデル、メディア、レジャー産業、知覚や感じ方、これらすべての記号系にかかわるものとなっている。あたかも、資本主義が比類ない完璧さに到らせた条理化の果てで、流動する資本が、人間の運命を左右することになる一種の平滑空間を、もう一度必然的に創造し構築しているかのようだ」(ドゥルーズ=ガタリ「千のプラトー・下・14・P.281~282」河出文庫 二〇一〇年)

 

こうした事態は戦後民主主義の言葉の空間全体を覆い隠すばかりに盛大で膨大な言説のなかでますます見えない次元へ押し込まれていきそうな気配である。けれども逆説は「なんだかますます見えない次元へ押し込まれていきそうな気配だ」と感じつつ来る日も来る日も鬱々して仕方がない読者には余計はっきり意識しないわけにはいかないということだろう。そしてマーク・フィッシャーのいう「うつ病的快楽主義」を日本の現状に近づけて言えば「超個人主義的リベラル」という態度がもたらした「うつ病性」と言えるかも知れない。

 

さらに。あるにもかかわらず「見えなくなる」のはなぜか。アルチュセールはとっくの昔に言っていた。

 

(1)「見えないものを定義され排除されたものとして定義し構造化するのは問いの構造の場である。この見えないものは、問いの構造の場の存在と固有の構造によって、可視性の場から《排除され》、排除されたものとして《定義される》。それは、場がその対象に反照すること、すなわち問いの構造がその対象に必然的にかつ内在的に関係することを、禁止し抑圧するものとして定義される。ーーー新しい対象と問題は必然的に現存の理論的場のなかでは《見えない》。なぜなら、それらはこの理論の対象ではなく、《禁止されたもの》であるからだーーーそれらは、この問いの構造によって定義された、見えるものの場との必然的関係を必然的にもたない対象であり問題なのである。それらは、権利上、見えるものの場の外に排斥され抑圧されるから、見えないのである。まさにそのゆえに、それらがその場のなかに現実に現前している事実は、(非常に特殊な徴候的状況のなかで)それが到来するときにも《気づかれないでしまう》し、文字通りに感知されざる不在になる。それというのも、そもそも場の機能というものは、それらの対象や問題を見ないこと、それらを見ることを禁止することにあるからだ。ここでもまた、見えないものは、見えるものと同じく、もはや主体の《視覚の機能》ではない。見えないものとは、理論的な問いの構造が自分の非=対象を見ないことであり、見えないものは暗闇であり、理論的な問いの構造が自己へと反照するときのめしいた目である。その問いの構造は、その非=対象や非=問題を《熟視しないために》、それらを見ないで通りぬけていく。ーーー見える場のなかの見えないものは、理論展開のなかで、この場によって定義される見えるものにとって外的で疎遠であれば《何でもいいもの》ではない。見えないものはつねに見えるものによって、《それの》見えないもの、《それの》見ることの禁止として定義される。だから見えないものは、空間的隠喩をもう一度使って言えば、見えるものの外部、排除の外的な暗闇ではなくて、見えるものによって定義されるがゆえに見えるもの自体に内在する《排除の内的な暗闇》なのである。言い換えると、地盤、地平、したがって所与の理論的な問いの構造によって定義される見える場の境界といった魅惑的な隠喩は、空間的隠喩を額面通りにとってこの場を《それの外部にあるもうひとつの空間によって》定義される場として考えるなら、この場の性質について思い違いをさせかねない。このもうひとつの空間なるものは、それを自分の否認として含む最初の空間のなかにある。このもうひとつの空間は、まるごと最初の空間なのであって、最初の空間は、それ自身の境界線に排除するものの否認によってのみ定義される。最初の空間には《内部の》境界しかないし、それはその外部を自己の内部にかかえていると言っていい。このように理論的場の逆説は、あえて空間的隠喩を使って言えば、《限定される》がゆえに《無限な》空間、すなわち、それをなにものかから分かつ《外的な》限界や境界をもたない空間であるという点にある。なぜかといえば、それは自分の内部で定義され限定され、自分でないものを排除することで自分の本来の存在を作り出す、定義の有限性を自分の内部にもっているからである」(アルチュセール「資本論を読む・上・序文・P.43~46」ちくま学芸文庫 一九九六年)

 

(2)「私はここで問題になっているのはイデオロギー的《哲学》だと言う。それというのも、『認識の問題』のイデオロギー的定立こそが、西欧の観念論的哲学と一体になった伝統(デカルトからカントとヘーゲルを経てフッサールにいたるまでの伝統)を定義するからである。私がこのような認識の『定立』は《イデオロギー的》であると言うのは、この問題が『答え』から出発して、答えの正確な《反射》として定式化されているからである。すなわち、それは本当の問題としてではなく、自分が与えたいと思う《イデオロギー的な》解答がたしかにこの問題の解答であるかのように定立されなくてはならなかった問題として定式化されたのである。ーーーこの論点はイデオロギーの本質をイデオロギー的形式で定義し、イデオロギー的認識(とりわけ、イデオロギーが語る認識)を原理上は《再認》の現象に還元する。イデオロギーの理論的生産様式においては(この関連では科学の理論的生産様式とはまったく違って)、問題の定式化は、認識過程の外部ですでに生産されている《解答》ーーー外部でというのは、理論外的審級や要求(宗教的、道徳的、政治的その他の)によって押しつけられるのだからーーーが、理論的鏡としても実践的正当化にも役立つように作られた人為的問題のなかに《自己を再認できる》諸条件の理論的表現でしかないからだ。このように、『認識の問題』によって支配される近代西欧哲学のすべては事実上、この《鏡のなかの再認》から期待される理論的=実践的効果を可能にするように《生産された》(あるひとたちには自覚的に、あるひとたちには無自覚的にーーーしかしここではどちらでもかまわない)用語でもって、またそのように生産された理論的土台に基づいて提起される『問題』の定式化によって支配されている。西欧哲学の歴史のすべては『認識問題』によってではなく、この『問題』が受け取る《べき》イデオロギー的解答によって支配されていると言ってもいいくらいだ。ここでイデオロギー的だと言うのは、認識の現実に無縁な実践的、宗教的、道徳的、政治的な『利害感心』によってあらかじめ解答が押しつけられるからである。マルクスが『ドイツ・イデオロギー』のときからかなり深みのある言葉で言うように、『《答えのなかばかりでなく、問いそのもののなかにも、ごまかしがあった》』。ーーーここでわれわれはもっとやっかいな難題に出会う。なぜなら、われわれは、まちがった答えの《反復》だけでなく、とりわけ《まちがった問い》の《反復》が多くのひとびとのなかで生み出してきた数世紀来の『自明さ』に対して、この企てにおいてはほとんど一人だけで抵抗しなくてはならないからである。われわれはこのイデオロギー的問いによって定義されるイデオロギー的空間、この《必然的に閉じた》空間から脱出しなくてはならない(閉じた空間だと言うのは、イデオロギーの理論的生産様式を特徴づける《再認》構造の本質的結果のひとつは閉じているからである。この不可避的に閉じた円環を、ラカンは別の文脈で、また別の目的から、『《双対の鏡像関係》』と呼んだ)。そうすることでわれわれは、別の場所で新しい空間を開くべきであるーーーこの空間は、《解答について予断を下すことのない、問題の正当な定立》が要求する空間である。『認識問題』のこの空間が閉じた空間すなわち悪循環(イデオロギー的再認の鏡的関係の悪循環そのもの)であること、まさにこの事実を西欧哲学における『認識理論』の歴史は、有名な『デカルト的円環』からヘーゲル的あるいはフッサール的理性の目的論の円環に至るまで、はっきりと《見させて》くれる。この円環の必然的存在を理論的に引き受ける、すなわちそれを自分のイデオロギー的企てにとって本質的であると考えようと決意する哲学(フッサール)が最高度の自覚と誠実さに達したとしても、この《円環》から《抜け出す》ことはできなかったし、イデオロギー的な囚われから《抜け出す》ことはできなかったーーー同様に、この『閉鎖性』の絶対的可能性の条件を、『開放性』(外見的には閉鎖性のイデオロギー的非=閉鎖性でしかない)のなかで考えようとした人、つまりハイデガーもまたこの円環から抜け出すことができなかった。外部であれ深さであれ、単なる《外》に身を置くことでは閉じた空間から出ることはできない。この外またはこの深さが《その》外または《その》深さにとどまるかぎりは、それらはまだ《この》円環、《この》閉じた空間に属しているーーーちょうど円環がそれとは別の《それの》他者のなかで『反復する』ように。この円環から首尾よく免れるのは、この空間の反復によるのではなくて、それの非=反復によってであるーーー理論的に根拠のある《逃走》だけがそれを可能にする。この逃走は、正しくは、逃げだす相手につねに縛られている《逃走》ではなくて、新しい空間、新しい問いの構造の根本からの創設であり、それのおかげではじめて、イデオロギー的な問題定立の再認の構造のなかで否認された現実の《問題》を立てることができる」(アルチュセール「資本論を読む・上・序文・P.98~101」ちくま学芸文庫 一九九六年)

 

今日はこのへんで。


Blog21・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて1002

2024年12月11日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

読書再開。といっても徐々に。

 

薬物療法は現状維持。体重減量中。

 

節約生活。

 

午前五時に飼い猫の早朝のご飯。

 

体操の後、エクスペリメンタルやインダストリアルを中心に飼い猫がリラックスできそうな作品リスト作成中。

 

Autechre「Iera」

いつもの音楽だなと慣れた様子で飼い主の部屋をうろうろ。始めてギターのピックを持たせてやると思いのほか珍しいらしくドリブルしながら結構遊んで回る。すばやく追いかけすばやくタッチ。そこで何種類か試してみた。フェンダーのヘヴィ、マーチンのハード、ヒストリーのハード。フェンダーやマーチンとは材質が少し違っていて床の上を転がすと他のピックよりややガラスに近い音がするヒストリーのピックが断然好きなようだ。半分以上透明なデザインでアコースティックギターに向いていると定評のあるもの。飼い主もアコースティックを手に取る時はいつもヒストリーのピック。でも猫としては多分ガラスの破片っぽい音に魅かれているように見える。