白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・二代目タマ’s ライフ409

2024年12月12日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇二四年十二月十二日(木)。

 

早朝(午前五時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

朝食(午前八時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

昼食(午後一時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

夕食(午後六時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

飼い主の妻さあ、今日も国会中継見てたよ。

 

見ておかないとね、お金のことだから。

 

飼い主は見ないの?

 

諦める諦めない以前にわかっちゃってることだからってのもあるんだけど、マス-コミ報道はそれ以上に問題だらけだろ?この夏の東京都知事選のめちゃめちゃぶりがまるでもう無かったことのようになっててまともに問題視されもしない。さらに秋の兵庫県出直し知事選ときたら出鱈目ばかりがまかり通った。それでたまりかねた人々が名を連ねて特に兵庫県知事選のあからさまな問題点を批判的に問いかける住民運動がここ数日で動き出しててね、その辺りの動きをよ~く見ておくのはとても大事なことなのさ。ナチスドイツも地方都市をひとつひとつ制圧することから始めて十年くらいでああなったわけだし。それを思うとわざと問題行動を起こすことで世の中の注目を浴びて力を持った政治的勢力が今のようなSNS時代に出来ることってのは恐ろしく大量かつ危険この上ないわけ。にもかかわらずマス-コミはもうその話には触れたがらない。腫れ物に触るような取り扱い方って言い方があるけど今や腫れ物に触りもせず逆に不可解不穏当に隠蔽していくばかりだしね。隠蔽すればするほど中身は急速に悪性腫瘍化するのがわかりきってる。巻き込まれたくないよ。

 

ふ~ん。猫としては理解を絶する気がします。

 

あのねタマさん、お前さん見てると理解を絶するようなところまで何か考えたりしてるようには全然見えてないよ?

 

ダメなの?

 

ダメじゃないけど、理解を絶するってセリフさ、どこで覚えたの?

 

居間のエアコンでぬくぬくしてた時かな。国会中継見てたら飼い主の妻がそんなこと言ってたような気がする。

 

、、、

 

黒猫繋がりの楽曲はノン・ジャンルな世界へ。ウール&ザ・パンツ。年末年始の大掃除は師走にまとめてじゃなく一年間通して少しずつやっていくスタイルなので十二月に入ったからといってさほど慌てる必要はない。なので多少なりともいつも世の中とずれているわけだが、そうすることでこんな音楽にもゆっくり耳を傾けて体を休める機会が持てるという利点がある。


Blog21・長編的な日常の極微な転調の音楽性

2024年12月12日 | 日記・エッセイ・コラム

連載第3回目。

 

「春になったら厚美も小学生か、私みたいに分かった振りだけが上手いと、大人に見過ごされてしまうから困るなあ、もちろん見過ごしてもらうためにやっとったんやけど、と考えながら、押し入れの奥を探していると習字セットが出てくる」(井戸川射子「私的応答(3)」『群像・1・P.304』講談社 二〇二五年)

 

連載が終了したばかりの「無形」を自己紹介する「本の名刺」に目を通したのは第3回を読んだあと。そこで思った。「本の名刺」の文体と「私的応答」(第3回)の文体とは違って響く。むしろ「本の名刺」の文章は「私的応答」の第2回と呼応し合っている。そう感じた。特に速度が。 

 

阿部公彦は「無形」刊行記念小特集でこう述べる。

 

「語り手のトレードマークである、読点に結ばれた文連鎖の中で、言い終わったはずのことがどんどん次の連想につなげられ、形が無形に差し戻され、無形は形へと成長する。言葉が次々に更新され、結論にたどりつかない。ただただ発見と出会いつづける」(阿部公彦「毛細血管状の豊饒」『群像・1・P.162』講談社 二〇二五年)

 

トレードマークとされる例は、例えば次の箇所。

 

「雨の音を聞き取ろうとする、何かと当たって鳴るのではない、雨自体の音を。雲を突き抜けるほど陽射し、雨が強さを増す、タイラには何でも受け取る準備がある、有形無形が身に迫る。地は雨に、目は涙に洗われ明るむ。雨は降って道に落ち、地に染み込めばもう、その水は雨とは呼ばれない」(井戸川射子「無形(最終回)」『群像・7・P.337』講談社 二〇二四年)

 

ヴァージニア・ウルフを思い浮かべないわけにはいかない。もっとも「本の名刺」で井戸川射子自身ウルフの名を上げているが。読者としては同時にドゥルーズ&ガタリが「千のプラトー」でさんざんウルフの小説について、とりわけその「変容/変身」について語っていた忘れがたい幾つかの文章を。           

 

戻ってみる。「私的応答」(第3回)の文章はすでに「私的応答」(第2回)あるいは「本の名刺」の文章と違ったものへと生成している。だからといって古典的な次元でいう「意識の流れ」という枠組みがもはや特権的な実験としては無効化した時代に、同じ用語で語られ続けるほかない諸問題は山ほどありつつも、どこをどう見ても少なくとも日本では近代文学の終焉を見ない日はないこの時期に、「ただただ発見と出会いつづける」その光景がこれからどのような極微な世界を開いていくのか。

 

「主語がこうあると述語はこうである」。長編の場合、そういうステレオタイプをふわっとした感触のうちに何度か転調させていく作業が可能だろう。読者が布団のなかで寝そべっていても浮遊感や移動感にいだかれる、そんな音楽的とも言うべき読書体験をさせてほしいと感じる。それを幻想的と呼ぶかどうかは別として。


Blog21・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて1003

2024年12月12日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

読書再開。といっても徐々に。

 

薬物療法は現状維持。体重減量中。

 

節約生活。

 

午前五時に飼い猫の早朝のご飯。

 

体操の後、エクスペリメンタルやインダストリアルを中心に飼い猫がリラックスできそうな作品リスト作成中。

 

Autechre「Second Bad Vibel」

初期の曲。二〇〇〇年代に入って以降の音とは違い結構ハード・インダストリアルな仕上がり。うちの猫に限らないと思うけれども猫はなぜかこの手の音にさほど警戒感を持たない。インダストリアル系の場合これ以上ハードになると昨今EUで台頭するネオナチが好みそうなただ単なる機械音の反復に過ぎなくなる。それでも飼い主がいつも流していると猫もそれに慣れてしまうだろう。そしてその手の音が聴こえると飼い主の仲間がやって来たと勘違いするようになるかも知れない。