白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・二代目タマ’s ライフ404

2024年12月07日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇二四年十二月七日(土)。

 

早朝(午前五時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

朝食(午前八時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

昼食(午後一時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

夕食(午後六時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

タマね、飼い主が買い物から帰ってくる時の足音ならすぐわかるようになった。

 

玄関ドア開ける前から鳴き声が聞こえるよ。

 

飼い主がよく聴くテクノ系音楽のこともめきめきわかるようになってきた気がするんだけど。

 

慣れた人と一緒に聴く音楽だからそうなんだろうね。もう二〇年くらい前かなあ、ビル・エバンスってひとりのジャズピアニストばかり好きで聴いてる犬の飼い主さんがいたんだけどそこの家では飼い主でなくてもたまたまそのジャズを流してみると飼い主さんが帰ってくると思って玄関へ出迎えようとする犬さんがいてたのさ。

 

二〇年かあ。でもそれじゃ大抵の犬さんは寿命をまっとうしてる年齢かも知れない。どうなったの?

 

飼い主さんのほうが先に死んじゃってね。団塊世代なんだけどアルコール依存症を患って入院して一度は酒を止めたんだけど退院してすぐ飲み始めちゃって一週間ほどで死んじゃった。飼い主が死んじゃったらその飼い犬さんも急速に元気をなくして後追い自殺みたいに死んじゃった。

 

そういうことってあるの?

 

あるよ。人間と動物との関係だけじゃない場合ならもっと多いかも知れない。実際タマの飼い主が縁日の金魚すくいで買ってきた金魚を二匹水槽で育ててたことがあって。大きいほうも小さいほうもなんと六、七年くらい生きてた。長生きだなあって思ってたんだけど、大きい方が最後はぶくぶくに膨れ上がって横になったきりほとんど動かない日々が続いた。それでも一ヶ月ほど生きてたよ。息してるのは見ればわかるからね。それがとうとう死んじゃった時のことさ。まだ生きてた小さいほうの金魚が死んだ金魚の周りをぐるぐる泳ぎ出したんだ。何かわかるものがあるのかなあって見てたらぐるぐる回り出して三日後くらいかな、五日も経たないうちに小さいほうも息を引き取ってた。あんまり健気に思えたんでそれからもう金魚を飼うのは止めたんだ。

 

黒猫繋がりの楽曲はノン・ジャンルな世界へ。ジャブー。いわゆるブリストル・サウンド。といってもジャブーの音楽自体が色々変化してきたことからもわかるようにその要素はエレクトロニカ、エクスペリメンタル、オルタナティヴ・ヒップホップ、レゲエ、ダブなど解像度を上げていくときりがなく分解されうる。そういう聴き方よりも今作は今作のポップでいいのではと思える。

今日ももうひとつ。ティルザ。ひたすら安全牌ばかり取ってきた日本の歌謡界がとうとう追い抜かれる日はもうそこまで迫ってきている予感がする。実際に一日分追い抜かれたと気づいて慌てて挽回することにしたとしよう。でも他国のアーティストもみんな一日分やるわけで一度開いた距離がさらに開くことはあっても近づくことはない。


Blog21・「小説」あるいは《コラージュ》を探して

2024年12月07日 | 日記・エッセイ・コラム

ジェイムス・ジョイス「ユリシーズ」やヴァージニア・ウルフ「灯台へ」を例に上げて小川哲はいう。

 

「純文学というジャンルにおいては、そのような暗黙の了解をあえて破ることで、小説という形式の恣意性を露わにするという役割もある」(小川哲「小説を探しにいく(7)」『群像・1・P.424』講談社 二〇二五年)

 

ということなのだが、いわゆる「アンチ・ミステリ」もまた「形式の恣意性」の暴露なのだろうか。日本では夢野久作「ドグラ・マグラ」、中井英夫「虚無への供物」、竹本健治「匣の中の失落」などの有名作品がしばしば例に上げられる。しかしこれらの作品に見られる特徴はそれぞれに違っている。ただその狙いは一致していると言っていい。

 

「小説という形式の恣意性」は言わずもがな「世界という形式そのもの」はどうなのか、大多数の人々が頭の中で思い描いている「世界」あるいは「形式としての世界」さらに「単なる形式でしかない世界」の一体どこにどんな根拠があると言いうるのかと。言い換えれば「もっと別の世界を考えることもできたのではなかったか?」という問いとして十分読むことができる。そういう事情を読者の脳裏に意識化させることができているかどうか。その点で「アンチ・ミステリ」への意志、もしくは志の高い「アンチ・ミステリ」という作品成立の条件があるといえるだろう。

 

だが例えば、夢野久作といえば何を差し置いてでも「ドグラ・マグラ」ばかり連呼する奇怪な風習が日本には根強く残っていてこれまた辟易。作品「氷の涯」が持つ「アンチ・ミステリ」でありながら「リアル」な構造も忘れ難いと思うのだが。

 

また「形式の恣意性」の暴露をとことん追求しているとそれが作品の諸部分すべてを上げて「失敗を目指す」ことだと読者に気づかれてしまう。そう気づかれることをも目指して「失敗を目指す」映画にゴダール作品があり、その意味で映画界に長く君臨してきた。有名な「勝手に逃げろ/人生」で自転車に乗って逃げるシーン。自転車は重力の法則に従って坂を下っていくだろう。誰もがそう信じて疑っていないその瞬間、ゴダールはカメラを止めてみせる。観客が「あっ」と思っているうちに自転車は何事も起きていないかのように動き出す。観客は絶句しているようだ。と、再び自転車は止まる。実はカメラを止める編集がなされているに過ぎないわけだが。

 

今日なおコラージュに意義があるとすればそんなふうに「もっと別の世界を考えることもできたのではなかったか?」という問いかけを止めないことであり、だとしたら今後「あり得るだろう世界」へ意志する、ニーチェ流にいえば「あり得るだろう世界」へ「旅していく」ということに違いない。


Blog21・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて998

2024年12月07日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

読書再開。といっても徐々に。

 

薬物療法は現状維持。体重減量中。

 

節約生活。

 

午前五時に飼い猫の早朝のご飯。

 

体操の後、エクスペリメンタルやインダストリアルを中心に飼い猫がリラックスできそうな作品リスト作成中。

 

Autechre「P:NTIL」

本棚部屋に入って行って雑誌や新書の山で気楽に探検していたかと思ったら床で横になってくつろぐ。曲の途中でパソコン机の上に乗り画面のすぐそばで耳を傾けながら随分リラックス。中盤以降リズムらしきものはまるで溶け去ってしまうのだが最低音部のグルルル音が不定期に挿入されているので環境音楽的には何ら違和感を覚えないらしい。一曲7:09分の間ずっと鳴っている台所の金物音はいつものことながら猫のお気に入り。頭をさすってやるとゴロゴロ音で答える。