白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・二代目タマ’s ライフ419

2024年12月22日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇二四年十二月二十二日(日)。

 

早朝(午前五時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

朝食(午前八時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

昼食(午後一時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

夕食(午後六時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

タマさん、飼い主の布団の上にいるときね。おタマ~って声かけるだろ?そんで飼い主の顔を見上げるんだけど、時々這いつくばった姿勢でこちらを見上げると昔の時代劇で「おでえかんさま~」って感じになる。

 

「おでえかんさま~」?

 

代官に御と様を付けただけなんだけど、見てみるかい?

 

あ、これまた土下座してる。

 

なんで土下座かは前に話したよね。でも土下座させてる側もしてる側もなぜ土下座なのか、土と泥と水となのかその理由は知らない。知りもしないのに土下座させて喜んでる代官は見てて白けるんだけど土下座すれば済むかもしれないと思い込んでる側も見てて白ける。

 

要するに形だけ覚えれば何とかなるって両方とも信じ込んでる宗教に過ぎないってことでしょ?

 

うん。恐ろしく古代の宗教。身体を土に付けるのは「穢れを帯びたもの」であって逆に土に触れない場合は「浄められたもの」になってそのまますんなり「貴族である」ということになるという単純ながら怖い信仰が頭の中にこびりついてたんだな。人間は土と泥と水から始まったがゆえに土と泥と水とへ還元されるのを理由もわからず極端に恐れるわけさ。でも今の科学じゃこの逆説を解消できないという科学自身のさらなる逆説に陥ってる。

 

でもタマね、元々は野良だったから何となく感じるんだけど。お母さんがいるよ、どこかに。でね、お母さんの体内を通って生まれてきたんだ。そのときのぬるぬるした感触とね、土と泥と水を通り抜ける時の感触がとっても似てるって思うんだ。

 

そうだね。出産時には出血もする。当たり前さ。ところがそれを見た人間は女の体を恐怖すると同時にその恐怖心から逆に穢れたものとして貶めることを思いついた。自然の猛威に直面した人間がとっさに取った行動ととても似てる。あまりの恐怖に腰を抜かして同一視してしまうという錯覚を起こしたのさ。怖れるとともに穢すというふうにね。血が付いちゃいけない、土を踏んではいけない、とか全部迷信に過ぎないし迷信の暴力でしかない。それをどんなふうに科学が証明するかだけでなく解消するところまで進めていけるか。できないのならそれは科学じゃなくグローバルで一般的な大衆感覚レベルに収まり非-差別的である範囲で宗教のひとつとして承認されてもいいとは思う。カルトになっちゃだめさ。けど学術研究レベルとしてもしっかり線引き・区別できないというのなら世界から戦争規模の暴力や差別を撤廃するにはほど遠いってことだ。でもね、さしあたり問題はそこにつけ込んで莫大な利益を上げてる軍需会社が大手を振ってのし歩いてることさ。

 

あちゃ~。

 

黒猫繋がりの楽曲はノン・ジャンルな世界へ。ウェンディ・アイゼンバーグ。ジャズのようでもありフォークのようでもありポスト・ロックにもポスト・パンクにも聴こえる。地平線のようでもあり水平線のようでもある。いろんな挑戦が垣間見える。


Blog21・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて1013

2024年12月22日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

読書再開。といっても徐々に。

 

薬物療法は現状維持。

 

節約生活。

 

午前五時に飼い猫の早朝のご飯。

 

体操の後、エクスペリメンタルやインダストリアルを中心に飼い猫がリラックスできそうな作品リスト作成中。

 

Autechre「glos ceramic」

お気に入りのぬいぐるみと戯れ始める。どうも我が家の猫の場合猫自身が発するゴロゴロ音や水辺に生息する動物が発するグルルル音を始めとして昔の町工場でよく耳にした金属音が好みのようだ。一九七〇年代頃の町工場というのはかなり大きな音を立てていたわけだがすぐ近くに住んでいたことのある人間としては朝早くから大木を加工する大型電動機の轟音があって当たり前と思っていてさほど気にならなかった。家の周囲は繁華街を別にするとほとんどが材木加工場やバイク店や家具店や伝統工芸品店や電気店がその作業場ととも軒を連ねていた。野良猫たちもそんな環境で育っていた。早朝からごちゃごちゃした環境のなかで育ちながら明らかな騒音が気になり出したのは修学旅行で訪れた沖縄県嘉手納基地周辺の音を耳にしてから。轟音といっても日常生活を送っていく上でどうしても必要な工場の音かそうでない音かを聞き分けることに慣れていた耳にはあまりにも強烈な違和感を覚えた。問題はその音の大小以上にその音が日常生活維持継続のために本当に必要かどうかだという感覚は今なお変わらない。では沖縄県嘉手納基地周辺の猫はどうか。日常生活維持継続のために地域住民や飼い主にとって必要だとされる轟音ととも育っているのではないか。猫たちも慣れていてさして気にしていないだろう。ところが沖縄周辺と「本土」とを均等な位置に置いて計測することはできない。沖縄に巨大な米軍基地が建造される遥か前に大日本帝国軍の軍事基地があった。その頃すでにそこから生じる轟音も爆撃音も軍事侵攻のためには必要不可欠とされていたではなかったか。ここに「からくり」がある。というのもその爆音は戦争が始まるはるか以前、琉球周辺から東南アジアの広い地域にわたってそこで日常生活を営む人々やそこに生息する多様な動植物にとって不必要だったことはどんな世界史を総覧してみても明らかだからである。