白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・二代目タマ’s ライフ406

2024年12月09日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇二四年十二月九日(月)。

 

早朝(午前五時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

朝食(午前八時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

昼食(午後一時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

夕食(午後六時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

コーヒーカップでコーヒー飲むのかと思ったらなんか食べてたの、タマ見たよ。

 

うん。プリンだね。

 

タマ始めて見た。美味しいの?

 

まあまあかな。買ってきたプリンじゃなくて家のオーブンで焼いて冷ましておいたんだ。そう言やタマは始めて見たはず。

 

プリンっておうちで出来るんだ。

 

というのはこの物価高続きだろ?ストレスの蓄積度も尋常じゃないわけで元々甘いものはあんまり好みでなくても甘いものが食べたくなる。でもそうしょっちゅう買ってばかりじゃやっていけない。でもシンプルなプリンとかなら家にある材料で賄ったほうが長期的に考えてエコノミーだからね。上手く行ってよかった。

 

甘そうだけど何だかちょっぴり香ばしいんだね。でも猫が食べるもんじゃないってのもわかった。だから気になったんだ。とはいえね、一番気になったのは何だと思う?

 

さあ、何だろう。

 

えへん。コーヒーカップが出てきたからといって必ずしもコーヒーを飲むとは限らないってこと。

 

そう。よく気が付くようになってきたねタマ。ほめてあげよう。ほうら、頭すりすり。

 

ん?それって何か誤魔化されてるような。でも気持ちいいや。

 

ちなみに抹茶茶碗が出てきたとして、だからといって必ずしも抹茶を頂くとは限らない。

 

ということでしょ?

 

その昔かなり名品の抹茶茶碗でミルクを飲んでると高笑いを気取ってた日本有数の大批評家がいたんだけど、タマ、誰のことだかわかるかい?

 

わかんないに決まってるじゃん。

 

そりゃもう昭和の逸話ってのはひどいもんでね、駄法螺吹いてお金稼いでる人々が星の数ほどもいたんだ。

 

で抹茶茶碗でミルク飲んでるって豪語したのは誰なの?

 

小林秀雄っていう人なんだけど、そこそこまともなこと言ってたのは昭和五年から太平洋戦争が始まる前くらいの時期かな。まあかなり有名で時々鋭い批評をものにしてたのは確かだ。でも持ってる抹茶茶碗の価値まで見抜く幅広い鑑識眼や洞察力があったかどうかははっきり言って疑わしい。

 

どういうことなの?一芸に秀でる者は多芸に通じるとかって聞くけど。

 

そりゃ簡単なことさ。どんな分野でもまずは基本の繰り返しから念入りに始めれば誰にでもできるようになるっていう当たり前の話。ところが小林秀雄が重宝した茶碗は子供の頃から骨董好きだった青山二郎が太鼓判を押した品だからまず間違いないだろうと思って弄んでただけのことでね、小林の骨董自慢は青山二郎の受け売りに過ぎん。

 

はあ、そんなもんですか。

 

黒猫繋がりの楽曲はノン・ジャンルな世界へ。ジャブー。いわゆるブリストル・サウンド。といってもジャブーの音楽自体が色々変化してきたことからもわかるようにその要素はエレクトロニカ、エクスペリメンタル、オルタナティヴ・ヒップホップ、レゲエ、ダブなど解像度を上げていくときりがなく分解されうる。そういう聴き方よりも今作は今作のポップでいいのではと思える。

今日ももうひとつ。ティルザ。ひたすら安全牌ばかり取ってきた日本の歌謡界がとうとう追い抜かれる日はもうそこまで迫ってきている予感がする。実際に一日分追い抜かれたと気づいて慌てて挽回することにしたとしよう。でも他国のアーティストもみんな一日分やるわけで一度開いた距離がさらに開くことはあっても近づくことはない。


Blog21・国策としての政財官協同/端末機械化する人間の生産

2024年12月09日 | 日記・エッセイ・コラム

教育現場ではいつも何かしらの問題が起きている。いじめ、不登校、学歴格差等々。しばしばマス-コミで取り上げられる諸問題。ところがその同じマス-コミであるにもかかわらずなぜか教育という「枠組みそのもの」を問題にすることはほとんどない。

 

原武史は慶應義塾高校へ進学する。だが慶應義塾大学への推薦は辞退する。高校三年で「推薦辞退書」を提出している。普通部時代を描いた「日吉アカデミア一九七六」連載の最終回にこうある。

 

(1)「修学旅行が終わった一九七七年十月から普通部を卒業する七八年三月までの記憶は、万事においてやる気が起こらなかったせいか、三年間の中学生活のなかで最も曖昧模糊としている。

そのなかで覚えていることの一つは、二学期が終わる二日前に当たる十二月十七日に音楽鑑賞会が開かれた幼稚舎に行ったときのことだ。普通部生のほぼ半数が幼稚舎出身だったが、渋谷区の天現寺橋に近い幼稚舎を訪れたのは、このときが初めてだった。

音楽鑑賞会の会場となった講堂『自尊館』の入口には、福澤諭吉の巨大な肖像画が掲げられていた。普通部の体育館の入り口に同様の肖像画はなく、違和感を覚えた。一年前の九月に毛沢東が死去したとき、毛沢東の肖像画が掲げられた北京の天安門の映像がテレビでさんざん流れていたのを思い出した。

小学校時代に日々この肖像画を見ながら育っていたら、どうなっていたか。『滝山コミューン』の舞台となった東久留米市立第七小学校とは別の意味での洗脳教育を受けていたのではないか」(原武史「日吉アカデミア一九七六(13)」『群像・1・P.298』講談社 二〇二五年)

 

(2)幼稚舎出身の同級生にどうしてもなじめなかったのは、普通部に入る前の六年間の環境が全く違うからだというのが改めてよくわかった。彼らにとって、普通部は幼稚舎の延長線上にある。日吉に『アカデミア』があると思ったのはとんでもない間違いで、実態は『コミューン』と変わらないかもしれないのだ」(原武史「日吉アカデミア一九七六(13)」『群像・1・P.299』講談社 二〇二五年)

 

そして現在もなお続く均質的「団地育ち」の子ども、あるいは同質性が極めて高い「マンション育ち」の子どもはどうか。ニーチェのいう「群畜」の生産-再生産はますます回転の度を増しているように見える。

 

「われわれの行為、観念、感情、運動すらもーーーすくなくともそれらの一部分がーーーわれわれの意識にのぼってくるということは、長いあいだ人間を支配してきた恐るべき『やむなき必要』の結果なのだ。人間は、最も危険にさらされた動物として、救助や保護を《必要とした》、人間は《同類を必要とした》、人間は自分の危急を言い表し自分を分からせるすべを知らねばならなかった、ーーーこうしたすべてのことのために人間は何はおいてまず『意識』を必要とした、つまり自分に何が不足しているかを『知る』こと、自分がどんな気分でいるかを『知る』こと、自分が何を考えているかを『知る』ことが、必要であった。なぜなら、もう一度言うが、人間は一切の生あるものと同じく絶えず考えてはいる、がそれを知らないでいるからである。《意識にのぼって》くる思考は、その知られないでいる思考の極めて僅少の部分、いうならばその最も表面的な部分、最も粗悪な部分にすぎない。ーーーというのも、この意識された思考だけが、《言語をもって、すなわち伝達記号》ーーーこれで意識の素性そのものがあばきだされるがーーー《をもって営まれる》からである。要すれば、言葉の発達と意識の発達(理性の発達では《なく》、たんに理性の自意識化の発達)とは、手を携えてすすむ。付言すれば、人と人との間の橋渡しの役をはたすのは、ただたんに言葉だけではなく、眼差しや圧力や身振りもそうである。われわれ自身における感覚印象の意識化、それらの印象を固定することができ、またいわばこれをわれわれの外に表出する力は、これら印象をば記号を媒介にして《他人に》伝達する必要が増すにつれて増大した。記号を案出する人間は、同時に、いよいよ鋭く自分自身を意識する人間である。人間は、社会的動物としてはじめて、自分自身を意識するすべを覚えたのだ、ーーー人間は今もってそうやっているし、いよいよそうやってゆくのだ。ーーーお察しのとおり、私の考えは、こうだーーー意識は、もともと、人間の個的実存に属するものでなく、むしろ人間における共同体的かつ群畜的な本性に属している。従って理の当然として、意識はまた、共同体的かつ群畜的な効用に関する点でだけ、精妙な発達をとげてきた。また従って、われわれのひとりびとりは、自分自身をできるかぎり個的に《理解し》よう、『自己自身を知ろう』と、どんなに望んでも、意識にのぼってくるのはいつもただ他ならぬ自分における非個的なもの、すなわち自分における『平均的なもの』だけであるだろう、ーーーわれわれの思想そのものが、たえず、意識の性格によってーーー意識の内に君臨する『種族の守護霊』によってーーーいわば《多数決にかけられ》、群畜的遠近法に訳し戻される。われわれの行為は、根本において一つ一つみな比類ない仕方で個人的であり、唯一的であり、あくまでも個性的である、それには疑いの余地がない。それなのに、われわれがそれらを意識に翻訳するやいなや、《それらはもうそう見えなくなる》ーーーこれこそが《私》の解する真の現象論であり遠近法である。《動物的意識》の本性の然らしめるところ、当然つぎのような事態があらわれる。すなわち、われわれに意識されうる世界は表面的世界にして記号世界であるにすぎない、一般化された世界であり凡常化された世界にすぎない、ーーー意識されるものの一切は、意識されるそのことによって深みを失い、薄っぺらになり、比較的に愚劣となり、一般化され、記号に堕し、群畜的標識に《化する》。すべて意識化というものには、大きなしたたかな頽廃が、偽造が、皮相化と一般化が、結びついている」(ニーチェ「悦ばしき知識・三五四・P.393~395」ちくま学芸文庫 一九九三年)

 

もはやマス-コミは指摘しようともしない。問題などどこにもないかのようなのだ。教育の問題は、いじめ、不登校、学歴格差等々などであって、教育という「枠組みそのもの」、現今の教育「制度」自体が問題として俎上に乗せられることはまずない。

 

同一性の生産。そのための<パノプティコン>装置としての教育機関。人間の成長過程におけるすべての数値化、データバンク化。社会的規模でそれが根幹から問題視されることはまずない。むしろ逆に幼少期から思春期生徒らの端末機械化ばかりがどんどん推進されている。国家的プロジェクト、一貫した国策としての同質的端末人間の生産過程としての教育課程が。


Blog21・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて1000

2024年12月09日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

読書再開。といっても徐々に。

 

薬物療法は現状維持。体重減量中。

 

節約生活。

 

午前五時に飼い猫の早朝のご飯。

 

体操の後、エクスペリメンタルやインダストリアルを中心に飼い猫がリラックスできそうな作品リスト作成中。

 

 

Autechre「Pro Radii」

 

インパクトのあるイントロ。猫は飼い主のパソコンデスクの上にひょいと乗る。辞書類に少し猫自身の匂いを付けた後すぐパソコン本体に横腹ですりすりして匂いを付ける。途中で子供のままごとのような薄っぺらい音響へ変化するがまるで気にする様子はなく再びラストへ向けてゴロゴログルルルと重低音が鳴り響く付近では本棚部屋の入り口でお利口におっちんして飼い主が遊んでくれるのを待つ。お腹おっぴろげで恍惚の表情も。