白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・二代目タマ’s ライフ403

2024年12月06日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇二四年十二月六日(金)。

 

早朝(午前五時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

朝食(午前八時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

昼食(午後一時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

夕食(午後六時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

飼い主さあ、今日は月に一度の文芸誌の発売日で朝からそわそわしてなかった?

 

かも知れないなあ。文芸誌の場合は朝刊の新聞広告に指定席ってのがあっていわゆる四大誌とも揃って載るはずなんだけど見当たらなかったから。発売日は首都圏限定で守られることはあるけど地方は遅れる場合が時々ある。でも買い物ついでにスーパーに入ってる書店を覗いてみたら置いてあった。

 

四大誌なのにどうしていつもひとつだけなの?不公平だと思います。

 

お前さんね、どこでそんな言葉を、って言うか、言葉だけ覚えてくるんだ。ほんとうはね、そりゃ四個ともほしいの。でもお金ないからひとつに絞って購読してるのさ。で地方の書店ってのは相変わらず貧しくなる限りで定期購読してる人は多分予約して受け取ってるんだよね。直接配送してもらうとか。でも飼い主は書店の棚を一巡して見ておきたいっていう目的が子供時代からの楽しみでもある。だから買い物と一緒に見に行くわけ。それがこの夏くらいからかなあ、とうとう飼い主が買ってる文芸誌しか置かなくなった。それも一冊だけぽつん。そのぶんハウツー本とかコンサルタント指南書とか、がばがば増えてさ。元ネタはほとんど同じだってのに買う人が多いみたいだ。

 

元ネタってあるの?

 

一九八〇年代半ばのことさ。古今東西の古典からこれって人物とかその言葉から何でもありって感じでパッチワークして書籍にする作業が常態化してきた。基本はそれで今も特に変わってない。で時事ネタに合わせて切り貼り作業のパターンをささっと変えるだけ。ネットの普及がそれに輪をかけた。切り貼り作業の簡略化ってこともあるけど問題はもっと深刻だね。ネット見てると人間が生き残っていくためにはさもそれのみが有効であり、それのみが「勝ち組」として勝利するための神聖不可侵なバイブルって感じなんだ。ところがバイブルにしちゃあこれまた奇妙なところがあって年に一、二度入れ換わる。バイブルって「神」の発言集じゃん?それが撤回されたり差し換えになったりする。最近では「神」もあまりに忙しいのか不適切な箇所がございました訂正しますって紙が乱暴に挟み込まれてたりしててね、笑っちゃいけないんだけどでも笑っちゃうよね。

 

そんなもんですか。

 

書店の光景もあれよという間もなく変わっちゃったね。この三年ほどかな。でも犬猫さん関係の雑誌は堅調みたいだ。

 

ありがたいことです。

 

飼い主の妻はどうしてた?うちは暮らしが逼迫してるから泣きそうになりながらも仕方なく国会中継見てたようだけど。

 

そうなんだ。タマも一緒にテレビ見てあげてたよ。

 

お利口だね。

 

そんでね、昨日のこと思い出したんだ。飼い主言ってたよね。オヤジギャグに対してオヤジギャグで批判するなら誰でもできるとかそういうの。タマとしては政治とか哲学とかの話なんだなあとかろうじてわかるものの続きがあるの?

 

そうだったね。ちなみにタマはどう思う?

 

ただ単なる駄洒落的な反撃では意味ないとおもう。猫の世界ではそうだよ。目撃者証言によるとタマも保護された時はカラスさんに空を運ばれてる途中でうっかりカラスさんが路上へ落として行ったんだ。タマが何一つしないでなされるがまま落っこちてこなかったら今頃食べられてたらしいって。

 

それは聞いてる。さらにまだ目の開いてない子猫の頃にアスファルトの上へ直撃だからね。もしかしたら唾液腺嚢胞の原因はそれかも知れない。カラスさんに手術代請求したいところなんだけどカラスさんはカラスさんで食べないと生きていけないから外の世界は外の世界でサバイバルなんだよ。

 

でもそのこととオヤジギャグ批判が無効だってことと国会中継と一体どんな関係があるの?タマにはまたしてもちんぷんかんぷんになってくる。

 

今の議員さんたちの政治戦略は限りなくオヤジギャグ批判に等しいってことさ。日本の国会運営は与野党って言っても基本的に二大政党制になってるわけじゃない。さらに必ずしも二大政党制がいいってことでもない。それ以上に最悪なのは問いと答えとが今なおひとつのセットになってるってことなんだ。最大与党の党首がほとんどすべての質問に答えを与える形式なんだけど、質問する側が質問する前すでに返ってくる答えがわかりきってやってる。なんかオヤジギャグみたいな訳のわかんない施政方針に対して追求する側が駄洒落で返してみて何かすげえこと言ってやったって声のトーンを張り上げてどうだ!って顔して見せてる。このままでは責める側も責められる側もそれを真面目に見守ってる国民生活者も全部ひっくるめて三者三様ともに救われないって。そんな状況をまあ喩えて言うとするならオヤジギャグ批判はもはや無効だと飼い主は言いたいわけだね。

 

ふ~ん。そんな意味があったのかあ。ひと晩寝たら忘れてるかもだけど。

 

黒猫繋がりの楽曲はノン・ジャンルな世界へ。ジャブー。いわゆるブリストル・サウンド。といってもジャブーの音楽自体が色々変化してきたことからもわかるようにその要素はエレクトロニカ、エクスペリメンタル、オルタナティヴ・ヒップホップ、レゲエ、ダブなど解像度を上げていくときりがなく分解されうる。そういう聴き方よりも今作は今作のポップでいいのではと思える。

今日はもうひとつ。ティルザ。ひたすら安全牌ばかり取ってきた日本の歌謡界がとうとう追い抜かれる日はもうそこまで迫ってきている予感がする。実際に一日分追い抜かれたと気づいて慌てて挽回することにしたとしよう。でも他国のアーティストもみんな一日分やるわけで一度開いた距離がさらに開くことはあっても近づくことはない。


Blog21・「モラ原ヤバ雄」からの逃走線

2024年12月06日 | 日記・エッセイ・コラム

離婚が人生最大のテーマとして繰り返し脳裏に再帰するのは離婚についてそうならざるを得ない「超ノーマルな」人々に限ってである。そのために「制度」がある。だから「制度」を使えばそれでいいというほど単純な問題では済まされない。そんなビジネスライクな関係では決してないことが人間を、その当事者を、半狂乱に陥れて憚るところを知らない。

 

どうするか。「私」は「粒子になる」。一旦解体される。そこまで行くほかない。「超ノーマル」でないとしても、あるいはどこにでもいそうな「ノーマル」な人々もまた、ほんの一度でも取り返しのつかない破局(ここでは離婚)へ立ち至ったとなるや離婚へ向けて超絶的怪力を発揮する必要に迫られる。周囲の目にそれの姿は「アブノーマル」にしか見えない。「私」は友人の「蘭」に相談を持ちかけるわけだが二人の間に深々とした裂け目が映し出される、だけでなく両者ともにその深淵を覗き込まねばならない。もしかして「私」は友人「蘭」を煉獄へ引きずり込みたがっているのだろうか。ともかく「蘭」は相談に乗ってくれる。そのどこかワトソン的な凡人キャラが小説を隅から隅まで暗黒一色で塗り潰してしまう歯止めとして機能する。

 

とはいえ。だからといって相談すればそれで解決するだろうか。しない。解決とは何かと問われればなるほど上手く「離婚」する方法なのだがそれに要する法的事務手続きとはまるで異なる次元を「私」と「蘭」とが同時に共有できるだろうか。できない。もはや「私」は「粒子になる」しか仕方がないとはそういう次元において始めてあらわになる実に生々しい体験をくぐり抜けることにほかならない。

 

けれども一体どんな夫から逃れたいのか。蘭に言葉を借りれば「モラ原ヤバ雄」。以下「モラ男」。どんなふうに「モラ男」なのか。どこかプルースト作品に登場してアルベルチーヌに近づく「私」を思わせぬでもない。引用したい。

 

「私は接吻するに先立って、アルベルチーヌが私と知り合う前に浜辺でただよわせていた神秘にあらためて満たされ、それ以前に暮らしていた土地までが本人のなかに見出せたらどんなにいいだろうと思った。私の知らない土地は無理だとしても、すくなくともその代わりに共にすごしたバルベックのありとあらゆる想い出、私の窓の下で砕ける波の音や子供たちの叫び声などをアルベルチーヌのなかに入れこむことができた。だがアルベルチーヌの頬という美しいバラ色の球体のうえに視線を走らせ、やさしく湾曲した頬の表面がみごとな黒髪の最初の褶曲(しゅうきょく)の麓のところで消え去ったり、黒髪がいくつもの山脈となって躍動しては険しい支脈を屹立させたかと思うと波立つ谷間をつくるのを目の当たりにすると、私はこう思わずにはいられなかった。『バルベックでは失敗したが、今度はいよいよアルベルチーヌの頬という未知のバラの味を知るんだ。人生のなかで事物や人間にたどらせることのできる地平はそう多くないのだから、あらゆる顔のなかから選びとった咲きほこる晴れやかな顔を遠くの額縁から取り出し、この新たな地平に連れてきて、その顔をついに唇によって知ることができたら、私の人生もいわば完了したとみなせるかもしれない』。私がそう思ったのは、唇による認識が存在すると信じこんでいたからである。私は肉体というこのバラの味をこれから知ることになると思いこんでいたが、それはウニと比べて、いやクジラと比べても明らかに一段と進化した生物である人間でも、やはり肝心の器官をいくつか欠いていること、とりわけ接吻に役立つ器官をなんら備えていないことに想い至らなかったからだ。人はこの欠けた器官を唇によって補っているので、愛する女性を角質化した牙で愛撫せざるをえない場合よりは、いくらかは満足できる成果が得られているのかもしれぬ。だが唇というものは、食欲をそそる対象の風味を口蓋(こうがい)に伝えるには適した器官であるが、頬を味わうにはそこには入りこめず、囲いの壁につき当たってその表面をさまようのに甘んじるほかなく、対象を間違えたとは理解できず、当てが外れたとも認めはしない。そもそも唇は、たとえはるかに熟練して上達した唇も、肉にじかに触れているその瞬間でさえ、自然が現段階では捉えさせてくれない風味をそれ以上に味わうことはできないだろう。というのも唇がその糧をなにひとつ見出しえないこの地帯では、唇は孤独で、ずいぶん前から視線にも、ついで臭覚にも見放されているからである。まずは視線から接吻するよう勧めれれた私の口が頬に近づくにつれて、移動する視線はつぎからつぎへと新たな頬を目の当たりにした。ルーペで眺めるみたいに間近で見る首は、皮膚のきめの粗さのなかにたくましさをあらわにして、顔の性格を一変させてしまった。写真という最新の技術ーーーそれは、近くで見ると往々にして塔ほどに高いと思われた家並みをすべて大聖堂の下方に横たえたり、いくつもの史的建造物をまるで連隊の訓練のよういつぎつぎと縦隊や散開隊形や密集隊形にさせたり、さきほどはずいぶん離れていたピアツェッタの二本の円柱をぴったりくっつくほどい近づけたり、近くにあるサルーテ教会をかなたに遠ざけたり、蒼白くぼやけた背景のもと、広大な水平線を、ひとつの橋のアーチ内や、とある窓枠内や、前景に位置する溌剌(はつらつ)とした色合いの一本の木の葉叢(はむら)のあいだに収めたり、同じひとつの教会の背景としてつぎつぎと他のあらゆる教会のアーケードを配置したりする技法である。私からするとこの技法だけが、接吻と同じく、一定の外観をもつ一個の事物と信じていたものから、それと同一の多数のべつのものを出現させることができるのだ。いずれもある視点から生じたものだが、どの視点もいずれ劣らぬ正当性を備えているからである。とどのつまり、バルベックにおいてアルベルチーヌが私の目にしばしば違って見えたのと同じで、今や、ひとりの人間がわれわれとの多様な出会いにおいて見せる風姿や色合いの変化の速度を桁外れに早めることによって、私がそんな出会いのすべてを数秒のなかに収めては、その人の個性を多様化する現象を実験的に再創造しようとしたかのように、私の唇がアルベルチーヌの頬に達するまでの短い行程のあいだに、その人の秘めるあらゆる可能性がまるで容器からつぎつぎと取り出されたかのように、私には無数のアルベルチーヌが見えた。この娘は、いくつもの顔をもつひとりの女神よろしく、私が最後に見た娘に近づこうとすると、すぐまさべつの娘に変わってしまう。接吻のためには、唇が適していないのと同じく鼻孔と目の位置も不適切であるーーー突然、目が見えなくなり、ついで鼻が押しつぶされて何の匂いも感じなくなり、だからといってあれほど望んだバラ色の味をそれ以上に深く知ることもなく、こうした不愉快な徴候によって私は、とうとう自分がアルベルチーヌの頬に接吻しているのだと悟った」(プルースト「失われた時を求めて7・第三篇・三・二・二・P.59~63」岩波文庫 二〇一四年)

 

離婚への意志と化している「私」。「モラ男」から見ればどれほど美しくともその意志は固い。「モラ男」が「私」を見る目。プルーストによれば次のようにも書かれている。その点で「粒子になる」可能性は十分認められるだろう。

 

「なにかを取りにゆく口実を設けていっとき部屋を出て、そのあいだアルベルチーヌを私のベッドに横にならせておいた。戻ってみるとアルベルチーヌはもう眠っていて、私が目の当たりにしたのは、本人が完全に正面を向くとそうなるべつの女性であった。といってもアルベルチーヌはたちまちその個性を変えてしまう。私がそのそばに横になって、ふたたび横顔を見るからだ。私がその手をとったり肩や頬のうえに私の手を置いたりするのも自由自在で、アルベルチーヌはあいかわらず眠っている。その顔をかかえて乱暴に向きを変え、その顔を私の唇に押しあてたり、その両腕を私の首に巻きつけたりしても相も変わらず眠っているさまは、まるで止まらずに時を刻みつづける時計のようでも、どんな姿勢をとらせても生きつづける動物のようでも、どんな支柱を与えてもそこに蔓(つる)を伸ばしつづける蔓性植物マルバアサガオのようでもあった。私が手を触れると、そのたびに寝息だけが変化する。まるでアルベルチーヌ自身が一つの楽器で、演奏する私がその弦のひとつひとつから異なる音をひき出して楽器にさまざまな転調を奏でさせているかのようである。私の嫉妬は鎮まってゆく。その規則正しい寝息がはっきり示しているように、アルベルチーヌがただ息をする存在以外のなにものでもなくなったように感じられるからである。この寝息をつうじて表現されているのは純粋に生理的な機能であって、この機能は、さらさらと流れるだけで、ことばの厚みも沈黙の厚みを持たず、いかなる悪も知らないがゆえに、人間から出てきたというよりも葦(あし)のうつろな茎から出てきた息吹というべきか、それに耳を傾けているとアルベルチーヌが肉体的のみならず精神的にもあらゆるものから守られていると感じる私にとっては、文字どおり天国の息吹であって、まさに天使たちの汚れなき歌声であった。とはいえふと私は、この寝息のなかには、記憶がもたらす多くの人間の名前が奏でられているのかもしれないと思った。この音楽にときに人間の声が加わることもあったからである」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.243~244」岩波文庫 二〇一六年)

 

植物や動物への変身はいつでも可能なのだ。「私」も「粒子になる」ことができるだろう。そしてバラバラの破片ばかりへと解体された「粒子」から再び何らかの「物体」へ生成していく。やり直せる。

 

ところで金原ひとみは、ありふれた事情に過ぎないと思いながら読み流すことができるにしてもなお、とても大事な点について少し触れている。

 

「『離婚経験者は、離婚できないっていう特殊な苦しみを、<離婚できないんです>の一言で察してくれる。私の苦しみはそういう定型的な苦しみ、痛みなんだと思うとすごく楽になる。誰かが夫のことをひどい言葉で罵ってくれると、私の苦しみが伝播して、相手のかつての苦しみに溶けて、少しだけど流れてく。いつか私も無事離婚ができた時には、誰かの離婚の相談を受けて、誰かの苦しみを自分に溶かしてもらいたいって思う。つまり私は今、たくさんの他者と強烈に溶け合ってるってことで、ここまでの他者との融解は人生に於いて初めての経験なんだよ』」(金原ひとみ「自己愛的な変質者のレクイエム」『群像・1・P.45』講談社 二〇二五年)

 

小説とは随分かけ離れることになるかも知れない。ところが「他者との融解」可能性とその実在性という観点に立ってみるとはるかに広い視野が開かれるようにおもえる。むしろ小説の側からその呼び声を聞き取らないわけにはいかない。極めて個人的な感想に過ぎないかもしれないとしても。

 

新自由主義の行き詰まりについて。行き詰まりにもかかわらず「他に方法があるのか?」と口喧しい昨今。頭痛や嘔吐に苦しむのは何度も繰り返し世の中を流通して止まないこのステレオタイプ「他に方法があるのか?」である。問い返そうものなら逆に袋叩きに合わされそうな気配なのだが、それにも増して新自由主義自体が今後とも実効性のある代替案を提出するに至っていないのもまた事実だ。

 

新自由主義はまったく空気のように充満しているばかりかある種の脅迫性さえ常に伴っている。新自由主義が反資本主義から勝ち取り自分のものにしてきた言葉も数多い。だがそうすればするほどかえって銃眼を自分自身で増やしていくネットワークであることに変わりはない。

 

その上でいうとしたなら言えるだろう代替案はある。というか、そっくりそのまま残っている。

 

「資本主義的生産様式から生まれる資本主義的取得様式は、したがってまた資本主義的私有も、自分の労働にもとづく個人的な私有の第一の否定である。しかし、資本主義的生産は、一つの自然過程の必然性をもって、それ自身の否定を生みだす。それは否定の否定である。この否定は、私有を再建しはしないが、しかし、資本主義時代の成果を基礎とする個人的所有をつくりだす。すなわち、協業と土地の共同占有と労働そのものによって生産される生産手段の共同占有とを基礎とする個人的所有をつくりだす」(マルクス「資本論・第一部・第七篇・第二十四章・P.438」国民文庫 一九七二年)

 

「モラ原ヤバ雄」の横行を成立させている諸条件もまた解体することができるのである。


Blog21・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて997

2024年12月06日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

読書再開。といっても徐々に。

 

薬物療法は現状維持。体重減量中。

 

節約生活。

 

午前五時に飼い猫の早朝のご飯。

 

体操の後、エクスペリメンタルやインダストリアルを中心に飼い猫がリラックスできそうな作品リスト作成中。

 

Autechre「SURRIPERE」

猫はパソコン机の上に陣取って横たわり結構リラックスした感じ。飼い主より和んでいるように見えるのだがその理由はさっぱりわからない。同じテンポのままアクセントが低音部へ移動。4:00付近から変化球が徐々に投じられて飽きさせない。一曲11:23分とそこそこの長さがありせわしなくないところもいい。飼い主にすれば世の中に充満して止まない胃もたれを起こすわざとらしいメロディの洪水をシャットアウトするための実験的な避難に適しているので聴くわけだがそれで飼い主が落ち着いているから飼い猫も安心してそばで横になるのかも知れない。ふだん遊んでほしい時や食事の挨拶などで頭でごちんとする以外は近くても飼い主から30~50センチ程度は距離を置くタイプだけれどもこのような音楽で一緒にリラックスしている時はパソコンの真ん前で飼い主にべったりくっついて逃げて行かない。