白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・二代目タマ’s ライフ422

2024年12月25日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇二四年十二月二十五日(水)。

 

早朝(午前五時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

朝食(午前八時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

昼食(午後一時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

夕食(午後六時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

飼い主さあ、昨今の大阪の空気には嘔吐を催すとか言ってるけど。

 

大学在学中から障害者介護をやっていた頃にかけてのことさ。大阪ではレイプ事件で泣き寝入りを余儀なくされる女性が山のようにいたんだ。フェミニスト団体はまだ小さくてなかなか個々のケースに寄り添ってケアする体制が十分じゃなかった。でも一九九〇年代後半から二〇〇〇年代に入る頃には司法との繋がりもだんだん出来上がってきて活動の余地も広がり出した。ところがその動きを快く思っていない人々も大阪には多かったのさ。「まあええやん」とか「やめていやだも好きのうちなんだろ?」とかいうオッサン的風土を恥じるどころかそれが大阪のふところの深いところだとかうそぶいてまんまとスルーしてしまうオヤジ文化天国をいつまでも謳歌していたいという稚拙な感情を逆に世界的に稀な文化として誇らしげにのし歩くって空気。日本広しといえども大阪だけは違うんだという大自慢する倒錯的空気。

 

まだ残ってるの?

 

そんな稚拙な大自慢はそもそも自慢できるもんじゃないし、とっととやめようという人々は沢山いるんだけど、ちょっと目を離すとすぐ元に戻ってしまうというこれまた稚拙に輪をかけた幼稚ぶりなのさ。だから大学は大阪でも就職は他府県を希望する学生って結構いたんだ。けど長引く不況で就職先を選んでいる暇をなかなか与えない構造が日本で定着してきた。その隙をついて大阪のオッサン的風土にいつまでも浸かりきっていたいという勢力が復活してきたってことになるんだけど、実際は大阪からオッサン的風土をしっかり消滅させてしまおうという動きはさほど広がりを見せなかった。だから復活も容易なわけさ。AVのなかの演出を実際の日常生活でやってしまっても「ええじゃないか」。乗り悪いぞお前って、そんなこと言って差別する側を大いに支援する空気が三度の飯と同じほど好きでたまらない土壌がまだ残ってるよね。

 

なんだか怖いって誰か言わないの?

 

それを言うとね、逆に叩き潰されるんだ。筋違いの話に持っていかれたりとかね。これまで何度もあったように今なおそういう土壌がぼこぼこ残されてる。世界遺産並みに。

 

じゃあ泣き寝入り文化を世界遺産にしちゃえばいいんじゃない?

 

いや、世界どころか地球上に残る代表的陰惨文化のひとつと言ってもいいくらいだと思うよ。大阪の裁判所がおかしな判決を出せる理由ってのは他府県で仕事してる一般的な弁護士が言うような法的手続きの次元で論じてる限り決して見えてこない。大阪という歴史的土壌のなかに「言った者勝ち、やった者勝ちの強姦主義」が深く根付いてるところからごっそり炙り出してこないことには不毛な水掛け論で終わっちゃう。

 

はあ、そんなもんですか。

 

司法の土俵に乗って司法の言葉を用いていくら丁寧に訴えてみてもその司法の言葉がただ単なる手続論次元へ持ち回されて結局被害者が泣き寝入りせざるを得ない仕組みを長く容認してきたせいで今の大阪の悲惨を結果してるわけでその逆じゃないのさ。

 

マス-コミっていうかテレビではほとんど見ないけど。

 

マス-コミは加害者目線に立って弱いものいじめを見せるのが好きなんだよ。読者視聴者の多くが悦んでくれる。死者でも出ない限りね、マス-コミにすれば性的暴力事件は繰り返し儲けさせてくれる商品だし。

 

それで食べてるのかぁ。

 

黒猫繋がりの楽曲はノン・ジャンルな世界へ。マルコポロポロ。地球が崩壊し出すと人間社会も大抵崩壊し出しているのが通例。例えばなぜごくふつうの飲料水を手にいれるためだけなのにわざわざ値上がりするのか。身体の七割は水分から出来ているにもかかわらず。それでも多くの人間は絶滅するまでわかろうとしない。そんななかから湧き水のように出てくる音楽というものがとりわけ近代の成立とともに多岐に渡り出現するようになった。これもまたそのひとつなのだろう。


Blog21・大阪の空気/「なあなあ」的差別的バックラッシュ

2024年12月25日 | 日記・エッセイ・コラム

滋賀医大男子学生性的暴行逆転無罪判決。

 

大阪地検元検事正性的暴行無罪主張。

 

この空気の流れには曰く言い難い違和感を覚える。大阪を中心に裁判官を糾弾する闘争が組み上げられているようで、その動きは権利とともに保障されるべきだろう。ところがしかしこの少し前から大手出版社から出た「差別本」をめぐって奇妙としか思えない判決が大阪高裁で出されたりしていた。問題は裁判官個人に還元できるものかどうか、むしろもっと大きなバックラッシュ的な流れとして理解されるべき問いなのではと思うのである。

 

差別はどう考えても差別だろう。そしてまたそのような空気を容認してしまう土地柄あるいは風土がまたしても大阪の法曹界では支配的になってきているのかとあまりに不可解に見える。ではしかしどうしてこの種のバックラッシュが起こってくるのか。一九八〇年代後半から一九九〇年代一杯を通して問題は次のような形で変形していくと指摘されていた。

 

「資本の身体は、脱土地化した社会体ではあるものの、同時にまた他の一切の社会体よりも情け容赦のない社会体でさえもある。資本主義の採用した公理系は、種々の流れのエネルギーを、こうした社会体としての資本の身体の上で束縛された状態に維持するものなのである。これとは逆に、分裂症はまさに《絶対的な》極限であり、この極限においては、種々の流れは、脱社会化した器官なき身体の上の自由な状態に移行することになる。だから、こういうことができる。分裂症は資本主義そのものの《外なる》極限、つまり資本主義自身の最も深い傾向のゆきつく終着点であるが、資本主義は、この傾向をみずからに禁じ、この極限を押しのけおきかえて、これを自分自身の相対的な《内在的な》極限に(つまり、拡大する規模において、自分が再生産することをやめない極限に)代えるのだ、と。資本主義は、自分が一方の手で脱コード化するものを、他方の手で公理系化する。相反傾向をもったマルクス主義の法則は、こうした仕方であらためて解釈し直されなければならない。したがって、分裂症は資本主義の全分野の端から端にまで浸透している。しかし、この資本主義の全分野にとって問題であるのは、ひとつの世界的公理系の中でこの分裂症の電荷とエネルギーとを連結しておくことである。この世界的公理系は、新たなる内なる極限を、脱コード化した種々の流れの革命的な力にたえず対立させているものであるからである。こうした体制においては、脱コード化と、公理系化とを(つまり、消滅したコードに代わって到来してくる公理系化とを)区別することは、(たとえ二つの時期に区別することでしかないとしても)不可能なことである。種々の流れが資本主義によって脱コード化され、《そして》公理系化されるのは、同時なのである。だから、分裂症は資本主義との同一性を示すものではなくして、逆にそれとの相異、それとの隔たり、その死を示すものなのである。通貨の種々の流れは、完全に分裂症的な実在であるが、しかし、これらの実在が現実に存在して働くことになるのは、この実在を追いはらい押しのける内在的な公理系の中においてでしかない。銀行家、将軍、産業家、中級上級幹部、大臣といった人々の言語活動は、完全に分裂症的な言語活動であるが、この言語活動が作動するのは、ただ統計的に、つながりが平板単調なる公理系の中においてでしかない。つまり、この言語活動を資本主義の秩序の維持に役立てる、あの公理系の中においてでしかない」(ドゥルーズ&ガタリ「アンチ・オイディプス・第三章・P.294~295」河出書房新社 一九八六年)

 

加速主義を世界中に知らしめた大著からの引用。

 

要するにそんな資本主義ならより一層加速してどろどろに溶解してしまえばよいというニック・ランドに代表される右派加速主義者の台頭が際立った。ニック・ランド流の加速主義はドナルド・トランプを大いに扇動しその気にさせ新自由主義を極端化することに成功、本当にアメリカの半壊状態を招いたことで今ではトランプ自身でさえ自業自得的に警戒する態度を時おり滲ませている。

 

また左派加速主義者が考えたように昨今の資本主義はもはや顔を持たないネットワークでしかないとしてこのネットワークの中で、例えば「減速主義」するという戦略を採用したし今なおしている人々は層の厚みの点で世界的展開を見せている。この傾向は政治運動にのみ限らず音楽、映画、絵画、文学、これまでとは異なるテクノロジー開発といった分野へ多岐に分け入りつつ広がっている。若年層の動きが目立つけれども経験を踏んできた五〇代以上の古参の活躍も目立つ。

 

ところがここにきてどういうわけか日本の、それも特に大阪という社会的弱者がほとんど常に煮湯を飲まされてきた歴史を持つ土地、性的マイノリティ被害が「なあなあ」で済まされやすいいい加減この上ない風土で、バックラッシュ的な動きが司法の場を中心に再び逆に加速し始めたのか。注視しておく必要性を感じる。


Blog21・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて1016

2024年12月25日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

読書再開。といっても徐々に。

 

薬物療法は現状維持。

 

節約生活。

 

午前五時に飼い猫の早朝のご飯。

 

体操の後、エクスペリメンタルやインダストリアルを中心に飼い猫がリラックスできそうな作品リスト作成中。

 

Autechre「icari」

町工場から漏れ聴こえてきそうな音が冒頭からコンスタントに響く。猫は慣れた様子でパソコン机の上に積み上げた書籍の上でおとなくしおっちん。本棚部屋へお気に入りのぬいぐるみを投げてやるとすっと飛び移り走って行って軽くタッチ。今度は逆方向に置いてあるギターアンプへ向けてぬいぐるみを投げてやるとこれまた駆け寄って軽くタッチ。気分体調ともに軽快なようだ。6:53付近からリズムのアクセント移動が顕著化。町工場近辺の音響から離れてリズムも徐々に崩壊し出す。リズム溶解とまでは行かないが猫は再び机の上で瞑想的とも見える姿で神妙におっちん。18:32付近で唐突に金属加工音が入ってくるとパソコン画面を振り向いて不思議そうな表情を示す。