白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・二代目タマ’s ライフ407

2024年12月10日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇二四年十二月十日(火)。

 

早朝(午前五時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

朝食(午前八時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

昼食(午後一時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

夕食(午後六時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

食器洗いを終えた飼い主を追いかけてタマは二階へ上がってくる。このところお約束のように付いてくる。階段で飼い主を追い越しドアが開くのを先回りして待っている。部屋に入るとパソコン机の隅にひょいと飛び乗り飼い主が椅子に腰掛けて何か考えているその真横でしばらくじっとしている。置き物のように見えなくもない。

 

タマさん、時々置き物みたいにじっとしてるよね。そういう時の猫はあんまり何も考えてないって言われてるけど。

 

置き物に見えたでしょ?でも今日は違うんだ。飼い主の机の隅におっちんするのは隅だからってわけじゃない。ここね、エアコンの温風がやんわり流れてくる風下のちょうど良い位置に当たってる。冬になって心地よさがわかった。

 

もしかしてそうかなと思ってたけど。

 

うん。でも温風は温風でもゆるゆる過ぎじゃない?なかなかあったまらないよ。

 

生活苦の世帯だから仕方ないさ。飼い主とその妻とタマだけで精一杯やりくりしてようやくこうだよ。後は何が何でも我慢するしかないんだな。

 

タマは別に我慢してる感じはないけど。

 

といっても猫第一主義を掲げてるわけじゃ全然ないんだよ。猫の行動様式を参考にすれば思わぬところで何かと暮らしのヒントが見つかるものなのさ。

 

そうなんですか。

 

大いにね。だからといって我慢ばかり強いられてると飼い主もいつかは爆発するわけなんで三ヶ月に一度くらいは生活様式にちょっとした捻りを加えて変化をつけてはいるんだ。

 

タマね、テレビ見てたらうつ病で死ぬ人は今なお多いって言ってた。

 

先進諸国はどこももう限界だろ。国内で増殖加速する不満を戦争へ動員するという歴史的に繰り返すたびに失敗してきた方法をまたしても採用しようという流れが見られるんだけど、それではますます頻繁に社会全体が鬱状態に陥るばかりさ。飼い主のうつ病は国内でうつ病者の多発が騒がれるずっと以前からの極めて稀なケースなんであまり参考にならならいわけだけどそれとは別に国民全体がうつ病的個人主義リベラルとでも言うべき病的状態に陥ってしまってる。しかもほとんどの場合それがなかなか自覚できないような社会の仕組みに取り込まれてる。行くところまで行くかもしれない。行き着いてしまえばそこでゲームオーバーなんだけど、なんで政財官学界が手に手を携えて敷いてきた見え見えの失敗政策に巻き込まれて一緒に心中的破滅へ引きずり込まれなきゃいけないのかさっぱりってとこか。

 

そうだ、タマね、今日のお昼はぐっすり寝れた。なんでかなあと思ったくらい。

 

みたいだね。薬なしでぐっすり眠れるってのは今の人間社会ではもはや考えられなくなりつつある。大切にしなきゃあね。

 

黒猫繋がりの楽曲はノン・ジャンルな世界へ。ジャブー。いわゆるブリストル・サウンド。といってもジャブーの音楽自体が色々変化してきたことからもわかるようにその要素はエレクトロニカ、エクスペリメンタル、オルタナティヴ・ヒップホップ、レゲエ、ダブなど解像度を上げていくときりがなく分解されうる。そういう聴き方よりも今作は今作のポップでいいのではと思える。


Blog21・遅れてきた「ねじまき鳥クロニクル」

2024年12月10日 | 日記・エッセイ・コラム

村上春樹「ねじまき鳥クロニクル」が不可避的に持つテーマのひとつについて三宅香帆はいう。

 

「クミコがからめとられそうになっていた実家の血縁とは、日本の旧来の家父長制的な共同体の象徴でもある。しかし夫婦でありながら家父長制に支配されないために必要な手段とは、『名付けなおすこと』ーーーつまり自らの言葉を声に出すこと、だった。自分のつくりだしたい輪郭を言葉によって形にすること。無言で支配しようとしないこと。それこそが、家父長制にからめとられない夫婦をつくる手段ではないか」(三宅香帆「夫婦はどこへ?(4)」『群像・1・P.419』講談社 二〇二五年)

 

もっともだと思う。しかし三宅香帆の論の進め方ではどちらかと言えばやや退けたがっているように見えるのだが、「ねじまき鳥クロニクル」という作品自体はこれまで指摘されてきた「歴史」あるいは「国家」について語っていることもまた確かに違いないと思える。

 

村上春樹作品についてばかりではなくごく一般的な問題意識として「ねじまき鳥クロニクル」発表以前から論じられていたことがある。大学在学中だった一九八〇年代後半すでに「無言で支配しようとしないこと」、無言でいれば「その場の空気がすべてを決めてしまう」というへんてこな事情を認めないこと、それが大事なのではとキャンパスの内外で語られていた。

 

逃げないこと。すなわち「話し合うこと」。それで済まされない事態がしばしば起きていた。ありふれた事態であって一九九〇年代になり長引く不況へ入った頃にはもう半ば諦め感さえ漂っていた。しかしなぜ「諦め」が支配的になっていたか。「話し合うこと」が解決への道筋として有力なことは誰しも考えることだろう。ところが八〇年代後半の大学キャンパスで発生していた恋愛、なかでも妊娠してしまった場合、避妊に失敗した場合、逃げないこと、すなわち「話し合うこと」が重要になってくるのは当然だとしてもなお問題だったのは「話し合うこと」から切り離しがたい、今なお残る事情だろう。「話し合うこと」とは「言った者勝ち、やった者勝ちの強姦主義」に合意することとほとんど違わなかったからである。

 

そしてその空気は一九九〇年代一杯を通して大手を振ってのさばり歩いてきた。頭がおかしくなって専門病院での長期入院を余儀なくされた人々も数多い。だからといってまたしても逃げる方向へ逃げ込むのか。それはできない。グローバル化したネット社会の中でそんな場所はもはやない。

 

男女間の関係にのみ限って語ることもまたできなくなっているのはLGBT差別やヘイト問題を通してみても明らかに思える。漱石「門」を意識して書かれた「ねじまき鳥クロニクル」。「門」のラストに出てくる台詞。「まだ十分に舌が回りません」。

 

十分でない、というより、今なお不十分であり過ぎるのでは。まだくぐり抜けてもいないのだから苦しくないわけがないと思うのである。


Blog21・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて1001

2024年12月10日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

読書再開。といっても徐々に。

 

薬物療法は現状維持。体重減量中。

 

節約生活。

 

午前五時に飼い猫の早朝のご飯。

 

体操の後、エクスペリメンタルやインダストリアルを中心に飼い猫がリラックスできそうな作品リスト作成中。

 

Autechre「Augmatic Disport」

いらなくなったチラシを丸めておもちゃにして与えてみる。部屋の一方の隅からもう一方の隅まで追いかけて軽くタッチ。ドリブルし出す。前曲「Pro Radii」の流れの中で遊んでいるようにも見える。「Augmatic Disport」のテンポは始めから終わりまで同じ。けれどアクセントの位置が少しづつ変わっていくためか一つで一曲に思えないわけだけれどもそんなこと猫は気にせずおもちゃに飽きたら飽きた時点で床に寝そべりお腹を見せてぼうっとしている。すっかりテクノに慣れたらしい。