もう何十年もの長いあいだ取り上げられてきた言葉。小学生の頃すでに耳にしていたとおもう。反戦運動のなかの沖縄の位置ということについて。
(1)「沖縄は軍事化の最前線だから 平和のための闘争の最前線でもある それはそうなんだけど だって最前線だもん それでも 沖縄は道具にされてる」(永井玲衣✖️八木咲「せんそうって(3)」『群像・1・P.386』講談社 二〇二五年)
(2)「壮絶な強制集団死があったガマに降りる。木々など自然に覆われ、静かで、地上とは違う風が流れている。ガマの中へは、遺族会の意思により立ち入りが禁止されており入ることができない。『皆様が、ガマにはいって私達の肉親を踏み潰していることを、私達は、我慢できません』。きっぱりとした、明確な禁止。怒りの表明。当たり前だ」(永井玲衣✖️八木咲「せんそうって(3)」『群像・1・P.387』講談社 二〇二五年)
(1)は反戦運動団体に向けて沖縄の惨劇を運動のための「道具」として利用してほしくないという意味を込めて言われてきた。この声を取り上げて日本政府は長く反戦運動を叩き潰すための「道具」として利用してきた。両方の意味にまとわりつかれている。
(2)もまた(1)と同じく反戦運動団体の「道具」として利用されたくないという意味がひとつ。同時にその声を取り上げて反戦運動を叩き潰すための「道具」として日本政府が長いあいだ利用してきた経緯がある。
小学生の頃の記憶としてあるということは少なくとも四十八年くらいは経っている。(1)(2)ともに常に両義性にまとわりつかれたまま。折衷案はない。そんな便利な「道具」があればとっくの昔に誰かが見つけて採用されているだろう。
永井玲衣はいう。
「たやすく感謝することは、苦しみを失うことだ。苦しむことさえ、手放してしまうことだ。沖縄はこちらをじっと見ている。たやすく目を合わせることはできない。だからといって、まぶたを安らかに閉じて微笑みながら感謝してしまうことが、そのまなざしに応答することではない。まなざしに耐えること。まなざしに貫かれ、身動きができなくなること。わたしたちはそうして苦しみを享ける。何もできずに無力感の中にいるのではない。むしろこの苦しみを引き受けなおすことである」(永井玲衣✖️八木咲「せんそうって(3)」『群像・1・P.390』講談社 二〇二五年)
永井玲衣がここで言っている「わたしたち」とは一体誰か。反戦を希求する人々だけではまったくない。この「わたしたち」が実効性を持つために必要なのは言うまでもなく、反戦運動を叩き潰すためならありとあらゆるほんの些細な言動を「道具」として取り上げ長いあいだ利用してきた日本政府が、民主主義を通して「わたしたち」のなかへ否応なく入っていることを認めること、すでに関わり合いを持ってしまっていることを認めることなのだろう。認めているからこそ関わってこざるを得ないのだが、どこでどうすれば今のような関わり方になってくるのか不可解であればあるほど「本土」はますます沖縄を意識せざるを得なくなるのだろう。