白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・二代目タマ’s ライフ401

2024年12月04日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇二四年十二月四日(水)。

 

早朝(午前五時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

朝食(午前八時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

昼食(午後一時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

夕食(午後六時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

夕食後は随分走り回って遊んだねタマ。

 

うん。今日もお昼はほとんどコロの上でぐっすり眠れたから力が湧いてきた。

 

まだ夜中はエアコン付けないから朝は冷えるんだけどソファの隅でお利口にしてるし。

 

そうさ、こじんまりと丸くなるだけでも猫は体温調節の点でかなりエコノミーにできてるんだ。

 

でも飼い主の部屋にやって来て本棚の前で立ち上がると大きめのイタチくらいの背丈になるなあ。

 

イタチさんって大きいの?

 

タイプによるけど前足を持ち上げたまま後ろ足だけで背筋を伸ばして様子を伺う姿がタマに似てる。イタチの専売特許みたいに言われてるけど猫も結構やるよ。

 

イタチさん、見たことあるの?

 

あるよ。飼い主の実家はウナギの寝所って言われるような民家だったんだけど、床下が隣接する大寺院の境内と繋がっててね、夜中になるとそこからうちの台所まで残飯を漁りにやって来てたのさ。うっかり目と目が合うとビカッ!って光を放ってね。深夜のイタチの目ってのはほんと人間の意表を突くというか。見てしまった側を一瞬凍らせてしまうほど鋭いのさ。でも環境悪化でほぼいなくなった。小さな箱庭があったんだけどそこでは年に一度くらい蛇の脱皮を見ることもできた。月の光に照らされて実に幻想的な光景だったなあ。

 

野良さんは?

 

野良猫は可愛いから家に持って帰る人が結構いた。ちなみに琵琶湖畔へ引っ越してからだけどこの近くにもイタチはいるんだぜ。

 

ほんと?でも住宅地が増えたって聞いたけど。

 

と思うだろ?田んぼの数は確かに見るみる減った。でも残ってる田んぼからJRの高架下で延々草ぼうぼうのところまでは歩いて二分とかからない。幾らでも巣は作れる。そこから山際までは田んぼや水路や神社仏閣で繋がってる。まだ多少なりともイタチが暮らしていけそうな環境が残ってるのさ。

 

山の上には行かないの?

 

行かないな。イタチは山中で暮らす鷲とか鷹とかに常に狙われてるからね。琵琶湖と山際の間くらいがちょうどいいみたいだ。野良猫にも狙われるから結構俊敏性が問われる生き方だよね。

 

タマの立ち方に似てるのかあ。一度イタチさんに会ってみたい気がする。

 

ちょっと無理だね。夜中じゅう家のドアを開けっぱなしにして残飯を食べに来れるようにしておいてなるべく人気を感じさせない状態を作っておかなきゃ。でもさ、もし本当にイタチがやって来たらタマとばったり遭遇するかもしれない。そのときタマはあの獣の目の光に耐えられるか?ってなるわけだけど、その前にご近所さんが心配して覗いてくれるよ。あの~、もしかしたら空気の入れ換えかも知れませんが、ええと、この寒いのにドア開いてますけど猫さん大丈夫ですか?って。

 

ご近所さん、タマのこと知ってるの?

 

ああ、知れ渡ってる。初代からね。

 

黒猫繋がりの楽曲はノン・ジャンルな世界へ。ジャブー。いわゆるブリストル・サウンド。といってもジャブーの音楽自体が色々変化してきたことからもわかるようにその要素はエレクトロニカ、エクスペリメンタル、オルタナティヴ・ヒップホップ、レゲエ、ダブなど解像度を上げていくときりがなく分解されうる。そういう聴き方よりも今作は今作のポップでいいのではと思える。

今日ももうひとつ。ティルザ。ひたすら安全牌ばかり取ってきた日本の歌謡界がとうとう追い抜かれる日はもうそこまで迫ってきている予感がする。実際に一日分追い抜かれたと気づいて慌てて挽回することにしたとしよう。でも他国のアーティストもみんな一日分やるわけで一度開いた距離がさらに開くことはあっても近づくことはない。


Blog21・村上春樹と家父長制<あるいはカルト>問題の宙吊り

2024年12月04日 | 日記・エッセイ・コラム

村上春樹の初期短編にこうある。

 

「僕はあとで風呂から出てくると、妻は電灯を消した居間の暗闇の中にひとりでぽつんと座っていた。グレーのシャツを着て暗闇の中にじっとうずくまっていると、彼女はまるで置き去りにされた荷物のように見えた。僕は彼女がひどく気の毒に思えた。彼女は間違った場所に置き去りにされたのだ。もっとべつの場所にいれば、あるいは彼女はもっと幸せになれたかもしれないのだ。

僕はバスタオルで髪を拭いて、彼女の向い側のソファーに座った。『どうかしたの?』と僕は訊ねた。

『きっともう猫は死んじゃったのよ』と妻は言った。

『まさか』と僕は言った。『どこかで遊びまわってるんだよ。そのうちに腹を減らして戻ってくるさ。前にも一度あったじゃないか。高円寺に住んでる頃にやっぱりーーー』

『今度は違うのよ。私にはわかるのよ。猫は死んじゃって、どこかの草むらの中で腐ってるのよ。空き家の庭の草むら探してくれた?』

『おい、よせよ。いくら空き家だって他人の家だぜ、そんなの勝手に入れるわけないじゃないか』

『あなたが殺したのよ』と妻は言った。

僕はため息をついてもう一度バスタオルで頭を拭った。

『あなたが猫を見殺しにしたのよ』と暗闇の中で彼女はくりかえした。

『よくわからないな』と僕は言った。『猫は自分でいなくなったんだ。僕のせいなんかじゃない。それくらいのことは君にだってわかるだろ?』

『あなた、猫のことなんてべつに好きじゃなかったんでしょ?』

『そりゃそうかもしれない。でも僕はあの猫をいじめたこともないし、毎日ちゃんと飯をやってた。《僕が》飯をやってたんだよ。とくに好きじゃないからって、僕が猫を殺したことにはならない。そんなことを言いだしたら、世界の大部分の人間は僕が殺したことになる』

『あなたってそういう人なのよ』と妻は言った。『いつもいつもそうよ。自分では手を下さずにいろんなものを殺していくのよ』」(村上春樹「ねじまき鳥と火曜日の女たち」『パン屋再襲撃・P.231~232』文春文庫 二〇一一年)

 

三宅香帆は次のように読む。

 

「『ねじまき鳥と火曜日の女たち』は、猫がいなくなる話だ。この猫とは、どうやら、妻の家の血縁による遺伝を受け継ぐ存在のことーーーつまりは子供の比喩なのではないかと考えられる。

 

だがそんないなくなった猫に対し、妻は『きっともう猫は死んじゃったのよ』『あなたが殺したのよ』と泣く。そう、本作は、『生産をしないで生活をする夫』と、『子供を産まない夫婦』の話として読めるのだ。

 

たしかに、夫が仕事をしなくても、妻が仕事をするならば、夫婦ふたりで暮らしていける。しかし子供はどうだろうか。果たして、産むことができるのか。『あなたは手を下していないけど、猫はあなたが殺したのだ』と泣く妻の姿には比喩的に、このふたりの暮らしではどうしても子供をもつ夫婦にはなれない、という主題がどこか見え隠れする」(三宅香帆「夫婦はどこへ?(3)」『群像・12・P.303』講談社 二〇二四年)

 

村上春樹作品全盛期をリアルタイムで見ている読者としては特に目新しい視点ではない。ごくふつうの学生の間でもそうとしか読めないだろうと一笑に付されて終わることも少なくなかった。だが一九八〇年代半ば頃から上野千鶴子ら一群のフェミニストたちがこれまで何度となく村上春樹作品を俎上に上げてきた中で、多分あえて、かもしれないが三宅香帆はいう。

 

「『ねじまき鳥と火曜日の女たち』の彼は、猫が見つからなくて落胆している妻を見て『僕は彼女がひどく気の毒に思えた。彼女は間違った場所に置き去りにされたのだ。もっとべつの場所にいれば、あるいは彼女はもっと幸せになれたかもしれないのだ』と思う。つまり猫がいたら、『もっと幸せになれたかもしれない』と想像する彼。それは自分と結婚したから子供を持たないことになった妻への罪悪感を指しているのかもしれない。しかし女性からすると『いやそれは罪悪感を持つ前に、やるべき関係性の構築とそのための対話があるのでは!?そこで個人主義になられても困るのよ!』と全力でツッコミをいれたくなってしまう。そしてこのツッコミどころは『ねじまき鳥クロニクル』に引き継がれる。

 

生活から疎外されない男性の、罪悪感、それを村上がこの作品で描いているのだとすれば、くしくも同時期に、上野と村上が同じ問題ーーー家父長制に巻き込まれない対幻想は可能か?ーーーを描き出しているように私には見えるのだ。次回は『ねじまき鳥クロニクル』」(三宅香帆「夫婦はどこへ?(3)」『群像・12・P.303』講談社 二〇二四年)

 

「家父長制に巻き込まれない対幻想は可能か?」

 

大学在学中に思ったものだが「そうとしか読めないだろうと一笑に付」して終わらせるという態度「だけ」では最初期から延々と村上春樹作品に内在し続ける諸問題を失笑のうちに体よく葬り去ってしまうことにしかならない。

 

一方「家父長制に巻き込まれない対幻想は可能か?」という問いは上野千鶴子のほうがより明確に考えてきたことだろうとおもう。もっとも、明確であればあるほど良いとは限らない。村上春樹作品のように問いを問いのまま宙吊りにしておくのもフィクションという形を取ることで始めて出来る特権なのかもしれない。そして多くの読者は一般的に後者の側を好む傾向が強い。

 

村上春樹は日本出版業界に巨万の富をもたらしてくれた「神」のひとりに違いないけれどもそれゆえ不可避的にカルト的ハルキファンを数多く持つことになった。作品「アンダーグラウンド」はまるで自分のものに出来ていないぎくしゃくした形で不評を買ったが、その後しばらくして出した「1Q84」ではフィクションの方法をいろいろ動員しつつカルト問題に取り組んでいる。だがカルト的ハルキファンに対する解散命令を出したりは決してしない。もちろん出す必要もない。しかしそのままでは「神格化された村上春樹」という戦後日本文学自体が孕み持ってきた「家父長制」はびくともしないだろうという悲観的な思いは消えない。もやもやは続く。


Blog21・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて995

2024年12月04日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

読書再開。といっても徐々に。

 

薬物療法は現状維持。体重減量中。

 

節約生活。

 

午前五時に飼い猫の早朝のご飯。

 

体操の後、エクスペリメンタルやインダストリアルを中心に飼い猫がリラックスできそうな作品リスト作成中。

 

Autechre「Xylin Room」

特に低音部のリズムがある種の繰り返しであるにもかかわらず必ずしも定型的でなくむしろ非-定型的に変化していくためただ単なる機械音と違って聴こえるからか猫にすればごく自然に近い。けれどもどこか違う擬似自然的音響に本能的な好奇心をくすぐられるのかも知れない。音の鳴るパソコン机の下の棚で横たわり暗がりで落ち着きを見せる。曲の半ばを過ぎると椅子に腰掛けている飼い主の膝を軽く肉球でタッチして遊ぼうと言ってくる。