白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・足利直義(ただよし)を煽る妙吉侍者(みょうきつじしゃ)

2021年09月25日 | 日記・エッセイ・コラム
高師直(もろなお)・師泰(もろやす)兄弟に対する讒言。足利直義(ただよし)に告げようと妙吉侍者(みょうきつじしゃ)が出してきた例は秦の高級官僚だった趙高(ちょうこう)のエピソード。

「始皇帝、自ら詔(みことのり)を遺(のこ)して、御位(みくらい)をば第一の御子扶蘇(ふそ)に譲り給ひたりけるを、趙高(ちょうこう)は扶蘇御位に即(つ)き給ひなば、賢人才人皆朝家(ちょうか)に召(め)し仕(つか)はれて、天下をわが心に任(まか)する事あるまじと思ひければ、始皇帝の御譲りを引き破つて捨てて、趙高が養君にし奉りたる第二の王子胡亥(こがい)と申しけるに、世を譲り給ひたりと披露(ひろう)して、剰(あまつさ)へ討手(うって)を咸陽宮(かんようきゅう)へ差(さ)し遣(つか)はし、(扶蘇をば)討ち奉りてけり。かくて、幼稚におはする胡亥を二世皇帝と称して、御位に即け奉り、四海万機(しかいばんき)の政(まつりごと)、ただ趙高が心のままにぞ行ひける」(「太平記4・第二十七巻・六・P.276~277」岩波文庫 二〇一五年)

始皇帝の遺書を書き換えたのは始皇帝死去の際、大臣・官僚の最高位にいた李斯(りし)とそのすぐ下にいた趙高(ちょうこう)との二人。公子胡亥(こがい)は二世皇帝になることを条件に李斯・趙高と同盟、遺書の改竄・偽造の仲間に加わった。しかし嫡子の扶蘇(ふそ)には蒙恬(もうてん)という賢臣がついていた。そこで李斯・趙高ともに蒙恬を排除しなければ謀略を上手く進めることは困難と考えたのだろう、扶蘇・蒙恬とも死刑とする処分を遺書の内容として発表した。「史記・始皇本紀」からの引用。

「高(こう)は公子胡亥、丞相李斯とひそかにはかり、始皇の封じた公子扶蘇に賜う詔書を破り棄て、いつわって丞相李斯が始皇の遺詔を沙丘で受けたと言い、胡亥を立てて太子とした。また別に扶蘇と蒙恬(もうてん)に賜う詔書を偽造して、二人の罪状を数え、どちらにも死を賜うと申し送った」(「始皇本紀・第六」『史記1・本紀・P.165』ちくま学芸文庫 一九九五年)

この箇所は「史記・李斯列伝」に詳しい。

「始皇帝の詔(みことのり)を丞相が受けた、といつわり(おもてむき始皇帝はまだ存命中)、丞相は公子胡亥を太子に立てた。また〔始皇帝の〕書翰の文面を次のように改めて、長男の扶蘇に与えた、『朕(ちん)は天下を巡察し、名山の神々を祭り、わが寿(よわい)長かれと祈った。しかるに汝扶蘇は将軍蒙恬とともに、軍勢数十万をひきいて国境の地に駐屯(ちゅうとん)すること、すでに十余年である。進撃することはあたわず、士卒の損害は多くして、一寸一尺の領土をひろめた功績(いさおし)はなく、なおかえってしばしば上書して、わがなせることをあからさまにそしった。その職分をとかれ都へ帰って太子となれぬゆえに、日に夜に恨みをいだくのであろう。扶蘇は人の子として不孝である。剣を与うる、これをもって自決せよ。将軍蒙恬は扶蘇とともに外地にあり、扶蘇の過(あやま)ちを改め正さないのは、当然その陰謀を知るゆえである。人の臣として不忠である、死を賜わり、軍隊は副将王離(おうり)に預けることとする』。その書翰には皇帝の玉璽を押して封じ、胡亥の食客にそれをたずさえさせ、上郡にいる扶蘇に送った。使者が到着して、扶蘇は書翰を開いてみて、涙にくれ、奥の部屋にはいり、自殺しようとした。蒙恬は扶蘇をとどめて、言った、『陛下は外にお出ましになって、まだ太子をお定めにはなりませんでした。わたくしに三十万の兵をひきいて辺境を守備せしめられ、公子さまは監察のお役目、これは天下の重任であります。今ただ一人の使者がまいったからとて、にわかに自殺しようとなさいますが、使者が贋者(にせもの)でないと、どうしてわかりましょうぞ。なにとぞ重ねてのご沙汰(さた)を願われますよう。いま一度のご沙汰があったその上で死をとげられましても、けっして遅くはございません』。使者はくりかえし早くせよとうながした。扶蘇はきまじめな性格であったので、蒙恬にむかって、『父上が子に死ねとおおせられるのだ。それをどうして重ねて願い出ることができよう』と言い、その場で自殺した」(「李斯列伝・第二十七」『史記列伝2・P.179~180』岩波文庫 一九七五年)

扶蘇が自害すると主君の汚名を晴らすため蒙恬は生き残る方向を選んだ。すると胡亥・李斯・趙高の側は蒙恬を陽周(ようしゅう=今の中国陝西省楡林市靖辺県)の牢獄に監禁した。もはやこれまでと感じた蒙恬は毒をあおいで自害。一方、秦の章邯(しょうかん)の軍が鉅鹿(きょろく)包囲に成功したものの、駆けつけた項羽の反撃に合い苦戦を強いられていた頃、秦の宮廷では李斯の仲間だったはずの趙高が李斯追い落としにかかっており、とうとう李斯を処刑に追い込んだ。

「三年、章邯らが兵を率いて鉅鹿を囲んだ。楚の上将軍項羽は、楚の兵を率い、出かけて行って鉅鹿を授けた。冬、趙高が丞相となり、ついに李斯の罪を取り調べ、法にあてて殺した」(「始皇本紀・第六」『史記1・本紀・P.173~174』ちくま学芸文庫 一九九五年)

そもそもの力関係は趙高よりも李斯の側が上回っていた。しかし趙高は粘り強く奸策にも長けており、胡亥を二世皇帝につけるや矢継ぎ早に行動を起こし、李斯だけでなく李斯の側近らを次々と逮捕、処刑した。「李斯の罪」というのは後で二世皇帝にも掛けられる嫌疑と同じである。莫大な国家予算を投じて打ち続けられる阿房宮造営と軍事遠征との二つが大きい。巨額の金銭的負担により国民の側から離反者が続出、治安悪化と並行して盗賊団の結成・重犯罪が相次ぐようになっていた。

「二世皇帝の二年(前二〇八年)七月、李斯に五つの刑をことごとく加え、都咸陽の市場で胴斬りにした。李斯は牢から引き出され、その次男と同じ縄につながれたが、次男の方をふりむいて、語りかけた、『おまえといっしょにもう一度あの黄色い猟犬をつれ、上蔡(じょうさい=李斯の郷里)の東門から出て、すばしっこい兎を狩りたてに行ってみたいものじゃが、できることではないのう』。そこで父と子はたがいの身をいたんで声をあげて泣いた。そのあと李斯の三族(父母・兄弟・妻子)は皆殺しにされた」(「李斯列伝・第二十七」『史記列伝2・P.196』岩波文庫 一九七五年)

始めは勢いのあった秦軍だが楚の項羽との戦いで徐々に退却を余儀なくされていく。形勢は明らかに不利。章邯(しょうかん)は司馬欣に会った時、いま秦国に戻っても趙高が宮廷権力を牛耳り、思う存分に振る舞っているので戻らないほうがよいと聞かされる。そこで章邯たちは項羽のところへ行って降参し楚の配下に入る。

「欣は邯に会って、『趙高が朝廷にあって政権をとっていますので、将軍が功を立てられても殺され、功をたてられなくても殺されましょう』と言った。この時、項羽が秦軍を急襲し、王離(おうり)を虜(とりこ)にしたので、邯らはついに兵を率いて諸侯に降った」(「始皇本紀・第六」『史記1・本紀・P.174』ちくま学芸文庫 一九九五年)

ところで妙吉侍者(みょうきつじしゃ)が足利直義(ただよし)に語る秦の趙高の傍若無人ぶり。その中で「太平記」に大きく取り上げられているのはなぜか次の箇所。「鹿馬(しかうま)」論争である。

「わが威勢の程を知らんためにに、夏毛(なつげ)の鹿に鞍を置いて、『この馬に召されて御覧候へ』とて、二世皇帝にぞ奉りける。二世、これを見給ひて、『これ馬にあらず、鹿なり』と宣(のたま)ひければ、趙高、『さ候はば、宮中の大臣どもを召されて、鹿馬(しかうま)の間を御尋ね候へかし』とぞ申しける。二世、百司千官(はくしせんかん)、公卿大臣、悉(ことごと)く召し集めて、鹿馬(しかうま)の間(あいだ)を問ひ給ふに、人皆盲者(もうじゃ)にあらざれば、馬にあらずとは見けれども、趙高(ちょうこう)が威勢に恐れて、『馬なり』と申さぬはなかりけり」(「太平記4・第二十七巻・六・P.277~278」岩波文庫 二〇一五年)

「史記・始皇本紀」に出てくる。

「八月己亥(きがい)の日、趙高は叛乱しようとしたが、群臣の反対を恐れ、まず試してみようと、鹿を連れて来て二世に献じ、『これは馬でございます』と言った。二世が笑って、『丞相もまちがうものか、鹿を馬と言った』と言い、左右の近臣に問うと、ある者は黙っており、ある者は、『馬に相違ありません』と言って趙高におもねり、またある者は、『鹿でございます』と言った。高はひそかに鹿と言った連中を罪におとしいれて処刑した。こののち群臣はみな高を畏れた」(「始皇本紀・第六」『史記1・本紀・P.174』ちくま学芸文庫 一九九五年)

そんなアイデアを思いつくタイプだったらしい。さらに趙高は始皇帝の遺書改竄・偽造の事実を知っている二世皇帝を殺さなければならない。家来に命じて次のような偽の大規模軍事演出を行わせ、まず二世皇帝を孤立させる。

「趙高は衛兵に贋(にせ)の勅命を出し、全員に白装束(白は喪服の色)をつけさせ、武器を持って〔望夷の〕離宮にむかって進軍させ、自分は離宮の中にはいって、二世皇帝に告げた、『山東の盗賊ども(叛乱軍を指す)の兵が大挙してやってまいりました!』二世皇帝は高楼に上ってそれを目にし、恐れおののいた。趙高は、すぐさま、ここぞと二世皇帝を脅迫(きょうはく)して、自殺させた」(「李斯列伝・第二十七」『史記列伝2・P.197』岩波文庫 一九七五年)

どのように自殺させたのか。脅迫材料は何だったか。趙高の婿に閻楽(えんがく)という者がいた。趙高は閻楽を使って二世皇帝に言わせる。阿房宮造営のために国家が傾いているということが脅迫材料。「史記・始皇本紀」にある。

「閻楽は進み出て二世を責め、『足下は驕慢放恣(きょうまんほうし)、人を殺して無道だ。だから天下の者がみなそむくのである。自分で身を処置するがよい』と言うと、二世は、『丞相(趙高)に会えないか』と言った。楽が、『できない』と言うと、二世は、『せめて一郡の地ででももらい、王になれないか』と言ったが、許さなかった。『一郡がだめなら万戸侯にでも』と乞うたが、許されなかった。二世がさらに、『妻子ともども平民となり、諸公子のようにしてもらえないか』と言うと楽は、『わたしは丞相の命を受け、天下のためにあなたを殺しに来たのである。何と言われようと取り次ぐことはできん』と言い、部下の兵をさしまねいたので、二世は自殺した」(「始皇本紀・第六」『史記1・本紀・P.176』ちくま学芸文庫 一九九五年)

妙吉侍者(みょうきつじしゃ)の語りもふたたび「史記」掲載記事に戻る。「李斯列伝」からの引用。

「それから趙高は皇帝の玉璽(ぎょくじ=皇帝の地位の象徴)を奪って自分の体におびた。しかし百官はだれもかれに服従しなかった。かれは、〔皇帝即位の儀式をあげるため〕昇殿しようとしたが、そのたびに宮殿が崩れそうになり、それが三度くりかえされた。趙高は自分でも、天が許さず、臣下たちも認めないことを覚って、ようやく始皇帝の孫(子嬰<しえい>)をよびよせて玉璽を渡した。子嬰は即位したが、趙高が気がかりで、病気だと偽(いつわ)って政治にもかかわらず、一方で、宦官の韓談(かんだん)やその子とともに趙高殺害を計画した。趙高が拝謁(はいえつ)に来て、病気のお見舞いをしたい、と願ったおりをとらえ、子嬰はかれを奥へ呼び入れ、韓談に刺し殺させ、そのあと、趙高の三族を皆殺しにした」(「李斯列伝・第二十七」『史記列伝2・P.197~198』岩波文庫 一九七五年)

さらに趙高が殺害された後に立った子嬰も殺される。

「子嬰が位についてから三か月のち、沛公(はいこう=のちの漢の高祖劉邦<りゅうほう>)の軍が武関を突破して、秦の都咸陽に侵入した。秦の群臣はことごとく秦にそむき、沛公に抵抗しなかった。子嬰は妻と子をともない、みずから首に紐もかけ、軹道(しどう=咸陽の東北にあった宿場)の近くで沛公に降伏した。沛公はかれの身柄を係官に預けておいた。のち項王(こうおう=項羽)が到着すると、あらためて子嬰を斬り殺した。かくのごとくにして秦は結局天下を失ったのであった」(「李斯列伝・第二十七」『史記列伝2・P.198』岩波文庫 一九七五年)

妙吉侍者(みょうきつじしゃ)の語りは「太平記」の中の語りでもターニング・ポイントの一つである。足利直義が禅宗に関心を向け、政治から身を引くかもしれないと思われていたその頃。公家政権と武家政権との二頭政治ではなく、武家だけでも二つに分裂させておき、さらなる混乱への導火線として登場してくるからだ。

「神陵(しんりょう)三月(さんげつ)の火」(「太平記4・第二十七巻・六・P.279」岩波文庫 二〇一五年)

そう「太平記」は何度か述べる。「史記・項羽本紀」から。

「数日すると、項羽は兵を率いて西行し、咸陽を屠り、秦の降王嬰を殺し、秦の宮室を焼いた。火は三ヶ月にわたって消えず、財宝婦女を収めて東へ帰った」(項羽本紀・第七」『史記1・本紀・P.214』ちくま学芸文庫 一九九五年)

咸陽宮の豪壮さを物語る一文だが、燃え尽きることはけっして終わりではなくむしろさらなる戦乱の始まりとなるのが「太平記」の特徴の一つである。

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Blog21・始皇帝と蓬萊山

2021年09月24日 | 日記・エッセイ・コラム
高師直(もろなお)・師泰(もろやす)兄弟に対する讒言は上杉重能(うえすぎしげよし)と畠山直宗(はたけやまただむね)ばかりが率先して勧めたわけではない。その一人が、天竜寺開山の任務につき一躍有名となった夢窓疎石の同僚だった妙吉侍者(みょうきつじしゃ)。その頃から急に禅宗に関心を持ち始めた足利直義(ただよし)に様々な讒言の材料を教え込む。

秦国を始皇帝からたった三代で滅亡させたのは他国ではなく、秦政権内部で思うがままに権力を牛耳った趙高(ちょうこう)の責任だと述べようとする。その前に始皇帝が始めから持っていた神仙思想についての記述がある。そもそも始皇帝は廃仏派の思想家でもあり、生涯を通して不老不死の仙薬を求め探させていた。「太平記」にこうある。

「徐福(じょふく)、文成(ぶんせい)と申しける二人(ににん)の道士(どうし)来たつて、われ不死の薬を求むる術を知りたる由(よし)申しける。帝(みかど)、限りなく悦(よろこ)び給うて、先(まづ)かれに大官を授け、大禄を与へ給ふ。やがてかれが申す旨(むね)に任せて、年未だ十五に過ぎざる童男(どうなん)丱女(かんじょ)六千人を集め、龍頭鷁首(りゅうどうげきしゅ)の船に乗せて、蓬萊(ほうらい)の島をぞ求めける」(「太平記4・第二十七巻・六・P.274」岩波文庫 二〇一五年)

徐福(じょふく)は徐芾(じょふつ)とも書く。「史記・始皇本紀」からの引用。

「斉人の徐芾(じょふつ)らが上書して、『海中に三つの神山があり、蓬萊(ほうらい)・方丈(ほうじょう)・瀛洲(えいしゅう)と申して、僊人(せんにん)が住んでおります。斎戒(ものいみ)して童男童女を連れ、僊人を探したいと思います』と言った。そこで徐芾をやり、童男童女数千人を出して海上に僊人を求めさした」(「始皇本紀・第六」『史記1・本紀・P.151』ちくま学芸文庫 一九九五年)

蓬萊(ほうらい)・方丈(ほうじょう)・瀛洲(えいしゅう)という三神山があるのだが、それらは海中に聳え立っているという。そこで「太平記」はこう語る。

「海漫々(まんまん)として辺(ほと)りもなし。雲の浪、煙(けぶり)の波いと深く、風浩々(こうこう)として閑(しず)かならず」(「太平記4・第二十七巻・六・P.274」岩波文庫 二〇一五年)

下敷きになっているのは白居易「海漫漫」の前半部分。

「海漫漫 直下無底旁無邊 雲濤煙浪最深處 人傅中有三神山 山上多生不死藥 服之羽化爲天仙 秦皇漢武信此語 方士年年采藥去 蓬萊今古但聞名 煙水茫茫無覓處 海漫漫 風浩浩

(書き下し)海(うみ)漫漫(まんまん)たり 直下(ちょっか)に底(そこ)無(な)く 旁(かたわら)に辺(へん)無(な)し 雲濤煙浪(うんとうえんろう) 最(もっと)も深(ふか)き処(ところ) 人(ひと)は伝(つた)う 中(なか)に三神山(さんしんざん)有(あ)り 山上(さんじょう) 多(おお)く生(しょう)ず 不死(ふし)の薬(くすり) 之(これ)を服(ふく)せば羽化(うか)して天仙(てんせん)と為(な)ると 秦皇(しんこう)と漢武(かんぶ)は此(こ)の語(ご)を信(しん)じ 方士(ほうし) 年年(ねんねん) 薬(くすり)を采(と)り去(ゆ)く 蓬萊(ほうらい) 今古(きんこ) 但(た)だ名(な)を聞(き)くのみ 煙水茫茫(えんすいぼうぼう)として覓(もと)むる処(ところ)無(な)し 海(うみ)漫漫(まんまん)たり 風(かぜ)浩浩(こうこう)たり

(現代語訳)海は漫々。真下の深さは底知れず、まわりの広さは果てしがない。雲煙のごとく大波小波が湧き起こる、最奥の海。伝え聞くのはそこに三つの神山があるとの話。山の上には不死の薬草がたくさん生え、服用すれば羽化登仙できるという。秦の始皇帝も漢の武帝もその言を信じ、方士が毎年毎年仙薬を採りに行った。蓬萊は今も昔も名を聞くだけ。水煙が濛々と立ちこめ、どこにも探し当てられない。海は漫々。風吹き渡る」(「海漫漫」『白楽天詩選・上・P.122~124』岩波文庫 二〇一一年)

さらに「太平記」では次の箇所が単独で描かれる。

「天水(てんすい)茫々(ぼうぼう)として求むるに所なし」(「太平記4・第二十七巻・六・P.274」岩波文庫 二〇一五年)

白居易「海漫漫」前半部分ですでに引用された箇所。一度形式を整えた上でその一部をクローズアップさせている。まったくの書き写しというのではなくそれなりの工夫は見える。

「煙水茫茫無覓處

(書き下し)煙水茫茫(えんすいぼうぼう)として覓(もと)むる処(ところ)無(な)し

(現代語訳)水煙が濛々と立ちこめ、どこにも探し当てられない」(「海漫漫」『白楽天詩選・上・P.123~124』岩波文庫 二〇一一年)

また、こうある。

「『蓬萊を見ずは、否(いな)や帰らじ』と云ひし童男丱女は、徒(いたず)らに船の中(うち)にや老いぬらん」(「太平記4・第二十七巻・六・P.274」岩波文庫 二〇一五年)

それもまた「海漫漫」から。前半部の続き。

「不見蓬萊不敢歸 童男丱女舟中老

(書き下し)蓬萊(ほうらい)を見(み)ずんば敢(あ)えて帰(かえ)らず 童男丱女(どうなんかんじょ) 舟中(しゅうちゅう)に老(お)ゆ

(現代語訳)蓬萊が見えるまでは引き返せず、舟のなかで老いゆく童男童女」(「海漫漫」『白楽天詩選・上・P.123~124』岩波文庫 二〇一一年)

さらに。

「徐福、文成、その偽りの顕(あらわ)れて」(「太平記4・第二十七巻・六・P.274」岩波文庫 二〇一五年)

これもまた「海漫漫」から。ただ、徐福と文成との二人がだんだん高兄弟と重なって見えてくる。そういう語りの形式を取る。

「徐福文成多誑誕

(書き下し)徐福(じょふく) 文成(ぶんせい) 誑誕(きょうたん)なること多(おお)く

(現代語訳)徐福(じょふく)・文成(ぶんせい)は虚言にまみれ」(「海漫漫」『白楽天詩選・上・P.123~124』岩波文庫 二〇一一年)

次に「太平記」はいう。

「鮫大魚(こうたいぎょ)と云ふ魚(うお)」(「太平記4・第二十七巻・六・P.275」岩波文庫 二〇一五年)

大型の鮫(さめ)がいたのだろうか。あるいは鮫に似た他の大型の魚で警戒心が強く好戦的なものなのか。鮫といっても近代以前の中国や日本近海には今よりずっと多くの怪魚が出没していたらしい。いつまで経っても徐芾(じょふつ)らは不老不死の仙薬を見つけることができず、一方そのための費用負担ばかりが財政を圧迫するので遂に追い詰められる。

「方士の徐芾(じょふつ)らは、海上に神薬を求めて、数年になるが得られず、費えが多いだけだったので、罰せられるのを恐れ、いつわって『蓬萊(ほうらい)では神薬を得られるのですが、いつも大鮫(おおざめ)に苦しめられて、島に行くことができません。上手な射手をつけていただけば、現われたら連発の強弓で射ていただきとうぞんじます』と言った」(「始皇本紀・第六」『史記1・本紀・P.164』ちくま学芸文庫 一九九五年)

始皇帝が死の直前に見たという夢のエピソードは有名。

「始皇帝(しこうてい)、その夜、龍神と自ら戦ふと夢を見給ひたりけるが、翌日(つぎのひ)より重き病(やまい)を請けて、五体暫(しばら)くも安き事なく、七日が間、苦痛逼迫(ひっぱく)して、つひに沙丘(さきゅう)の平台(へいだい)にして、即(すなわ)ち崩御(ほうぎょ)なりにけり」(「太平記4・第二十七巻・六・P.276」岩波文庫 二〇一五年)

「史記・始皇本紀」にこうある。

「始皇が海神と戦う夢を見たが、ちょうど人のような格好をしていた。夢占いの博士に問うと、『水神は目に見えません。大魚蛟竜(こうりゅう)の現われるのが、その兆候です。いま主上は祈禱祭祠に、謹んでおられるのに、なおこの悪神が現われました。これを除けば、善神を招くことができましょう』と言った。そこで海上に行く者に大魚を捕える道具を持たせ、大魚が出たら、始皇自ら連発の強弓で射ようと、琅邪から労山・成山まで行ったが、ついに現われなかった。之罘(しふ)に行くと大魚が出たので、一魚を射殺した。海岸に沿うて西行し、平原津(しん)に行くと病気になった」(「始皇本紀・第六」『史記1・本紀・P.164』ちくま学芸文庫 一九九五年)

沙丘(さきゅう)の平台(へいだい)で死去。「史記・始皇本紀」にあるとおり。

「主上の病いは、いよいよひどくなった。すると始皇は公子の扶蘇(ふそ)に賜う璽書(じしょ)をつくって『棺を咸陽に迎えて葬式をせよ』と言った。詔書は封印がされ、中車府(ちゅうしゃふ=乗輿路車のことを司る官)の長官で符璽(ふじ)の事をおこなう趙高(ちょうこう)の所にあったが、まだ使者に渡されなかった。七月丙寅(へいいん)の日、始皇は沙丘(さきゅう)の平台(へいだい=河北・平郷の平台宮)で崩じた」(「始皇本紀・第六」『史記1・本紀・P.164~165』ちくま学芸文庫 一九九五年)

しかし問題は、この時に始皇帝の遺言が書き換えられたことから生じる。言語は貨幣のように置き換えることができる。百円玉十個と千円札一枚とを両替することが可能なように。その前はどんな商品だったか、貨幣そのものが覆い隠してしまう。

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Blog21・引き出しで充満する「太平記」

2021年09月23日 | 日記・エッセイ・コラム
高師直(もろなお)・師泰(もろやす)兄弟に対する上杉重能(うえすぎしげよし)・畠山直宗(はたけやまただむね)両人の嫉妬に満ちた関係は険悪になっていくばかり。ここではその逆のケース・「刎頸(ふんけい)の交わり」の故事が引用される。

「この玉、代々天子の御宝となつて、趙王(ちょうおう)の代(よ)に伝はる。趙王、これを重んじて、趙璧(ちょうへき)と名を替へて、更(さら)に身を放(はな)ち給はず。学窓(がくそう)に蛍(ほたる)を集めねども、書を照らす光暗からず、輦路(れんろ)に月を得ざれども、路(みち)を分かつに影明らかなり」(「太平記4・第二十七巻・四・P.257~258」岩波文庫 二〇一五年)

ただ「太平記」ではエピソードの紹介の仕方が、引用元の「史記・廉頗・藺相如列伝」に記録されている順序とは時系列的に前後が異なっている。なので「史記・列伝」に載る順序に従って並べ直しておこう。

「秦の昭王はそれを聞いて、人をやり趙王に書面をおくった。『城十五と璧を交換したい』とある。趙王は大将軍廉頻や大臣たちと協議した。璧を秦に与えるとすれば、城が手に入る見こみはうすく、だまされただけに終る恐れがある。もし与えなければ、秦が攻めてくる恐れがある。議論は決しなかった。だれか秦へ返答にゆく使者を見つけようとしたが、これも得られないでいた」(「廉頗・藺相如列伝・第二十一」『史記列伝2・P.54』岩波文庫 一九七五年)

趙の宦官の長官・繆賢(びゅうけん)は家来の藺相如(りんしょうじょ)を使者として推薦した。

「王は召し出して藺相如に問うた、『秦王は城十五をもって予の璧(へき)ととりかえたいというのじゃが、壁をやったものか、どうじゃ』。相如『秦は強国、趙は弱国ゆえ、承諾せぬわけにまいりますまい』。王『わしの璧をとりあげ、城をくれねば、何とする』。相如『秦が城を出すからとて璧をほしいと申しますのに、承諾せねば、趙のとがでございます。趙が璧を出しても秦が城をくれねば、秦にとががございます。二つの策をはかりにかけて見ますと、承諾して秦のとがにするのがよろしゅうございましょう』。王『使者にはだれがよいか』。相如『そうしても人がないと仰せられますれば、わたくし璧をおあずかりして使者にまいりとう存じます。城が趙の手に入りましたらば、璧を秦へのこしてまいります。城が手に入らねば、わたくし、はばかりながら璧をそのまま持って帰ってまいります』。それを聞き趙王は相如を使いとし、璧を持ち西へ向かって秦に行かせることとした」(「廉頗・藺相如列伝・第二十一」『史記列伝2・P.55~56』岩波文庫 一九七五年)

璧を秦王に捧げて様子を見る藺相如。周囲の従者や侍女らに廻して見せびらかし、一方、肝心の「城十五」との交換の話など一つも出てこない。もともと予想していたことなので藺相如は次のように動く。

「相如は秦王には趙への代償に城をくれる気はないと見て取るや、やおら進み出た、『その璧には《きず》がございます。それを指さしてご覧に入れましょう』。王は璧をわたした。すると相如は璧を手に持ち、あとずさりして、柱を背にし、さかだった髪は冠をつきあげるいきおいで、秦王によびかけた、『大王さまには璧がほしいと、書面を趙王におくられました。趙王は群臣をよびつどえて協議せられましたが、<秦は強大さをたのみ貪欲にて、口だけで璧を求めている。代わりの城はたぶん手に入るまい>と皆が申し、秦へ璧を出さぬと定まりました。わたくし考えますに、無官の者の交わりでさえ、互いにだましはいたしませぬ。まして大国のあいだでございます。それに璧一つくらいのことで、強大なる秦国の親睦をそこなうのは、よろしくありませんと申しました。それより趙王は五日のあいだ斎戒(さいかい)し、わたくしに璧を持たせ、それにそえた書簡を御殿へさしだしましたしだいでございます。何ゆえと申せば、大国のご威光をあおぎ、敬意をあらわすためでございます。今日わたくし到着ののち、大王さまのご引見のもよう、人を見くだし、璧は侍女たちへ順にまわされ、なぐさみ物とせられます。このようすでは、大王さまには趙王へ代わりの城を下されるお気もちはないと存じましたゆえ、璧を取りもどしました。大王もしやわたくしに強迫しようとなさいますなら、わたくしの頭を璧もろとも柱にぶちあてぶちわって見せますぞ』。相如はくだんの璧を手に持ち、柱を横目でにらみ、ぶちつけようとした」(「廉頗・藺相如列伝・第二十一」『史記列伝2・P.56~57』岩波文庫 一九七五年)

さらに。

「秦王は璧がこわれてはつまらぬと、まずわびを言って、ぜひもらいたいと言い、係りの役人をよび地図を前に、ここからさきの十五の都(まち)を趙へやろうと言った。相如は秦王が趙へ城をくれるというのは表むきだけで、実は手に入るまいと推察したから、やがて申し出た、『和氏(かし)の璧は天下に名の聞えた宝でございます。趙王は献上せぬわけにはゆかぬと思いましたから、これを送り出すときに五日間斎戒しておりました。大王さまにもこのたびは五日のあいだ斎戒なされ、宮廷に九賓(きゅうひん)の礼をそなえられましたならば、そのうえにて、わたくし恐れながら献上つかまつりましょう』。秦王も力ずくで奪うことはむつかしかろうと推察し、かくて五日ものいみすると約束し、相如を広成(こうせい=地名)の宿舎で休ませた。相如は、秦王がものいみはしても、きっと約束はほごにして城を出すまいと察したから、従者にそまつな身なりで璧を懐中し、間道よりこっそり趙まで持って帰らせておいた」(「廉頗・藺相如列伝・第二十一」『史記列伝2・P.57』岩波文庫 一九七五年)

大国=秦と小国=趙とでは軍事力に圧倒的違いがある。藺相如は秦王が約束を守るなどと夢にも考えていない。とはいえ国と国との関係上、両者の立場の対等性を確実に担保しておくのが第一に重要だとわかっている藺相如は言語を駆使し、秦の側から言い出した「璧と城十五との交換」という条件を上手く利用して「両国の対等な関係維持」へ移動させることに成功する。だから璧は元通り趙に取り戻され、同時に秦は城十五を持ったままだが璧を手に入れることは不可能となる。

「秦王は五日のものいみを終えて、いよいよ九賓の礼をととのえ、宮廷において趙の使者藺相如を引見した。相如はそこへ出ると、『秦は繆公(ぼくこう)よりこのかた二十余りの君々、約束をたしかに守られたことは一度もありません。わたくしは王さまのあざむきをうけては趙に申しわけ立ちませぬゆえ、人をやって璧を趙へ持ち帰らせました。もう趙に着く時分でありましょうて。それに秦は強国、趙は弱国ですから、大王さまよりただ一人の使者をつかわされますや、趙はただちに璧をもってまいりました。その秦の強大なるおん国が、まず十五の都を与えられますれば、趙はどうして璧を手もとにおいて大王さまのおとがめを待ちましょうや。わたくし大王をあざむきまいらせました罪は死にあたると承知しております。熱湯で煮殺されましても本望でございます。大王さま、お心のままに、群臣の方々とよくよくよくご熟慮くだされますよう願い上げます』と言い出した。秦王は群臣と顔を見あわせ、驚きの声をあげた。側の者が相如を引っ立てようとしたが、秦王はすぐ言った、『今日相如を殺したとて、璧はいつまでも手に入らず、しかも秦と趙の親しみをそこなうものじゃ。それよりここのところは厚くもてなしてとらせ、趙に帰らせるがよい。趙王も璧ひとつくらいで秦をあざむきはしまい』。けっきょく、かたのごとく相如を引見し、儀式を終わって帰らせた」(「廉頗・藺相如列伝・第二十一」『史記列伝2・P.58』岩波文庫 一九七五年)

困難な使者の役目を無事に果たし終えたことで藺相如は出世する。

「相如の帰国後、趙王はかれが使いして諸侯に辱(はず)かしめられなかったのは賢者であると、かれを上大夫(じょうたいふ)に親任した。秦も城を趙へやらなかったし、趙もまた秦へ璧をやらなかった」(「廉頗・藺相如列伝・第二十一」『史記列伝2・P.58』岩波文庫 一九七五年)

結局「城十五」と璧とを交換するつもりなど毛頭なかった秦は趙へ少しばかり軍を進める。そして両者は「澠池(べんち)」で会見することになる。

「そののち秦は趙をうち石城(せきじょう)をおとした。あくる年、さらに攻撃し趙の死者は二万人であった。秦王は使者をだし趙王へ、よしみを結びたいから、西河(せいか)の南の澠池(べんち)において会見しようと申し入れさせた。秦のたくらみをおそれた趙王は出かけないつもりであったが、廉頗(れんぱ)と藺相如(りんしょうじょ)は方策を立てた、『王さまのお出ましがなければ、趙の弱さと気おくれを見せるものでございます』。かくて趙王は出発し、相如が供をした。廉頗は国境まで見送って、王に別れを告げ、『お出ましのうえは、途中の道のりとご会見の儀礼が終って、お帰りまでの日数は、察するところ三十日にはなりますまい。三十日たってお帰りなければ、太子さまのご即位を願いたてまつります、秦の野望を失わせるためでございます』。王はそれも許可し、かくて秦王と澠池で会見したのである」(「廉頗・藺相如列伝・第二十一」『史記列伝2・P.58~59』岩波文庫 一九七五年)

秦王の今度のたくらみは趙王をとことん恥ずかしい目に合わせて諸侯の笑い者にしてやることにあった。ところが、またしても藺相如のすばやい機転で秦王は趙王を笑い者に仕立て上げることに失敗した。

「秦王は酒宴たけなわとなるや、『予は趙王には音楽をこのまれると聞き及んでおる。ひとつ瑟(しつ)をながでていただけまいか』と言い、趙王は瑟をひいた。秦の御史(ぎょし=記録係)が進み出て記録にとどめた、『某年某月某日、秦王、趙王と会飲し、趙王をして瑟を鼓せしむ』と。藺相如は進み出た、『趙王は秦の王さまには秦のうたがお上手と聞かれております。缶(ほとぎ)をうって、互いの興をそえていただきとう存じます』。秦王はきげんわるく、ことわった。そのとき相如は前へ出て缶をさし出し、ひざまずいて願った。秦王はそれをたたこうとはしない。相如は言った、『この五歩の近さゆえ、それがしの頸(くび)の血が大王にはねかかると思しめされませ』。側の者がかれへ切りかかろうとしたが、かれは目を見ひらき大喝すると、みなたじろいだ。そのとき秦王は気はすすまぬものの、すこし缶をたたいた。相如はふりむいて趙の御史ををよびよせ、『某年某月某日、秦王、趙王のために缶(ふ)をうつ』としるさせた。秦の群臣が『ひとつ趙より城十五をもって秦王への贈り物としていただきたい』と言えば、藺相如もまた言った、『秦の咸陽(かんよう)をば趙王への贈り物にいただきましょう』。酒宴のはてるまで、秦王はとうとう趙をおしきることはできず、趙の方でも兵の備えを厳重にして相手の出かたをみていたから、秦もうかつなことはできなかった」(「廉頗・藺相如列伝・第二十一」『史記列伝2・P.59~60』岩波文庫 一九七五年)

こうしてさらに出世し、廉頗(れんぱ)と並ぶ上卿の位に任じられた藺相如。だがその言動は普段と変わらない。家来から見れば随分と廉頗に遠慮しているように思えて悩ましい。だが藺相如はこんな深謀遠慮を秘めていた。

「廉頗は『わしは趙の大将として、攻城夜戦に大功をたてた。しかるに藺相如は口先ばかりのはたらきで、わしの上の位におる。それに相如はもともといやしい出じゃ。わしははずかしい。あれの下には立っておれぬ』とて、言いふらした、『わしが相如の顔を見たら、恥辱をあたえるぞ』。相如はうわさを聞き、顔をあわせぬようにし、朝見の日も、いつも病気と言いたて、廉頗と席を争うことをのぞまなかった。そのうちに相如は外へ出たが、遠くから廉頗を見ると、車をひきめぐらし、すがたをかくした。そうなると相如の近侍たちは、いっしょにいさめた、『わたくしどもが親戚をはなれお側につかえておりますのは、殿さまのご高義をしとうたためでございます。殿さまは今は廉頗と同列でいらせられますのに、廉さまが悪口せられたとて、おそれて逃げかくれられまして、ことにお気づかいのようでございます。なみの者さえはずかしく思いますのに、まして大臣大将でございますものを。わたくしどもおろかでございますから、お暇をいただきとう存じます』。藺相如はかたく制止した、『諸君、廉将軍と秦王はどちらが上とおもうか』。『それはかないませぬ』。相如『あの秦王の威勢でさえ、それがしは宮廷のまんなかでしかりつけ、群臣に辱めを与えた。それがしは駄馬のごとくではあろうが、廉将軍ごときをおそれようか。ただ考えてみるに、強大なる秦が趙へ兵力を用いんとせぬわけは、われら両人があるため、それだけである。もし両虎ともに闘えば、どちらかは生きてはいぬ。わしがかようにしておるのは、国家の急をさきとし、私のあだをのちにするとてである』。それを聞いた廉頗は肌ぬぎとなって荊(いばら)のむちを背におい、客をかいぞえに、藺相如のやしきの門へ行って謝罪した、『性根(しょうね)のいやしいそれがしを、将軍がこれほどまでお心ひろく扱ってくださろうとは存じもかけずにおりました』。そのあげく、心おきなく歓談して、刎頸(ふんけい)の交わりをむすんだのであった」(「廉頗・藺相如列伝・第二十一」『史記列伝2・P.60~61』岩波文庫 一九七五年)

ところで「太平記」は次の文章を強調する。

「両虎(りょうこ)相闘うて共に死する時、一つの狐、その弊(つい)へに乗つてこれを咀(か)む」(「太平記4・第二十七巻・四・P.265」岩波文庫 二〇一五年)

すでに述べているが「史記・廉頗・藺相如列伝」にある一節。

「両虎ともに闘えば、どちらかは生きてはいぬ」(「廉頗・藺相如列伝・第二十一」『史記列伝2・P.61』岩波文庫 一九七五年)

同じ内容の言葉は「春申君列伝」にも見える。

「両虎あい闘(たたか)えば、その疲れにつけこむことは駄犬にでもできます」(「春申君列伝 第十八」『史記列伝1・P.295』岩波文庫 一九七五年)

しかしエピソードの通りに事態が進展するわけもない。

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Blog21・「夜光(やこう)の壁(へき)」への導入部

2021年09月22日 | 日記・エッセイ・コラム
吉野の賀名生(あのう)に作られた仮宮の様子。次の比喩が用いられている。

「虞舜(ぐしゅん)、唐堯(とうぎょう)の古(いにし)へ、茅茨(ぼうし)斬(き)らず、柴椽(さいてん)削らざりし淳素(じゅんそ)の風」(「太平記4・第二十七巻・一・P.245」岩波文庫 二〇一五年)

「史記・始皇本紀」にこうある。

「堯・舜の生活は、住居の椽(たるき)は山から伐り出した丸太のままで、屋根は茅(かや)ぶきの端(はし)を揃えず、食事は土製のリュウ(飯器)に飯を盛り、土の器で汁をすすった」(「始皇本紀・第六」『史記1・本紀・P.172』ちくま学芸文庫 一九九五年)

後村上帝の母・阿野簾子(あのれんし)を始め、月卿雲客(げっけいうんかく)=上流公家・摂関家など、「柴(しば)葺(ぶ)きの庵(いおり)のあやしきに、軒(のき)漏(も)る雨を防きかね」るほど。

「暮山(ぼさん)の薪(たきぎ)を拾うては、雪を戴(いただ)くに骨寒く、幽谷(ゆうこく)の水を掬(むす)んでは、月に担(にな)ふに肩痩(や)せたり」(「太平記4・第二十七巻・一・P.246」岩波文庫 二〇一五年)

というふうに「和漢朗詠集」から引かれる。

「叩凍負来寒谷月 払霜拾尽暮山雲

(書き下し)凍(こほり)を叩(たた)いて負(お)ひ来(きた)る寒谷(かんこく)の月 霜を払(はら)て拾ひ尽す暮山(ぼさん)の雲」(新潮日本古典集成「和漢朗詠集・巻下・仏事・五九八・慶滋保胤・P.226」新潮社 一九八三年)

かつて西行は吉野の山奥に隠棲した。一方、勝利した足利方の武将高師直(こうのもろなお)は京都で護良親王の母・親子が住んでいた寝殿造りの殿舎を新装し、壮麗奇抜な庭へ改築する。

「師直、一条今出川(いちじょういまでがわ)に、故兵部卿親王(ひょうぶきょうのしんのう)の御母、宣旨三位殿(せんじのさんみどの)の栖(す)み荒(あ)らし給ひし古御所(ふるごしょ)を点じて、唐門(からもん)、棟門(むなもん)四方にあけ、釣殿(つりどの)、渡殿(わたどの)、泉殿(いずみどの)、棟梁(むなうつばり)高く造り並べて、奇麗壮観(きれいそうかん)を逞(たっくま)しくせり。泉水(せんずい)には、伊勢(いせ)、島(しま=志摩)、雑賀(さいが)の大石どもを集むれば、車輾(きし)りて軸(よこがみ)を摧(くだ)き、呉牛(ごぎゅう)喘(あえ)ぎて舌を垂(た)る。樹(うえき)には、月中(げっちゅう)の桂(かつら)、仙家(せんけ)の菊、吉野(よしの)の桜、尾上(おのえ)の松、露霜(つゆしも)染めし紅(くれない)の八入(やしお)の岡の下紅葉(したもみじ)、西行(さいぎょう)法師が古(いにし)へ、枯葉(かれは)の風を詠じ初(そ)めけん難波(なにわ)の蘆(あし)の一村(ひとむら)、在原中将(ありわらのちゅうじょう)の露(つゆ)分(わ)けし宇都(うつ)の山辺(うまべ)の蔦楓(つたかえで)、名所名所の風景を、さながら庭に集めたり」(「太平記4・第二十七巻・二・P.247」岩波文庫 二〇一五年)

西行が和歌に詠み込んだ次の言葉がそのとおり再現されている。

「津(つ)の国(くに)の難波(なにわ)の春は夢なれや蘆(あし)のかれ葉に風わたる也」(新日本古典文学体系「新古今和歌集・巻第六・六二五・西行法師・P.187」岩波書店 一九九二年)

西行が生きていた頃と「太平記」成立期との間には約二百年の開きがある。ゆえになおさら落ち延びる宮方と京都入りした足利方とのコントラストは日本中世の歴史的複数性をありありと浮かび上がらせていると言えそうだ。もちろん作庭した「山水河原ノ者」とは誰かという問いとともにである。茶の湯にしても茶杓(ちゃしゃく)・茶筅(ちゃせん)を作り、茶釜(ちゃがま)を加工し、大小様々な石を伐り出し配置し、灯籠(とうろう)を組み立て、白砂を運び入れて模様を創作し、掛軸(かけじく)・棗(なつめ)・茶巾(ちゃきん)など道具類一切の製作にかかわり、折々の草木(そうもく)の手入れを怠らない。そもそも茶碗を焼いているのは誰なのか。花入はどこからやって来るのか。ちなみに一休や紹鷗を経てようやく次のような茶道具の魅力が発見されるとともに茶道具として認められるに至る。

「一 紹鷗信楽(しがらき)・宗易の信楽、いずれも能き水指也」(「山上宗二記・名物の水指、幷びに水翻(みずこぼし)」『日本の茶書1・P.173』東洋文庫 一九七一年)

「一 紹鷗備前物の面桶(めんつう)、万台屋(宗安)備前物甕(かめ)の蓋、宗易たこつぼ(蛸壺)、宗及備前の合子(ごうし)、みきたや棒の先。この五つ、何れも数寄道具也」(「山上宗二記・名物の水指、幷びに水翻(みずこぼし)」『日本の茶書1・P.175』東洋文庫 一九七一年)

「一 手燈籠 唐(唐物)、花籠(はなかご)」(「山上宗二記・佗花入」『日本の茶書1・P.233』東洋文庫 一九七一年)

「一 紹鷗備前筒(づつ)」(「山上宗二記・佗花入」『日本の茶書1・P.233』東洋文庫 一九七一年)

ところで、勝利した側は勝利した側の内部で怨み辛み妬み嫉みといったものを噴出させずにはおかない。それこそ世の常、常識というもの。とりわけ、高師直(もろなお)・師泰(もろやす)兄弟に対する上杉重能(うえすぎしげよし)・畠山直宗(はたけやまただむね)両人の嫉妬は政治的対立から殺戮抗争へ発展する。その経緯に合わせて逆に古代中国で無駄な争いが上手く回避された事例が引かれる。

「(昔、漢朝に)、卞和(べんか)と申しける賤(いや)しき者、楚山(そざん)に畑を打ちけるが、廻(まわ)り一尺に余る石の、磨(みが)かば玉(ぎょく)になるべきを求め得たり」(「太平記4・第二十七巻・四・P.254~255」岩波文庫 二〇一五年)

「韓非子」の中に「和氏の璧(へき)」のエピソードとして載る。また「今昔物語・巻第十・震旦国王愚斬玉造手語・第二十九」にあり、以前取り上げた。

「楚人和氏、得玉璞楚山中、奉而献之厲王、厲王使玉人相之、玉人曰、石也、王以和為誑、而刖其左足、及厲王薨、武王即位、和又奉其璞而献之武王、武王使玉人相之、又曰石也、王又以和為誑、而刖其右足、武王薨、文王即位、和乃抱其璞、而哭於楚山之下、三日三夜、泪尽而継之以血、王聞之、使人問其故、曰、天下之刖者多矣、子奚哭之悲也、和曰、吾非悲刖也、悲夫宝玉而題之以石、貞士而名之以誑、此吾所以悲也、王乃使玉人理其璞、而得宝焉、遂命曰和氏之璧。

(書き下し)楚人(そひと)の和氏(かし)、玉璞(ぎょくはく)を楚山(そざん)の中(うち)に得(え)、奉じてこれを厲王(れいおう)に献ず。厲王、玉人(ぎょくじん)をしてこれを相(そう)せしむ。玉人曰わく、石なりと。王、和を以て誑(あざむ)くと為して、其の左足を刖(あしき)る。厲王薨(こう)じ、武王位に即(つ)くに及び、和又其の璞(はく)を奉じてこれを武王に献ず。武王、玉人をしてこれを相せしむ。又曰わく、石なりと。王、又和を以て誑くと為して、其の右足を刖(あしき)る。武王薨じ、文王位に即く。和乃(すなわ)ち其の璞を抱きて楚山の下(ふもと)に哭(こく)す。三日三夜、泪(なみだ)尽きてこれに継(つ)ぐに血を以てす。王これを聞き、人をして其の故を問わしめて曰わく、天下の刖(あしき)らるる者は多し。子(し)、奚(なん)ぞ哭することの悲しきやと。和曰わく、吾れは刖(あしき)らるるを悲しむに非ざるなり。夫(か)の宝玉にしてこれに題するに石を以てし、貞士(ていし)にしてこれに名づくるに誑(あざむ)くを以てするを悲しむ。此れ吾れの悲しむ所以(ゆえん)なりと。王乃ち玉人をして其の璞を理(おさ)めし、而して宝を得たり。遂(つい)に命(なづ)けて和氏の璧(へき)と曰う。

(現代語訳)楚(そ)の国の和氏(かし)という者が楚山の中で璞玉(あらたま)を手に入れ、捧げもって厲王(れいおう)に献上した。厲王は玉磨きの職人にこれを鑑定させたところ、職人は『ただの石です』と言った。厲王は和氏が自分をだましたと考え、和氏を罰してその左足のすじを切った。厲王が死んで武王が即位してから、和氏はまたもやその璞玉(あらたま)を捧げもって武王に献上した。武王は玉磨きの職人にそれを鑑定させたが、また『ただの石です』と答えた。武王もまた和氏が自分をだましたと考え、和氏を罰してその右足のすじを切った。武王が死んで文王が即位すると、和氏はそこであの璞玉(あらたま)を胸に抱いて楚山のふもとで号泣(ごうきゅう)した。三日三晩も泣きつづけて涙は枯れはて、つづいて血の涙が出るほどであった。王はそれを耳にすると、人をつかわしてそのわけをたずねさせた、『世の中に、罪を犯して足斬りの刑にあうものは多い。おまえ、どうしてそんなに悲しんで号泣するのだ』。和氏は答えた、『わたくしは足斬りの刑にあったのを悲しんでいるのではありません。あの宝石がただの石だといわれ、正直者のわたくしが嘘(うそ)つきだといわれたことが残念です。それでこのように悲しんでいるのです』。王はそこで玉磨きの職人にその璞玉(あらたま)を磨かせたところ、はたしてりっぱな宝玉であった。こうしてそれは『和氏の璧玉(へきぎょく)』と名づけられることになった」(「韓非子1・和氏・第十三・一・P.245~247」岩波文庫 一九九四年)

さらに「和氏の璧(へき)」に関わる。だがすでに「卞和(べんか)」自身とは直接なんの関係もない話へ繋がっていく。

「照車(しょうしゃ)の玉(ぎょく)」(「太平記4・第二十七巻・四・P.257」岩波文庫 二〇一五年)

ここで「照車(しょうしゃ)」とあるのは誤り。というか、別物。「照車(しょうしゃ)の玉(ぎょく)」は次のとおり「史記・田敬仲完世家」に見える。

「わたしの国などは小国ですが、それでも直径一寸の珠で、車の前後それぞれ十二乗を照らすものが十個あります」(「田敬仲完世家・第十六」『史記4・世家・下・P.61』ちくま学芸文庫 一九九五年)

ふたたび「夜光(やこう)」へ戻される。ただ単なる書き損じか思い違いだったのだろう。

「夜光(やこう)の壁(へき)」(「太平記4・第二十七巻・四・P.257」岩波文庫 二〇一五年)

とすれば、「史記・魯仲連・鄒陽列伝」からの引用。

「わたくしは聞いております、『明月(めいげつ)の名だかき真珠、夜光の名玉も、くらやみに道ゆく人の前へ投げ出せば、剣のつかをおさえてにらみつけない人はない。なぜならだしぬけに前へ来るからだ。蟠(わだか)まった木の根は、ねじ曲りふしくれだっていても、万乗の君の車軸に用いられる。なぜなら左右のものが前もって説明してあるからだ』。ですからだしぬけに現れると、随候(ずいこう)の真珠、夜光の壁(たま)をさしだしても、怨みをむすび、よくは思われません。人がさきに話しておけば、枯れた木や朽ちた株でさえ、功をたてて忘れられぬのです。いったい天下の無官で困窮している士たちは、自分がいやしいため、たとい堯(ぎょう)・舜(しゅん)の道を身につけ、伊尹(いいん)・管仲(かんちゅう)の弁舌をたのみ、竜逢(りゅうほう)・比干(ひかん)のまごころをいだいて、今の世の君に忠をつくさんとしても、もとより木の根のごとき紹介者がありませんから、精神のありたけをつくし、忠と信をうちあけて、主君の政治をたすけようとしても、主君は剣の柄に手をかけにらみつけるばかりでしょう。それでは布衣無官のものは枯れ木や朽ち株の資質もありえないこととなります。そういうわけで、聖王は世俗をおさえ、陶鈞(とうきん)のごとき〔天の〕教化をほどこして、いやしき語にひきつけられず、もろもろの口にまどわされぬものであります」(「魯仲連・鄒陽列伝・第二十三」『史記列伝2・P.95~96』岩波文庫 一九七五年)

そしてしばらくはこのエピソードが「太平記」で再現された史実とのコントラストを彩る。

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Blog21・吉野炎上

2021年09月21日 | 日記・エッセイ・コラム
次の文章。

「稲麻(とうま)の如くに打ち囲んだり」(「太平記4・第二十六巻・七・P.214」岩波文庫 二〇一五年)

見覚えがあると思う。京中に足利勢が充満していた時の文面はこうだった。

「稲麻竹葦(とうまちくい)の如く打ち囲みたる大勢(おおぜい)ども」(「太平記2・第十五巻・七・P.468」岩波文庫 二〇一四年)

いずれも立錐の余地一つないほど軍隊で充満した状態を指して言われている。「法華経」からの引用。

「如稲麻竹葦 充満十方刹

(書き下し)稲・麻・竹・葦の如くにして 十方の刹(くに)に充満せんに

(現代語訳)蘆や竹のように、すべての世界にすき間なく充満し」(「法華経・上・巻第一・方便品・第二・P.72~73」岩波文庫 一九六二年)

次に。

「項羽(こうう)が山を抜き」(「太平記4・第二十六巻・七・P.215」岩波文庫 二〇一五年)

漢の劉邦に包囲された項羽の辞世の詩。「史記・項羽本紀」から。

「力は山を抜き 気は世を蓋(お)うも 時に利あらず 騅(すい)逝(ゆ)かず 騅の逝かざるは 如何(いかん)すべき 虞(ぐ)や虞や なんじを如何(いかん)せん」(項羽本紀・第七」『史記1・本紀・P.231』ちくま学芸文庫 一九九五年)

さらにここで「秦の穆公」のエピソードが語られる。

「かやうの事、異国にも規(ためし)あり。秦の穆公と申しける王」(「太平記4・第二十六巻・八・P.226」岩波文庫 二〇一五年)

かつて穆公の良馬を食べた者が約三百人いた。穆公の臣下は彼ら三百人を捕えた。本来ならただちに殺されるところだったが穆公は許してやり、戦闘で疲労しているに違いない彼らに薬酒を振る舞い与えた。するとその三百人は今度、晋に包囲された穆公を守るため果敢に戦ったという故事。「史記・秦本紀」に載る。

「岐下(岐山の麓)の良馬を食った者三百人が、駆けて晋軍に打ち入ったので、晋軍は囲みを解き、繆公は危険を脱して、かえって晋君を生捕りにすることができた。かつて繆公は、良馬をうしなったが、これは岐下の野人が捕えて食ったのであって、その人数は三百余人であった。役人が捕えて罰しようとすると、繆公は、『君子は家畜のために、人を害してはならない。わしは、良馬の肉を食ったら酒を飲まないと人を傷(そこな)う、と聞いている』と言って、みなに酒を賜い罪を赦(ゆる)した。三百人の者は、秦が晋を撃つと聞いて、みな従軍を願い、繆公が危険になったのを見ると、またみな鋒(ほこ)を推ししごき死を争って、馬を食って赦された徳に報いたのである」(「秦本紀・第五」『史記1・本紀・P.111』ちくま学芸文庫 一九九五年)

寛大な処遇が吉と出た事例である。さて「太平記」はすぐにまた四条畷(しじょうなわて)から生駒山にかけての合戦の模様に戻ってこう伝える。

「龍門原上(りゅうもんげんしょう)の苔の下に尸(かばね)を埋(うず)めて名を残し」(「太平記4・第二十六巻・九・P.237」岩波文庫 二〇一五年)

楠正行(まさつら)・正時(まさとき)・和田新発意(しんぼち)は自害。一族郎等ら兵士三百四十三人もすべて討死・自害して果てた。しかしこの文面は白居易「題故元少尹集後」からの引用。

「龍門原上土 埋骨不埋名

(書き下し)龍門(りゅうもん) 原上(げんじょう)の土(つち)。骨(ほね)を埋(うず)めて名(な)を埋(うづ)めず。

(現代語訳)竜門原上の土は きみの骨を埋めただけで、きみの名声は埋もらず後世に伝わるのだ」(漢詩選10「題故元少尹集後」『白居易・P.300~301』集英社 一九九六年)

さらに敗北した楠正行・正時・和田新発意を始め約三百七十人の頸(くび)は京へ運び込まれ六条河原(ろくじょうがわら)に晒された。奈良吉野に残っている公家らは慌てふためきながらさらなる山奥へ逃げ去った。一部は今の奈良県西吉野郡賀名生(あのう)へ。なかには今の奈良県吉野郡天川村までとっとと退却する者もいた。そこまで逃げ込んでしまっては、後醍醐帝の頃は信用できたけれども新帝・後村上帝が立ってからは自分たちの身が危ないと絶叫しているようなもので、逆に失礼ではないかと思えてくるのだが。なお、「賀名生(あのう)」という名称だがもっと昔は「穴生(あのう)」と書いた。「賀名生(あのう)」へ変更されたのは朝廷の行在所となって以後である。

そして高師直が三万騎を率いて吉野の金峯山寺に押し寄せた時、すでに人っ子一人いなくなっていた。三度呼び声を上げたが木霊(こだま)一つ返ってこない。そうとわかれば残る仕事はもはや一つ。蔵王堂を中心として伽藍すべてに火をかけて焼き払った。

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