深い眠りから覚めてほぼ日中程度の意識状態が戻ってくるまで、「しばらくは、自分自身がただの鉛の人形になってしまった気がする。もはやだれでもないのだ」とプルーストはいう。「もはやだれでもない」にもかかわらず<だれか>ではあるような状態。
「そんな熟眠から醒めてしばらくは、自分自身がただの鉛の人形になってしまった気がする。もはやだれでもないのだ」(プルースト「失われた時を求めて5・第三篇・一・一・P.187~188」岩波文庫 二〇一三年)
ではどう言えばいいのだろう。語彙には限界というものがある。ましてやただ単に知識ばかり頭の中にずっしり溜め込んだ「クイズ王」に答えられるような低次元問題とはまるで違う。そんなことは百も承知のプルーストは次のように述べている。
「みずから通過してきたと思われる(とはいえわれわれがいまだに《われわれ》と言うことさえない)真っ暗な雷雨のなかから、まるで墓石の横臥像のように、なんの想念も持たずに出てきたすがたは、いわば中味を欠いた『われわれ』であろう」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・三・P.301~302」岩波文庫 二〇一五年)
この場合のように文学では「第三篇」の中で突如吊り下げられた問いが同じ「第三篇」の中で解答を与えられるとはまるで限らず、「第三篇」の中で出現した問いは「第三篇」の中で解答を与えられなければならないという制度があるわけではさらになく、むしろ「第四篇」の中の或る箇所で不意に、なおかつ「第三篇」の中で突如吊り下げられた問いとの直接的関係抜きに書き込まれていることがしばしばある。
入眠直前、深い眠りを得るために様々な薬物を総覧してみる必要性があった。
「そこまで行くと、たがいに似ても似つかぬ種々の眠りが未知の花々のように生い茂る秘密の花園も、さして遠くはない。ダツラの眠り、インド大麻の眠り、エーテルの多様なエキスの眠り、ベラドンナの眠り、アヘンの眠り、カノコソウの眠りなど、そんな夢の花々は、定められた未知の人がやって来てそれに触れ、花弁を開かせ、驚いて感嘆するその人のうちに特殊な夢にいざなう芳香を長時間にわたって放つまでは、閉じたままでいる」(プルースト「失われた時を求めて5・第三篇・一・一・P.184」岩波文庫 二〇一三年)
このような様々な薬物の総覧はまた別の場所で嫉妬とその苦痛の総覧の必要性として出てくる。「あらゆる種類と大きさの苦痛を試してみなければならない」と。
「すくなくとも肉体的な苦痛の場合、われわれはその苦痛を自分で選ぶ必要はない。病気が苦痛を決定し、それをわれわれに課すだけである。ところが嫉妬の場合、われわれは自分にふさわしいと思われる苦痛を見定める前に、いわばあらゆる種類と大きさの苦痛を試してみなければならない。ましてや愛する女がわれわれと性を異にする人たちと快楽を味わっているのを感じる苦痛の場合、それを試してみるにはおないっそうの困難をともなう。なにしろ性を異にする人たちは、われわれには与えることのできない感覚をその女に与えている、というか、そのすがた形やイメージや振る舞いからして、すくなくともわれわれとはまるで違うものをその女にしましているのだから」(プルースト「失われた時を求めて12・第六篇・P.284~285」岩波文庫 二〇一七年)
ところが「眠り」と夢とについて述べたこの箇所では、眠りから覚醒への途中で目を覚そうとする人間が払わなくてはならない健気この上ない奮闘努力の必要性に関して述べないわけにはいかなくなった。
「眠る人が目を覚ますには、たとえ金色(こんじき)に輝くまぶしい朝でも、その人の意志が若きシークフリートよろしく渾身の力で何度も斧(おの)を降りおろさなくてはならない」(プルースト「失われた時を求めて5・第三篇・一・一・P.186」岩波文庫 二〇一三年)
それほど苦労してやっと起きようかと気持ちが動き出しそうになってきたその瞬間、実に何げなくではあるもののプルーストは間髪入れず次の文章を滑り込ませる。
「そんなありさまなのに、なくしたものを探すみたいに自分の思考や人格を探したとき、どうしてべつの自我ではなく、ほかでもない自分自身の自我を見つけ出すことができるのか?目覚めてふたたび考えはじめたとき、われわれの内部に体現されるのが、なぜ前の人格とはべつの人格にならないのか?何百万もの人間のだれにでもなりうるのに、いかなる選択肢があって、なにゆえ前日の人間を見つけ出せるのか不思議である」(プルースト「失われた時を求めて5・第三篇・一・一・P.188」岩波文庫 二〇一三年)
いかにも「不思議である」。ニーチェのいう習慣がそうさせているとしか考えようがない。
「何か未知のものを何か既知のものへと還元することは、気楽にさせ、安心させ、満足させ、しかのみならず或る権力の感情をあたえる。未知のものとともに、危険、不安、憂慮があたえられるが、ーーー最初の本能は、こうした苦しい状態を《除去する》ことにつとめる。なんらかの説明は説明しないよりもましである、これが第一原則にほかならない。根本において、問題はただ圧迫する想念から脱れたいということのみにあるのだから、それから脱れる手段のことは、まともに厳密にはとらない。未知のものを既知のものとして説明してくれる最初の思いつきは、それを『真なりとみなす』ほど気持ちよいのである。真理の標識としての《快感》(「力」の証明)。ーーーそれゆえ、原因をもとめる衝動は恐怖の感情によって制約されひきおこされる。『なぜ?』という問いは、できさえすれば、原因自身のために原因をあたえるというよりは、むしろ《一種の原因》をーーー一つの安心させ、満足させ、気楽にさせる原因をあたえるであろう。何かすでに《既知のもの》、体験されたもの、回想のうちへと書きこまれているものが原因として措定されるということは、この欲求の第一の結果である。新しいもの、体験されていないもの、見知らぬものは、原因としては閉めだされる。ーーーそれゆえ、原因として探しもとめられるのは、一種の説明であるのみならず、《選りぬきの優先的な》種類の説明であり、見知らぬもの、新しいもの、体験されていないものの感情が、そこでは最も急速に最も頻繁に除去されてしまっている説明、ーーー《最も習慣的な》説明である。その結果は、一種の原因定立が、ますます優勢となり、体系へと集中化され、最後には、《支配的となりつつ》、言いかえれば、《他の》原因や説明を簡単に閉めだしつつ、立ちあらわれるということになる」(ニーチェ「偶像の黄昏」『偶像の黄昏・反キリスト者・P.62~63』ちくま学芸文庫 一九九四年)
眠りによる「中断があったのに(眠りが完全であったり、夢がまるで自分とかけ離れたものであったりした)、なにがわれわれを導いているのか?」。眠りという「中断」=「死」があったのは確かだ。にもかかわらずなぜ今朝の<私>が昨夜の<私>と同じ<私>として通用してしまうのか。通例としてそうだからというのでは余りにも横着な論理ではなかろうか。
「たしかに中断があったのに(眠りが完全であったり、夢がまるで自分とかけ離れたものであったりした)、なにがわれわれを導いているのか?心臓の鼓動が止まり、舌を規則的に引っ張られて息を吹きかえすときのように、たしかに死があったのだ。われわれが一度しか見たことのない部屋にもきっとさまざまな想い出をよび覚ます力が備わり、その想い出にさらに古い想い出がつながっているか、あるいはわれわれの内部で想い出のいくつかが眠りこんでいて、目覚めたときにそれが意識されるのだろう。目覚めるさいのーーー眠りというこの恵みぶかい精神錯乱の発作のあとーーー復活という現象は、つまるところ、人が忘れていた名前や詩句や反復句(ルフラン)を想い出すときに生じることと似ているにちがいない。そうだとすると死後の魂の復活も、ひとつの記憶現象としてなら理解できるかもしれない」(プルースト「失われた時を求めて5・第三篇・一・一・P.188」岩波文庫 二〇一三年)
とはいえしかし眠りについてプルーストは「眠りというこの恵みぶかい精神錯乱」と述べるだけでなく「眠りというこの恵みぶかい精神錯乱の発作」と書く。眠りはただ単に或るありふれた「精神錯乱」に過ぎないわけではない。ありふれてはいるけれどもただ単なる「精神錯乱」でしかないどころかその「発作」である。「精神錯乱」の「発作」としての「眠り」。そこで始めて睡眠中の人間の脳機能は解体されているか少なくとも弛緩しているがゆえに、社会的文法=制度から解放されていると言うことができる。そしてそういうのが正しいにしてもなお、ではただ単に「統合失調症万歳」ということにはならないし、またそもそもそういうことではない。はっきりいって精神科領域でいう統合失調症とはほとんど何一つ関係がない。関係がある場合もないではないとはいえ、それは「精神錯乱」の「発作」<としての>「眠り」の一種として、社会的文法=制度の解体された一例として上げることができるに過ぎない。問題はそういうことではほとんどなく、むしろ例えばアルトーが「器官なき身体」や「アナーキー」といった言葉で述べようと欲望している事態に遥かに近い。
なお、TBS NEWS DIGで「コロナ禍で増えたアルコール依存症」を見たところ、番組中で出された見解のうち四分の一は同意できるが四分の一は同意できないと感じ、さらに四分の一は番組内での紹介方法で同意できないと感じた箇所。残りの四分の一はコロナ禍以前からすでに始まっていた悪循環の準備過程であり文字通りコロナ禍以前からの問題として取り扱うべきが妥当なのではと感じた。
(1)同意できる四分の一。家飲み派の増大。しかしこれは以前から指摘されていたことであり何も今になって驚くことではない。普段、学生や社会人の多くが飲酒するのは帰宅時に知り合いたちと、と思い込んでいる。だがコロナ禍でそうした従来型の飲み方は困難になった。するとどうしても飲みたい人々は家飲みへ切り換える。外で飲むのとは比較にならずたいへん安く大量に飲酒できる。経済的だし酒のあてなら夕食のおかずか、それがなければ酒と一緒にコンビニで買って帰る。居酒屋より遥かに廉価で済む。ちなみに滋賀県大津市のとあるコンビニの酒類コーナーで、ウイスキー部門中最も売れている商品はニッカとサントリー「トリス」のいずれもポケット瓶。
(2)同意できない四分の一。今のところ日本でリモートワークに従事できている労働者の数はまだまだそれほど多いとは言えないし思われもしない。とはいえリモートワークの普及が「二十四時間飲酒可能」な条件を業務形態の側から労働者の側へ向けて与えることになったという点は事実。
(3)試みてみる価値はあるが結果的に同意できない事態へなし崩しになだれ込んでいきがちな傾向。酒量チェックについて。小川キャスターは「ハードルが高いと思われるかもしれませんが」というけれども、このフレーズはもう二十五年以上前、四半世紀以上も前から言われ続けてきた「ハードルの低い」試み。ともすればこの期間はどこまでも延長していけるため酒量チェック期間が逆に飲酒期間そのものへなだれ込んでしまう。
(4)同意できない四分の一。一九九〇年代後半から延々と長引く不況のため、不況の二十年間のうちすでに家飲みを始め依存症化した人々が飛躍的に増加傾向を示していたにもかかわらず、その部分を占める人々と今回のコロナ禍をきっかけに家飲みを覚えた人々との区別がなされていない点。二十五年間に渡る日本政府の不況対策失敗を「コロナ禍のせい」へ責任転嫁する報道へすり換えてはいけないということ。
BGM1
BGM2
BGM3
「そんな熟眠から醒めてしばらくは、自分自身がただの鉛の人形になってしまった気がする。もはやだれでもないのだ」(プルースト「失われた時を求めて5・第三篇・一・一・P.187~188」岩波文庫 二〇一三年)
ではどう言えばいいのだろう。語彙には限界というものがある。ましてやただ単に知識ばかり頭の中にずっしり溜め込んだ「クイズ王」に答えられるような低次元問題とはまるで違う。そんなことは百も承知のプルーストは次のように述べている。
「みずから通過してきたと思われる(とはいえわれわれがいまだに《われわれ》と言うことさえない)真っ暗な雷雨のなかから、まるで墓石の横臥像のように、なんの想念も持たずに出てきたすがたは、いわば中味を欠いた『われわれ』であろう」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・三・P.301~302」岩波文庫 二〇一五年)
この場合のように文学では「第三篇」の中で突如吊り下げられた問いが同じ「第三篇」の中で解答を与えられるとはまるで限らず、「第三篇」の中で出現した問いは「第三篇」の中で解答を与えられなければならないという制度があるわけではさらになく、むしろ「第四篇」の中の或る箇所で不意に、なおかつ「第三篇」の中で突如吊り下げられた問いとの直接的関係抜きに書き込まれていることがしばしばある。
入眠直前、深い眠りを得るために様々な薬物を総覧してみる必要性があった。
「そこまで行くと、たがいに似ても似つかぬ種々の眠りが未知の花々のように生い茂る秘密の花園も、さして遠くはない。ダツラの眠り、インド大麻の眠り、エーテルの多様なエキスの眠り、ベラドンナの眠り、アヘンの眠り、カノコソウの眠りなど、そんな夢の花々は、定められた未知の人がやって来てそれに触れ、花弁を開かせ、驚いて感嘆するその人のうちに特殊な夢にいざなう芳香を長時間にわたって放つまでは、閉じたままでいる」(プルースト「失われた時を求めて5・第三篇・一・一・P.184」岩波文庫 二〇一三年)
このような様々な薬物の総覧はまた別の場所で嫉妬とその苦痛の総覧の必要性として出てくる。「あらゆる種類と大きさの苦痛を試してみなければならない」と。
「すくなくとも肉体的な苦痛の場合、われわれはその苦痛を自分で選ぶ必要はない。病気が苦痛を決定し、それをわれわれに課すだけである。ところが嫉妬の場合、われわれは自分にふさわしいと思われる苦痛を見定める前に、いわばあらゆる種類と大きさの苦痛を試してみなければならない。ましてや愛する女がわれわれと性を異にする人たちと快楽を味わっているのを感じる苦痛の場合、それを試してみるにはおないっそうの困難をともなう。なにしろ性を異にする人たちは、われわれには与えることのできない感覚をその女に与えている、というか、そのすがた形やイメージや振る舞いからして、すくなくともわれわれとはまるで違うものをその女にしましているのだから」(プルースト「失われた時を求めて12・第六篇・P.284~285」岩波文庫 二〇一七年)
ところが「眠り」と夢とについて述べたこの箇所では、眠りから覚醒への途中で目を覚そうとする人間が払わなくてはならない健気この上ない奮闘努力の必要性に関して述べないわけにはいかなくなった。
「眠る人が目を覚ますには、たとえ金色(こんじき)に輝くまぶしい朝でも、その人の意志が若きシークフリートよろしく渾身の力で何度も斧(おの)を降りおろさなくてはならない」(プルースト「失われた時を求めて5・第三篇・一・一・P.186」岩波文庫 二〇一三年)
それほど苦労してやっと起きようかと気持ちが動き出しそうになってきたその瞬間、実に何げなくではあるもののプルーストは間髪入れず次の文章を滑り込ませる。
「そんなありさまなのに、なくしたものを探すみたいに自分の思考や人格を探したとき、どうしてべつの自我ではなく、ほかでもない自分自身の自我を見つけ出すことができるのか?目覚めてふたたび考えはじめたとき、われわれの内部に体現されるのが、なぜ前の人格とはべつの人格にならないのか?何百万もの人間のだれにでもなりうるのに、いかなる選択肢があって、なにゆえ前日の人間を見つけ出せるのか不思議である」(プルースト「失われた時を求めて5・第三篇・一・一・P.188」岩波文庫 二〇一三年)
いかにも「不思議である」。ニーチェのいう習慣がそうさせているとしか考えようがない。
「何か未知のものを何か既知のものへと還元することは、気楽にさせ、安心させ、満足させ、しかのみならず或る権力の感情をあたえる。未知のものとともに、危険、不安、憂慮があたえられるが、ーーー最初の本能は、こうした苦しい状態を《除去する》ことにつとめる。なんらかの説明は説明しないよりもましである、これが第一原則にほかならない。根本において、問題はただ圧迫する想念から脱れたいということのみにあるのだから、それから脱れる手段のことは、まともに厳密にはとらない。未知のものを既知のものとして説明してくれる最初の思いつきは、それを『真なりとみなす』ほど気持ちよいのである。真理の標識としての《快感》(「力」の証明)。ーーーそれゆえ、原因をもとめる衝動は恐怖の感情によって制約されひきおこされる。『なぜ?』という問いは、できさえすれば、原因自身のために原因をあたえるというよりは、むしろ《一種の原因》をーーー一つの安心させ、満足させ、気楽にさせる原因をあたえるであろう。何かすでに《既知のもの》、体験されたもの、回想のうちへと書きこまれているものが原因として措定されるということは、この欲求の第一の結果である。新しいもの、体験されていないもの、見知らぬものは、原因としては閉めだされる。ーーーそれゆえ、原因として探しもとめられるのは、一種の説明であるのみならず、《選りぬきの優先的な》種類の説明であり、見知らぬもの、新しいもの、体験されていないものの感情が、そこでは最も急速に最も頻繁に除去されてしまっている説明、ーーー《最も習慣的な》説明である。その結果は、一種の原因定立が、ますます優勢となり、体系へと集中化され、最後には、《支配的となりつつ》、言いかえれば、《他の》原因や説明を簡単に閉めだしつつ、立ちあらわれるということになる」(ニーチェ「偶像の黄昏」『偶像の黄昏・反キリスト者・P.62~63』ちくま学芸文庫 一九九四年)
眠りによる「中断があったのに(眠りが完全であったり、夢がまるで自分とかけ離れたものであったりした)、なにがわれわれを導いているのか?」。眠りという「中断」=「死」があったのは確かだ。にもかかわらずなぜ今朝の<私>が昨夜の<私>と同じ<私>として通用してしまうのか。通例としてそうだからというのでは余りにも横着な論理ではなかろうか。
「たしかに中断があったのに(眠りが完全であったり、夢がまるで自分とかけ離れたものであったりした)、なにがわれわれを導いているのか?心臓の鼓動が止まり、舌を規則的に引っ張られて息を吹きかえすときのように、たしかに死があったのだ。われわれが一度しか見たことのない部屋にもきっとさまざまな想い出をよび覚ます力が備わり、その想い出にさらに古い想い出がつながっているか、あるいはわれわれの内部で想い出のいくつかが眠りこんでいて、目覚めたときにそれが意識されるのだろう。目覚めるさいのーーー眠りというこの恵みぶかい精神錯乱の発作のあとーーー復活という現象は、つまるところ、人が忘れていた名前や詩句や反復句(ルフラン)を想い出すときに生じることと似ているにちがいない。そうだとすると死後の魂の復活も、ひとつの記憶現象としてなら理解できるかもしれない」(プルースト「失われた時を求めて5・第三篇・一・一・P.188」岩波文庫 二〇一三年)
とはいえしかし眠りについてプルーストは「眠りというこの恵みぶかい精神錯乱」と述べるだけでなく「眠りというこの恵みぶかい精神錯乱の発作」と書く。眠りはただ単に或るありふれた「精神錯乱」に過ぎないわけではない。ありふれてはいるけれどもただ単なる「精神錯乱」でしかないどころかその「発作」である。「精神錯乱」の「発作」としての「眠り」。そこで始めて睡眠中の人間の脳機能は解体されているか少なくとも弛緩しているがゆえに、社会的文法=制度から解放されていると言うことができる。そしてそういうのが正しいにしてもなお、ではただ単に「統合失調症万歳」ということにはならないし、またそもそもそういうことではない。はっきりいって精神科領域でいう統合失調症とはほとんど何一つ関係がない。関係がある場合もないではないとはいえ、それは「精神錯乱」の「発作」<としての>「眠り」の一種として、社会的文法=制度の解体された一例として上げることができるに過ぎない。問題はそういうことではほとんどなく、むしろ例えばアルトーが「器官なき身体」や「アナーキー」といった言葉で述べようと欲望している事態に遥かに近い。
なお、TBS NEWS DIGで「コロナ禍で増えたアルコール依存症」を見たところ、番組中で出された見解のうち四分の一は同意できるが四分の一は同意できないと感じ、さらに四分の一は番組内での紹介方法で同意できないと感じた箇所。残りの四分の一はコロナ禍以前からすでに始まっていた悪循環の準備過程であり文字通りコロナ禍以前からの問題として取り扱うべきが妥当なのではと感じた。
(1)同意できる四分の一。家飲み派の増大。しかしこれは以前から指摘されていたことであり何も今になって驚くことではない。普段、学生や社会人の多くが飲酒するのは帰宅時に知り合いたちと、と思い込んでいる。だがコロナ禍でそうした従来型の飲み方は困難になった。するとどうしても飲みたい人々は家飲みへ切り換える。外で飲むのとは比較にならずたいへん安く大量に飲酒できる。経済的だし酒のあてなら夕食のおかずか、それがなければ酒と一緒にコンビニで買って帰る。居酒屋より遥かに廉価で済む。ちなみに滋賀県大津市のとあるコンビニの酒類コーナーで、ウイスキー部門中最も売れている商品はニッカとサントリー「トリス」のいずれもポケット瓶。
(2)同意できない四分の一。今のところ日本でリモートワークに従事できている労働者の数はまだまだそれほど多いとは言えないし思われもしない。とはいえリモートワークの普及が「二十四時間飲酒可能」な条件を業務形態の側から労働者の側へ向けて与えることになったという点は事実。
(3)試みてみる価値はあるが結果的に同意できない事態へなし崩しになだれ込んでいきがちな傾向。酒量チェックについて。小川キャスターは「ハードルが高いと思われるかもしれませんが」というけれども、このフレーズはもう二十五年以上前、四半世紀以上も前から言われ続けてきた「ハードルの低い」試み。ともすればこの期間はどこまでも延長していけるため酒量チェック期間が逆に飲酒期間そのものへなだれ込んでしまう。
(4)同意できない四分の一。一九九〇年代後半から延々と長引く不況のため、不況の二十年間のうちすでに家飲みを始め依存症化した人々が飛躍的に増加傾向を示していたにもかかわらず、その部分を占める人々と今回のコロナ禍をきっかけに家飲みを覚えた人々との区別がなされていない点。二十五年間に渡る日本政府の不況対策失敗を「コロナ禍のせい」へ責任転嫁する報道へすり換えてはいけないということ。
BGM1
BGM2
BGM3
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1e/a4/3acc68eb144dcbf399d2867d3fdc37fd.jpg)