白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて264

2023年02月21日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

散歩。午後の部。雪が降っています。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.21)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.21)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.21)

 

日の入時刻を回りました。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.21)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.21)

 

何事もなかったかのような夕暮れです。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.21)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.21)

 

二〇二三年二月二十一日撮影。

 

参考になれば幸いです。また、散歩中に出会う方々には大変感謝している次第です。ありがとうございます。

 


Blog21・プルーストが問う「見せつけ」/シーレのはずが、どこかフィッシャー

2023年02月21日 | 日記・エッセイ・コラム

さらに続く身振りの問題。「見せつけたかったから」だと。たわけた<私>だ、とはいえ、そう感じる読者の側が決してたわけていない、たわけたことなど一度もない、と言えるだろうか。

 

「自分が感じていることとはまるで正反対のことを言って反駁するというつねに変わらぬ私のやりかたに基づき分析してみると、確かなことは、私がその夜アルベルチーヌに別れるつもりだと言ったのはーーーそのことに私自身が気づかなくてもーーーアルベルチーヌが自由を求めるのを怖れていたからであり(その自由とはどんなものかと訊かれても私は答えに窮しただろうが、要するに、アルベルチーヌが私をだましおおせるような自由、すくなくとも私がアルベルチーヌにだまされていないとは確信できなくなるような自由である)、また以前バルベックでアルベルチーヌの目に私自身を立派に見せようとしたり、後には私といっしょにいるアルベルチーヌに退屈する暇を与えたくないと願ったりしたときと同じで、自尊心ゆえに、そつのなさゆえに、私はそんなことを怖れる人間ではないとアルベルチーヌに見せつけたかったからである」(プルースト「失われた時を求めて11・第五篇・二・P.354」岩波文庫 二〇一七年)

 

プルーストが指摘する「見せつけ」という身振りの後ろ暗さ。「エゴン・シーレ特集」の中で丸山美佳が言っている。

 

「クリムトとシーレがナチス時代の美術関係者にも受け入れられていた状況を分析する美術史家のローラ・モノヴィッツは、彼らのような芸術家の戦後の再評価とその再利用は、ナチス・ウィーンで繰り広げられた、より大きな文化的政治の一部として理解されるべきだと主張する。今日のオーストリアの美術館と観光産業によるシーレのような『スーパースター』の誇張された宣伝は、ウィーン分離派たちと国家社会主義者の過去によって浮かび上がる不穏な関係とユダヤ人や女性芸術家の排除を曖昧にし、その忘却に加担してきた過程と表裏一体なのである」(丸山美佳「ウィーンの亡霊」『ユリイカ・2023・02・P.159』青土社 二〇二三年)

 

こうして<被害者としてのオーストリア>という<神話>が出来上がった。構造的にはナチスドイツの「被害者」どころか逆に「加担者」の側であるにもかかわらず。

 

しかしそれをいうなら「排除されたユダヤ人」はその後何をどうしたか。戦後すぐイスラエル建国、真っ先にアメリカが、次いで日本がそれに承認を与えた。たちまちイスラエルは世界でも稀に見る全体主義的軍国主義の最先端へ躍り出た。中東紛争は今なお続いていて収まる気配一つない。武器商品たちは笑いをこらえることができない。「被害者」を名乗りつつ演じられる「見せつけ」という身振り。ニーチェはいう。

 

「《同情をそそりたがる》。ーーー病人や精神的にふさいでいる人と交わってくらし、その雄弁な哀訴や哀泣、不幸のみせびらかしが、結局は居合わせる者を《辛がらせる》という目標を追求しているのではないかどうか、と自問してみるがよい、居合わせる者のそのときに現わす同情が弱き者・悩める者にとって一つの慰めとなるのは、彼らがそれで自分たちのあらゆる弱さにもかかわらず、すくなくともまだ《一つの権力を、辛がらせるという権力をもっている》と認識できるからである。不幸な人は同情の証言が彼に意識させるこうした優越感において一種の快感を得る、彼の己惚れが頭をもたげる、自分にはまだまだ世間に苦痛を与えるだけの重要性があるのだ。そんなわけで同情されたいという渇望は、自己満足への、しかも隣人の出費による自己満足への渇望である、それは人間を、当人のもっとも固有ないとしい自我のまったくの無遠慮さにおいて、さらけだしている」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的1・五〇・P.85~86」ちくま学芸文庫 一九九四年)

 

その上で河南瑠莉はいう。

 

「弱いことが悪いのではない。けれど、弱いことを正義とすることによって、具体的に行動に移す能力を自ら手放していきながら、道徳的に『復讐』することにのみ専念するようになるのが、危険なのだ」(河南瑠莉「空っぽの『正義』の彼方で、どのような『連帯』が可能なのか」『群像・2023・03・P.328』講談社 二〇二三年)

 

道徳的な「復讐」は人間の頭の中でだけの動きに過ぎない。政治化されることがない。「連帯」へと繋がらない。しようとしても常に、あらぬ方向へ逸れてしまう。

 

「問題を履き違えてはいけない。『能力主義』(メリトクラシー)や『嫉妬』そのものが問題なのではない。そうではなく、個人が持ちうる『機会』や『選択肢』の集合である《潜在能力》(ケイパビリティ)が平等に分配されていない社会において、それが政治化されないことの方が問題なのだ」(河南瑠莉「空っぽの『正義』の彼方で、どのような『連帯』が可能なのか」『群像・2023・03・P.328』講談社 二〇二三年)

 

この点は日本でも繰り返し問題にされてきた。ところが問題として浮上するたびに何か大事件ででも起こしてしまったかのように「自称テレビ-マス-メディア」がこぞって、なおかつ大慌て大音声でかき消し、問いかけた側が逆にかき消されてしまうという悲惨を繰り返してきた。一方に「評論家」という<砂漠の芸人>がいる。もう一方に<芸人の砂漠>が用意されている。

 

としてもなお。

 

「マルクーゼは、フロイトの現実原則に応答しながら、問いを設定しなおす。快の『抑圧』は、歴史的には資源の希少性によって合理化されてきたかもしれない。よって抑圧は文明への手段であり、目的ではないはずだ。しかし『抑圧』がいちど制度化されると、こんどは、本当は豊富であるところにも、人工的に希少性を作り出し、抑圧を正当化するメカニズムが起動するのではないだろうか。

 

たとえば、労働の機械化と合理化は、本来生活に必要な労働に注ぎ込まれる時間とエネルギーを減らしてくれるものだった。そしてその結果、個人が自由に使える時間は増え、単調な労働や、疎外化する労働ではなく、その人にとって価値のあるものに時間とエネルギーが使われるようになるはずだった。けれど実際にそうはならないのは、『抑圧』が制度化され、新たな欠乏によって合理化されているからに他ならない」(河南瑠莉「空っぽの『正義』の彼方で、どのような『連帯』が可能なのか」『群像・2023・03・P.329~330』講談社 二〇二三年)

 

なるほどフランクフルト学派はそういうだろう。間違っていない。ところが日本の現状はそこへ行こうとしても行くに行けない、見通しの暗さは遥かに絶望的だ。加速主義という言葉とその実験とは、世界中の人間を惰眠から叩き起こした点で大変有効だったし、フィッシャーの問いかけは「暗黒啓蒙」よりずっと広大な射程を今なお維持している、というより、今だ「読み尽くされていない」と言っても構わないくらいだ。

 

河南瑠莉が身を置く今のドイツ。今のドイツが抱える政治的困難も文面からは伝わってくる。河南瑠莉はマルクスの名を出しているが、ドイツによるドイツの勘違い、取り違え、置き換え、転倒、について、それらに取り組もうとするといつもこの種の困難に直面せざるをえない。どうすれば脱却できるのか。河南瑠莉ではなくマルクスの言葉へ変換してみる。

 

「フランスでは、人は一切たらんとするためには、何ものかであれば足りる。ドイツでは、人は一切を放棄すべきではないとしたら、何ものかであることも許されない。フランスでは、部分的解放が全般的解放の基礎である。ドイツでは、全般的解放があらゆる部分的解放の《不可欠な条件》である」(マルクス「ヘーゲル法哲学批判序説」『ユダヤ人問題によせて/ヘーゲル法哲学批判序説・P.93』岩波文庫 一九七四年)

 

河南瑠莉はまた、ネオリベラリズムという「中途半端」な立場を取る限り避けられない問題、にも言及している。と同時に、ベルリンで起こった、ちょっとした事件の中で浮上した言葉を紹介する。

 

「女性やクィアのための書店を開くほど意識の高い書店のオーナーも、それを賞賛する左派的な文化人たちも、あらゆるかたちの抑圧に敏感であるのに、資本の非対称性が及ぼす抑圧にだけ興味がないのは、なぜなのか」(河南瑠莉「空っぽの『正義』の彼方で、どのような『連帯』が可能なのか」『群像・2023・03・P.328』講談社 二〇二三年)

 

ニーチェの言葉へ変換してみる。

 

「自己観察に対する不信。或る思想が或る別の思想の原因であるということは、確定されえない。私たちの意識という机の上では、あたかも或る思想がそれに後続する思想の原因であるかのように、諸思想が次々と現われる。事実私たちは、この机の下で演じられている闘争を見ないのだ」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・二四七・P.147」ちくま学芸文庫 一九九四年)

 

そこにドイツだけでなく日本の弱さがある。日本人のメンタルの弱さに見えないこともないが、とはいえ、問題の焦点を「見ない」ことにかけては世界で一番強いメンタルを持っているかもしれない。マルクスの初期の言葉へ変換するとしたらこういう問いかけだ。

 

「ラディカルであるとは、事柄を根本において把握することである。だが、人間にとっての根本は、人間自身である」(マルクス「ヘーゲル法哲学批判序説」『ユダヤ人問題によせて/ヘーゲル法哲学批判序説・P.85』岩波文庫 一九七四年)

 

書店に赴くとしよう。うず高く積み上げられた各種資格取得に関する参考書。問いと答えとが掲載されている。とりわけ問いから答えを導き出すための<考える方法>に多くが割かれ重点が置かれている。各種資格取得を目指す人々はその<考える方法>を何度も繰り返し身につけようと欲望する。そうでないといつまで経っても資格取得できない仕組みになっている。

 

ところがこの種の<考える方法>こそ実は途方もない政治的装置なのだ。それは資格取得を目指す、やる気のある人々を、あらかじめ設定された「問い」から「答え」という<謎めいた正解>へ導くとともに体ごと叩き込ませてしまうための<誘導・洗脳>装置として機能する。

 

ひるがえって河南瑠莉がマーク・フィッシャー作品とともに提出している問い。それがよりいっそう有効性を発揮するためには、原発再稼働問題をかき消すことなく、バルトのいう<エロティック>なものの破壊力をーーー「シーレ特集」だけでもいろいろ出されているけれどーーー問題含み不穏だらけで政治的に「脱色」された後だという問題を、再起動させないわけにはいかないだろう。

 


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて263

2023年02月21日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

散歩。今日の大津市の日の出前と日の出後の気象予報は曇り。湿度は6時で71パーセントの予想。湖東方面も曇り。鈴鹿峠は晴れのようです。

 

午前六時十分頃に湖畔へ出ました。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.21)

 

北方向を見てみましょう。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.21)

 

今度は南方向。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.21)

 

西方向。

 

「名称:“山並み”」(2023.2.21)

 

再び湖東方向。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.21)

 

日の出時刻を回りました。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.21)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.21)

 

日が出ました。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.21)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.21)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.21)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.21)

 

二〇二三年二月二十一日撮影。

 

参考になれば幸いです。また、散歩中に出会う方々には大変感謝している次第です。ありがとうございます。

 

 


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて262

2023年02月20日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

散歩。午後の部。気象予報は曇り。外に出ました。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.20)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.20)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.20)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.20)

 

日の入です。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.20)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.20)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.20)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.20)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.20)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.20)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.20)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.20)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.20)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.20)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.20)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.20)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.20)

 

何事もなかったかのような夕暮れです。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.20)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.20)

 

二〇二三年二月二十日撮影。

 

参考になれば幸いです。また、散歩中に出会う方々には大変感謝している次第です。ありがとうございます。

 


Blog21・記号論的作用と鏡の乱反射が生み出す効果との<相同性>について/政治的課題の「住宅難」

2023年02月20日 | 日記・エッセイ・コラム

遅くはないだろう。プルースト作品の中で描かれる記号論的作用と鏡の乱反射が生み出す効果との<相同性>について。両者は手に手を取り合いながら絡まり合い、なおさら事態をますます膨張させずにおかない。

 

「それゆえおそらく私の内部に息づいていたのは、私の理性がおよその見当をつけたアルベルチーヌ像とはまるで正反対のアルベルチーヌ像だったのだろう。とはいえ、まるっきり作りもののアルベルチーヌ像というわけでもなかった。なぜならその像は、私がヴェルデュラン家へ出かけたことで不機嫌になったように、アルベルチーヌの内心に生じたある種の動揺をわが心に反映する鏡のようなものだったからである」(プルースト「失われた時を求めて11・第五篇・二・P.353」岩波文庫 二〇一七年)

 

差し当たり二点、拾っておこう。

 

(1)「まるっきり作りもののアルベルチーヌ像というわけでもなかった」。

 

なぜそうなるのか。プルースト自身が述べている。「あらゆる印象にはふたつの方向が存在し、片方は対象のなかに収められているが、もう片方はわれわれ自身のなかに伸びてい」る、と。

 

「われわれが自然なり、社会なり、恋愛なり、いや芸術なりをも、このうえなく無私無欲に観賞するときでさえ、あらゆる印象にはふたつの方向が存在し、片方は対象のなかに収められているが、もう片方はわれわれ自身のなかに伸びていて、後者こそ、われわれが知ることのできる唯一の部分である」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.481~482」岩波文庫 二〇一八年)

 

(2)「アルベルチーヌの内心に生じたある種の動揺をわが心に反映する鏡」。

 

よくあることだ。精神的苦痛を身体的症状へ<置き換え>ること。あるいは<転移>。フロイトはいう。

 

「ヒステリーでは、和解しない表象を無害なものにすることは、興奮全量を《身体的なものに置きかえた》結果としてできるが、これについて私は《転換》という名前を提案したい」(フロイト「防衛-神経精神病」『フロイト著作集6・P.10』人文書院 一九七〇年)

 

さて。連日連夜騒々しい戦争報道。歴史考察のきっかけにはなる。けれどもただ単なる「きっかけ」だけなら、もっと遥か身近なところで、しょっちゅう起こっている。ニーチェはいう。「夢を見よ」と。

 

「《夢と文化》。ーーー睡眠によってもっともひどく損われる頭脳の機能は記憶力である、それはまったく中絶するのではなくーーー人類の原始時代にはだれしも昼間や目覚めているときでもそうであったかもしれぬような、不完全な状態に後退させられている。実際それは恣意的で混乱しているので、ほんのかすか似ているだけでもたえず事物をとりちがえるのであるが、その同じ恣意や混乱でもって、諸民族は彼らの神話を詩作したのであった。そして今でもなお旅行者は、どれほどひどく未開人が忘れがちであるか、どれほどその精神が記憶力の短い緊張ののちにあちらこちらとよろめきはじめたり、単なる気のゆるみから嘘やたわごとをいいだしたりするかということを観察するのが常である。しかしわれわれはみな夢の中ではこの未開人に等しい、粗雑な再認や誤った同一視が夢の中でわれわれの犯す粗雑な推理のもとである。それでわれわれは夢をありありと眼前に浮べてみると、こんなにも多くの愚かさを自分の中にかくしているのかというわけで、われながらおどろく。ーーー夢の表象の実在性を無条件に信じるということを前提にすると、あらゆる夢の表象の完全な明瞭さは、幻覚が異常にしばしばあって時には共同体全体・民族全体を同時に襲った昔の人類の諸状態を、われわれにふたたび思い出させる。したがって、眠りや夢の中でわれわれは昔の人間の課業をもう一度経験する」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的1・十二・P.36」ちくま学芸文庫 一九九四年)

 

戦争報道と報道戦争とがごちゃ混ぜにされて視聴者に提供され続け、そしてだんだん形成されてくる「世論」という問題。それについて最も注意深い検討と反省とを加え続けていかねばならない日本のすべての政治政党。ところが、議論が急所に差しかかるやいつも乱用される雑駁この上ない方法が今なお平然と流通している。「持ち帰って検討する」という方法。だがしかし余り「持ち帰って」ばかりいると今度は「住宅難」という問題が発生してくる。

 

「《古い家に住む新しい意見》。ーーー意見の革命のあとに制度の革命が必ずしもすぐ続くものではない。むしろ新しい意見は長い間その先輩たちの荒廃した無気味になった家に住みつづけ、住宅難から自分でもそれを保管する」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的1・四六六・P.401」ちくま学芸文庫 一九九四年)

 

政治的課題の「住宅難」事情について、何をどうしたいのか、その作業はいつまでに達成されなくてはいけないのか。そうすれば何がどうなるのか。ドゥルーズのいう<政治-管理>の問題。

 

政治的課題を取り扱う不動産業者とでも呼べそうな人々が、うろちょろしている光景が視界の隅を横切らない日はもはやない。