さらに続く身振りの問題。「見せつけたかったから」だと。たわけた<私>だ、とはいえ、そう感じる読者の側が決してたわけていない、たわけたことなど一度もない、と言えるだろうか。
「自分が感じていることとはまるで正反対のことを言って反駁するというつねに変わらぬ私のやりかたに基づき分析してみると、確かなことは、私がその夜アルベルチーヌに別れるつもりだと言ったのはーーーそのことに私自身が気づかなくてもーーーアルベルチーヌが自由を求めるのを怖れていたからであり(その自由とはどんなものかと訊かれても私は答えに窮しただろうが、要するに、アルベルチーヌが私をだましおおせるような自由、すくなくとも私がアルベルチーヌにだまされていないとは確信できなくなるような自由である)、また以前バルベックでアルベルチーヌの目に私自身を立派に見せようとしたり、後には私といっしょにいるアルベルチーヌに退屈する暇を与えたくないと願ったりしたときと同じで、自尊心ゆえに、そつのなさゆえに、私はそんなことを怖れる人間ではないとアルベルチーヌに見せつけたかったからである」(プルースト「失われた時を求めて11・第五篇・二・P.354」岩波文庫 二〇一七年)
プルーストが指摘する「見せつけ」という身振りの後ろ暗さ。「エゴン・シーレ特集」の中で丸山美佳が言っている。
「クリムトとシーレがナチス時代の美術関係者にも受け入れられていた状況を分析する美術史家のローラ・モノヴィッツは、彼らのような芸術家の戦後の再評価とその再利用は、ナチス・ウィーンで繰り広げられた、より大きな文化的政治の一部として理解されるべきだと主張する。今日のオーストリアの美術館と観光産業によるシーレのような『スーパースター』の誇張された宣伝は、ウィーン分離派たちと国家社会主義者の過去によって浮かび上がる不穏な関係とユダヤ人や女性芸術家の排除を曖昧にし、その忘却に加担してきた過程と表裏一体なのである」(丸山美佳「ウィーンの亡霊」『ユリイカ・2023・02・P.159』青土社 二〇二三年)
こうして<被害者としてのオーストリア>という<神話>が出来上がった。構造的にはナチスドイツの「被害者」どころか逆に「加担者」の側であるにもかかわらず。
しかしそれをいうなら「排除されたユダヤ人」はその後何をどうしたか。戦後すぐイスラエル建国、真っ先にアメリカが、次いで日本がそれに承認を与えた。たちまちイスラエルは世界でも稀に見る全体主義的軍国主義の最先端へ躍り出た。中東紛争は今なお続いていて収まる気配一つない。武器商品たちは笑いをこらえることができない。「被害者」を名乗りつつ演じられる「見せつけ」という身振り。ニーチェはいう。
「《同情をそそりたがる》。ーーー病人や精神的にふさいでいる人と交わってくらし、その雄弁な哀訴や哀泣、不幸のみせびらかしが、結局は居合わせる者を《辛がらせる》という目標を追求しているのではないかどうか、と自問してみるがよい、居合わせる者のそのときに現わす同情が弱き者・悩める者にとって一つの慰めとなるのは、彼らがそれで自分たちのあらゆる弱さにもかかわらず、すくなくともまだ《一つの権力を、辛がらせるという権力をもっている》と認識できるからである。不幸な人は同情の証言が彼に意識させるこうした優越感において一種の快感を得る、彼の己惚れが頭をもたげる、自分にはまだまだ世間に苦痛を与えるだけの重要性があるのだ。そんなわけで同情されたいという渇望は、自己満足への、しかも隣人の出費による自己満足への渇望である、それは人間を、当人のもっとも固有ないとしい自我のまったくの無遠慮さにおいて、さらけだしている」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的1・五〇・P.85~86」ちくま学芸文庫 一九九四年)
その上で河南瑠莉はいう。
「弱いことが悪いのではない。けれど、弱いことを正義とすることによって、具体的に行動に移す能力を自ら手放していきながら、道徳的に『復讐』することにのみ専念するようになるのが、危険なのだ」(河南瑠莉「空っぽの『正義』の彼方で、どのような『連帯』が可能なのか」『群像・2023・03・P.328』講談社 二〇二三年)
道徳的な「復讐」は人間の頭の中でだけの動きに過ぎない。政治化されることがない。「連帯」へと繋がらない。しようとしても常に、あらぬ方向へ逸れてしまう。
「問題を履き違えてはいけない。『能力主義』(メリトクラシー)や『嫉妬』そのものが問題なのではない。そうではなく、個人が持ちうる『機会』や『選択肢』の集合である《潜在能力》(ケイパビリティ)が平等に分配されていない社会において、それが政治化されないことの方が問題なのだ」(河南瑠莉「空っぽの『正義』の彼方で、どのような『連帯』が可能なのか」『群像・2023・03・P.328』講談社 二〇二三年)
この点は日本でも繰り返し問題にされてきた。ところが問題として浮上するたびに何か大事件ででも起こしてしまったかのように「自称テレビ-マス-メディア」がこぞって、なおかつ大慌て大音声でかき消し、問いかけた側が逆にかき消されてしまうという悲惨を繰り返してきた。一方に「評論家」という<砂漠の芸人>がいる。もう一方に<芸人の砂漠>が用意されている。
としてもなお。
「マルクーゼは、フロイトの現実原則に応答しながら、問いを設定しなおす。快の『抑圧』は、歴史的には資源の希少性によって合理化されてきたかもしれない。よって抑圧は文明への手段であり、目的ではないはずだ。しかし『抑圧』がいちど制度化されると、こんどは、本当は豊富であるところにも、人工的に希少性を作り出し、抑圧を正当化するメカニズムが起動するのではないだろうか。
たとえば、労働の機械化と合理化は、本来生活に必要な労働に注ぎ込まれる時間とエネルギーを減らしてくれるものだった。そしてその結果、個人が自由に使える時間は増え、単調な労働や、疎外化する労働ではなく、その人にとって価値のあるものに時間とエネルギーが使われるようになるはずだった。けれど実際にそうはならないのは、『抑圧』が制度化され、新たな欠乏によって合理化されているからに他ならない」(河南瑠莉「空っぽの『正義』の彼方で、どのような『連帯』が可能なのか」『群像・2023・03・P.329~330』講談社 二〇二三年)
なるほどフランクフルト学派はそういうだろう。間違っていない。ところが日本の現状はそこへ行こうとしても行くに行けない、見通しの暗さは遥かに絶望的だ。加速主義という言葉とその実験とは、世界中の人間を惰眠から叩き起こした点で大変有効だったし、フィッシャーの問いかけは「暗黒啓蒙」よりずっと広大な射程を今なお維持している、というより、今だ「読み尽くされていない」と言っても構わないくらいだ。
河南瑠莉が身を置く今のドイツ。今のドイツが抱える政治的困難も文面からは伝わってくる。河南瑠莉はマルクスの名を出しているが、ドイツによるドイツの勘違い、取り違え、置き換え、転倒、について、それらに取り組もうとするといつもこの種の困難に直面せざるをえない。どうすれば脱却できるのか。河南瑠莉ではなくマルクスの言葉へ変換してみる。
「フランスでは、人は一切たらんとするためには、何ものかであれば足りる。ドイツでは、人は一切を放棄すべきではないとしたら、何ものかであることも許されない。フランスでは、部分的解放が全般的解放の基礎である。ドイツでは、全般的解放があらゆる部分的解放の《不可欠な条件》である」(マルクス「ヘーゲル法哲学批判序説」『ユダヤ人問題によせて/ヘーゲル法哲学批判序説・P.93』岩波文庫 一九七四年)
河南瑠莉はまた、ネオリベラリズムという「中途半端」な立場を取る限り避けられない問題、にも言及している。と同時に、ベルリンで起こった、ちょっとした事件の中で浮上した言葉を紹介する。
「女性やクィアのための書店を開くほど意識の高い書店のオーナーも、それを賞賛する左派的な文化人たちも、あらゆるかたちの抑圧に敏感であるのに、資本の非対称性が及ぼす抑圧にだけ興味がないのは、なぜなのか」(河南瑠莉「空っぽの『正義』の彼方で、どのような『連帯』が可能なのか」『群像・2023・03・P.328』講談社 二〇二三年)
ニーチェの言葉へ変換してみる。
「自己観察に対する不信。或る思想が或る別の思想の原因であるということは、確定されえない。私たちの意識という机の上では、あたかも或る思想がそれに後続する思想の原因であるかのように、諸思想が次々と現われる。事実私たちは、この机の下で演じられている闘争を見ないのだ」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・二四七・P.147」ちくま学芸文庫 一九九四年)
そこにドイツだけでなく日本の弱さがある。日本人のメンタルの弱さに見えないこともないが、とはいえ、問題の焦点を「見ない」ことにかけては世界で一番強いメンタルを持っているかもしれない。マルクスの初期の言葉へ変換するとしたらこういう問いかけだ。
「ラディカルであるとは、事柄を根本において把握することである。だが、人間にとっての根本は、人間自身である」(マルクス「ヘーゲル法哲学批判序説」『ユダヤ人問題によせて/ヘーゲル法哲学批判序説・P.85』岩波文庫 一九七四年)
書店に赴くとしよう。うず高く積み上げられた各種資格取得に関する参考書。問いと答えとが掲載されている。とりわけ問いから答えを導き出すための<考える方法>に多くが割かれ重点が置かれている。各種資格取得を目指す人々はその<考える方法>を何度も繰り返し身につけようと欲望する。そうでないといつまで経っても資格取得できない仕組みになっている。
ところがこの種の<考える方法>こそ実は途方もない政治的装置なのだ。それは資格取得を目指す、やる気のある人々を、あらかじめ設定された「問い」から「答え」という<謎めいた正解>へ導くとともに体ごと叩き込ませてしまうための<誘導・洗脳>装置として機能する。
ひるがえって河南瑠莉がマーク・フィッシャー作品とともに提出している問い。それがよりいっそう有効性を発揮するためには、原発再稼働問題をかき消すことなく、バルトのいう<エロティック>なものの破壊力をーーー「シーレ特集」だけでもいろいろ出されているけれどーーー問題含み不穏だらけで政治的に「脱色」された後だという問題を、再起動させないわけにはいかないだろう。