白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・<制度化された顔>というテーマと<制度化された顔という制度からの解放>というテーマ/満洲侵攻の反復としてのウクライナ侵攻

2023年02月23日 | 日記・エッセイ・コラム

昨日の午前中に上げたブログが上がっていないとか、午後になって上がっているとか、ブログ主では判断できない。goo blogの管理責任なのかもしれないが、そこまではわからない。なのでもう一度上げてみることにしました。

 

プルーストは<制度化された顔>というテーマと<制度化された顔という制度からの解放>というテーマを接続する。二箇所。(1)「その表情は、そんないら立ちをいだきながら口には出さずにいる人にとって、論理的裏づけのある不平不満や明確な考えが肉体のなかに結晶したもので、それらが総合されて目には見えるようになったがもはや合理性を失っている」。(2)「愛する相手の顔からそうした不平不満や考えの貴重な残滓をかき集めようとする者は、相手の心中に生じていることを理解するために、こんどは分析の手法を用いて、総合された全体を元のさまざまな知的要素へ戻そうと試みる」。

 

「ところが消え失せていた危惧がいっそう強い力でふたたび私にとり憑いたのは、私がヴェルデュラン家へ行ってきたとアルベルチーヌに告げたとたん、その顔に不可解ないら立ちの表情がつけ加わるのを見て、そもそもその表情があらわれたのはこれが最初ではないと気づいたときである。その表情は、そんないら立ちをいだきながら口には出さずにいる人にとって、論理的裏づけのある不平不満や明確な考えが肉体のなかに結晶したもので、それらが総合されて目には見えるようになったがもはや合理性を失っていること、また愛する相手の顔からそうした不平不満や考えの貴重な残滓をかき集めようとする者は、相手の心中に生じていることを理解するために、こんどは分析の手法を用いて、総合された全体を元のさまざまな知的要素へ戻そうと試みることだということも、私はよく承知していた」(プルースト「失われた時を求めて11・第五篇・二・P.356」岩波文庫 二〇一七年)

 

というのもそもそも人間の顔というのは、或る価値体系のもとで一つの<制度として>成立してきたものでしかなく、それがまた別の価値体系へ移動した場合、たちまち解体されるほかないような<制度>でしかないからだ。或る一つの条件のもとで、その有効期間中に限り、かろうじて持続することができる、余りにも脆く儚いものだ。

 

なおかつ<制度としての顔>がいっときの流行として何度でも繰り返し反復可能であり、様々な仮面の組み合わせ組み換えを要請するのは、文字通りそれがほんのいっとき有効性を持つに過ぎない<制度>でしかないという条件に取り憑かれているからに他ならない。

 

ルノワールの絵画が先頭に立っていた時期。それはルノワールの絵画がパリ全域で<制度化>され終わり、次の新しい絵画の潮流によって押し流されるまで続いた。

 

「ある新進作家が発表しはじめた作品では、ものとものとの関係が、私がそれを結びつける関係とはあまりにも異なるせいか、私には書いていることがほとんど理解できなかった。たとえばその作家はこう書く、『撒水管はみごとに手入れされたもろもろの街道に感嘆していた』(これはさして難しくないので、その街道沿いにすいすい進んでゆくと)『それらの街道は五分ごとにブリアンやクローデルから出てきた』。こうなるともはや私には理解できなかった。町の名が出てくるはずだと思っていたのに、人名が出てきたからである。ただし私は、出来の悪いのはこの文ではなく、私のほうに最後までゆき着くだけの体力も敏捷さも備わっていない気がした。そこでもう一度はずみをつけて、手脚も駆使して、ものとものとの新たな関係が見える地点にまで到達しようとした。そのたびに私は、文の中ほどまで来ると、のちに軍隊で梁木(りょうぼく)と呼ばれる訓練をしたときのように、ふたたび落伍した。それでもやはり私は、その新進作家にたいして、体操の成績にゼロをもらう不器用な子がずっと上手(じょうず)な子に向けるような賞賛の念をいだいた。そのころから私はベルゴットにさほど関心しなくなった。その明快さがもの足りなく思えたのだ。その昔には、フロマンタンが描くありとあらゆるものがだれにもそれとわかり、ルノワールの筆になるとなにを描いたものかわからない、といった時代もあったのである。趣味のいい人たちは、現在、ルノワールは十八世紀の大画家だと言う。しかしそう言うとき、人びとは『時間』の介在を忘れている。ルノワールが、十九世紀のさかなでさえ、大画家として認められるのにどれほど多くの時間を要したかを忘れているのである。そのように認められるのに、独創的な画家や芸術家は、眼科医と同じ方法をとる。絵画や散文によるその療法は、かならずしも快くはないが、治療が終わると、それを施した者は『さあ見てごらんなさい』と言う。すると世界は(一度だけ創造されたのではなく、独創的な芸術家があらわれるたびに何度も創造し直される)、昔の世界とはまるで異なるすがたであらわれ、すっかり明瞭に見える。通りを歩く女たちも昔の女とは違って見えるが、それはルノワールの描く女だからであり、昔はそんなものは女ではないと言われていたルノワールの描いた女だからにほかならない。馬車もルノワールの描いたものだし、水も空も同様である。われわれは、その画を最初に見たときには、どうしても森にだけは思えず、たとえばさまざまな色合いを含んではいるが森に固有の色合いだけは欠いたタピスリーに思えたものだが、そんな森と今やそっくりの森を散歩したい欲求に駆られる。創造されたばかりの新たな世界、しかしやがて滅びる世界とは、このようなものである。この世界は、さらに独創的な新しい画家や作家がつぎの地殻の大変動をひきおこすまでつづくだろう」(プルースト「失われた時を求めて6・第三篇・二・二・一・P.339~342」岩波文庫 二〇一三年)

 

だが顔の場合はもっと早い。顔を形成している諸断片は様々に解体・置き換え・再構成が可能だ。そのぶん、再解体、再総合、いずれの作業も人々の「お気に召すまま」自由自在に加工=変造できてしまう。人間は他人の顔を自分の頭の中に呼び出し、暇つぶしでもするかのようにしょっちゅう他人の顔、なかでも表情を歪めてみたり笑わせてみたり、とりわけ卑猥な取り扱い方に習熟する。

 

顔はなるほど制度ではある。ところが個々人の頭の中で推し進められるのはどんな作業だろうか。何人もの他人の顔の諸断片を組み合わせ組み換え、加工=変造する作業が止むことなく進行している。しまいに、その顔は一体誰の顔なのか、さっぱりわからないところまでもて遊んでしまうのである。プルーストがいうのは、<顔の制度化>と<制度としての顔の解体>とは、いつも同時に絶え間なく推し進められている、否定しようのない事情についてなのだ。

 

さて。今日も朝から騒々しいウクライナ問題。ロシアを追求する動きを加速すべきだと大声を上げる「自称テレビ-マス-メディア」。大いにやればいいと思う。だがそうすればそうするほど視聴者はまた別のことを思い出さざるを得ず、複雑な面持ちになるのは仕方がないのかもしれない。弘末雅士はいう。

 

「一九三三年三月にハッタは、企業視察のため日本を訪問している。そこでの対応は、インドネシア民族主義運動の展開と日本の満州侵略を考えるための、興味深い材料を提示する。『ジャワのガンジー』と日本の新聞で評されていた彼は、東京へ向かう列車の中で、インドネシアでの運動は最終的にオランダに対し、人民を反乱させようとするものかと尋ねられた。それに対し彼は、目覚めた民族がずっと踏みつけられているわけにはいかないと答え、その可能性を否定しなかった(『ハッタ回想録』)。

 

この日本訪問は、満洲国樹立の翌年であった。ハッタは東京で、帝国議会の副議長に食事に招待された。副議長から彼は、日本の満洲侵略の理由について聞かされた。副議長は、この地域がソヴィエト・ロシアに占領されると、日本には胸元に突きつけられたピストルになると述べた。自国を脅かす存在に対処するため、満洲に侵攻したという彼の主張である。副議長はハッタに、満洲訪問を勧めた。日本の満洲侵略を帝国主義的行動とみなしていたハッタは、副議長の主張に共感できず、それを断った。ただし、まさかその四二年後に、インドネシアが同様な理由から東ティモールに侵攻するとは思わなかったであろう」(弘末雅士「モハマッド・ハッタの夢」『図書・2022・6・P.28~29』岩波書店 二〇二二年)

 

ここで言及されている「日本の満洲侵略」とその理念。それは「今日のロシアによるウクライナ侵攻の理念」とまるで違わない、どこがどう違うのか、という指摘である。同じことが時間と場所とを移動させて反復されている。

 


Blog21・「猫の日」に寄せて

2023年02月22日 | 日記・エッセイ・コラム

きょうは「猫の日」だそうだ。朝刊を見ると猫にかんする書籍広告がたくさん並んでいた。ほとんどが絵本とか写真集とか。それはそれでいいのだろう。しかし違和感を覚えないでもない。なぜなら猫は、人間が捏造した安物の<物語>とは今なお無縁でありつづけているように思うからだ。

 

猫の飼主として、絵本や写真集より遥かに猫に近いように見えるものがある。詩。例えば、萩原朔太郎の詩。

 

「海面のやうな景色のなかで

しつとりと水気にふくらんでゐる。

どこにも人畜のすがたは見えず

へんにかなしげなる水車が泣いてゐるやうす。

さうして朦朧とした柳のかげから やさしい待びとのすがたが見えるよ。

うすい肩かけにからだをつつみ

びれいな瓦斯体の衣裳をひきずり

しづかに心霊のやうにさまよつてゐる。

ああ浦 さびしい女!

『あなた いつも遅いのね』

ぼくらは過去もない未来もない

さうして《現実のもの》から消えてしまつた。ーーー

浦!

このへんてこに見える景色のなかへ

泥猫の死骸を埋めておやりよ」(萩原朔太郎「猫の死骸」『萩原朔太郎詩集・P.385~386』岩波文庫 一九五二年)

 

逆に、飼主のことを猫はどう思っているのだろう。たぶんこんな感じだ。

 

「まつくろけの猫が二疋、

なやましいよるの屋根のうへで、

ぴんとたてた尻尾のさきから、

糸のやうな《みかづき》がかすんでゐる。

『おわあ、こんばんは』

『おわあ、こんばんは』

『おぎやあ、おぎやあ、おぎやあ』

『おわああ、ここの家の主人は病気です』」(萩原朔太郎「猫」『萩原朔太郎詩集・P.129』岩波文庫 一九五二年)

 

ちなみにライオンは猫の仲間である。ライオンも猫も、地球上でどのような循環を営んでいるのだろう。バタイユはいう。

 

「動物の生においては、主人とその命令下にある奴隷という関係を導入するものはなにもなく、また一方に独立を、そして他方に従属をうち立てるようなものもなにもない。動物たちはお互いに食べ合うのであるから、その力は同等ではないけれども、彼らの間にはこうした量的な差異以外のものはけっしてないのである。ライオンは百獣の王ではない。それは水流の動きの内で、比較的弱小な他の波たちを打ち倒すより高い波に過ぎない。ある動物が他の動物を食べるということは、根本的な情況を変えるものではまずないのである。全て動物は、《世界の内にちょうど水の中に水があるように》存在している」(バタイユ「宗教の理論・第一部・一・P.23」ちくま学芸文庫 二〇〇二年)

 

「猫の日」。それはライオンの日でもある。だから今日は獅子の日なのだ。ニーチェはいう。獅子になること。獅子は猛獣として強奪する。かといって、獅子ですら不可能なことをやすやすとやってのけることのできる人間がいる。子どもだ。

 

「新しい諸価値を立てる権利をみずからのために獲得することーーーこれは重荷に堪える敬虔(けいけん)な精神にとっては、身の毛のよだつ行為である。まことに、それはかれにとっては強奪であり、強奪を常とする猛獣の行なうことである。

 

精神はかつて、『汝なすべし』を、自分の奉ずる最も神聖なものとして愛していた。いまかれはこの最も神聖なもののなかにも、迷妄(めいもう)と恣意(しい)を見いださざるをえない。そして自分が愛していたものからの自由を強奪しなければならない。この強奪のために獅子を必要とするのだ。

 

しかし思え、わたしの兄弟たちよ。獅子さえ行なうことができなかったのに、小児の身で行なうことができるものがある。それは何であろう。なぜ強奪する獅子が、さらに小児にならなければならないのだろう。小児は無垢(むく)である。忘却である。新しい開始、遊戯、おのれの力で回る車輪、始原の運動、『然(しか)り』という聖なる発語である。そうだ、わたしの兄弟たちよ。創造という遊戯のためには、『然り』という聖なる発語が必要である。そのとき精神は《おのれの》意欲を意欲する。世界を離れて、《おのれの》世界を獲得する」(ニーチェ「ツァラトゥストラ・第一部・三様の変化・P.39」中公文庫 一九七三年)

 

ところで、あの泥猫の死骸は今、どこでどうしているだろうか。

 


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて266

2023年02月22日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

散歩。午後の部。よく晴れていました。

 

「名称:“琵琶湖疏水”」(2023.2.22)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.22)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.22)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.22)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.22)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.22)

 

日の入時刻に近づきました。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.22)

 

「名称:“日の入”」(2023.2.22)

 

「名称:“日の入”」(2023.2.22)

 

「名称:“日の入”」(2023.2.22)

 

「名称:“日の入”」(2023.2.22)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.22)

 

何事もなかったかのような夕暮れです。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.22)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.22)

 

二〇二三年二月二十二日撮影。

 

参考になれば幸いです。また、散歩中に出会う方々には大変感謝している次第です。ありがとうございます。

 

 


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて265

2023年02月22日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

散歩。今日の大津市の日の出前と日の出後の気象予報は晴れ。湿度は6時で78パーセントの予想。湖東方面も晴れ。鈴鹿峠も晴れのようです。

 

午前六時十分頃に湖畔へ出ました。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.22)

 

北方向を見てみましょう。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.22)

 

今度は南方向。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.22)

 

西方向。

 

「名称:“山並み”」(2023.2.22)

 

再び湖東方向。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.22)

 

そろそろのようです。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.22)

 

日が出ました。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.22)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.22)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.22)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.22)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.22)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.22)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.22)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.22)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.2.22)

 

「名称:“通勤通学路”」(2023.2.22)

 

二〇二三年二月二十二日撮影。

 

参考になれば幸いです。また、散歩中に出会う方々には大変感謝している次第です。ありがとうございます。

 


Blog21・プルースト作品と<諸断片>としての日記/八月十五日の日本の三人の女性の日記に見るそれぞれの差異/ウクライナ戦争で両陣営の板挟みになっている当事者の生のうめき

2023年02月21日 | 日記・エッセイ・コラム

プルーストは自分で自分自身を実験台の上に置く。<私>が<私>の感情の側を「隠しておき、それゆえ読者が私の発言だけを知ることになれば」、どうなるだろうかと。「その発言とはまるで辻褄の合わぬ私の行為は、読者にしばしば異様な豹変との印象を与えかねず、読者は私をほとんど気が狂ったかと思うだろう」

 

「しかし私がかりに読者に私の感情を隠しておき、それゆえ読者が私の発言だけを知ることになれば、その発言とはまるで辻褄の合わぬ私の行為は、読者にしばしば異様な豹変との印象を与えかねず、読者は私をほとんど気が狂ったかと思うだろう」(プルースト「失われた時を求めて11・第五篇・二・P.355~356」岩波文庫 二〇一七年)

 

どこか仰々しい文章。その仰々しさが、こっそりとだが、考えられうるもう一つの試みを覆い隠すのに役立つことはプルーストがほかの誰よりもよく知っている。もう一つの試みとは何か。

 

例えばそれだけを独立させて作品化することはない。それは差し当たり<作品の外>のことであって、後になって作品の部分として組み込まれることもあれば組み込まれないこともある。それはいつも<諸断片>としてのみ存在するもので、この機会に発表するしかないと思うことがもしあれば、いつどのようにでも利用可能だ。それは何か。日記である。

 

先日新聞の新刊広告を見たら、キム・ナムジュ「82年生まれ、キム・ジヨン」(ちくま文庫)が紹介されていた。文庫化。もうそんな時間が経ったのだろうか。忘れていたわけではないが文庫化にはまだ早い気がした。もっとも、底辺生活者層にとってはうれしいわけだが。

 

とはいえ今回新聞広告を見て改めて目に入ったのは作家キム・ナムジュ、ではなく、翻訳に当たった斎藤真理子の名だ。去年の梅雨頃、一九四五年八月十五日について、三人の文筆家(吉沢久子、野上弥生子、田辺聖子)の日記を取り上げこう書いている。

 

「八月十五日。吉沢久子は『陛下の放送を、街中できき』たいと思い、神田駅近くの電気屋の前に立ったという。そして『放送が終わってまわりの人を見たら、やはり泣いている人はいたが、あげた顔に、戦争は終わったのだという明るさが見えたと思った』と書いた。野上弥生子は、『いづれにしても、これで五年間の大バクチはすつからかんの負けで終つたわけである』と記した」(斎藤真理子「三人の女性の『敗戦日記』」『図書・2022・7・P.63』岩波書店 二〇二三年)

 

八月十五日の受け止め方について、吉沢久子や野上弥生子が記した日記の場合、言葉の側から逆に、ずいぶん落ち着きのある態度をすでに身につけていたことがよくわかる。その二人の言葉と、当時、樟蔭女子専門学校(現・大阪樟蔭女子大学)に在学中で十八歳だった田辺聖子が日記に残した言葉との間には、明白な質的開きが認められる。田辺文学の是非は別として、八月十五日の当事者として、余りにも多感過ぎたのか嫌でも露呈してくる心の揺れを大きく感じる。斎藤真理子も前者の二人と田辺聖子との間にひと呼吸置いてみて、こう述べる。

 

「田辺聖子の八月十五日以後の日記は、一ページごとに『がんばって!』と声をかけたくなるような、『多感』そのものの毎日だ。敗戦の二日後には校長から『これからは、男子は戦争から帰ってくるから、女子は元のように家庭へ帰るべきである』という訓示がある。それについては何の感想も書かれていないが、かえってそこに田辺聖子の失望や虚脱が見えるような気がする。

 

『かつての日の感激と、大言壮語を私はさびしく思いかえし』という自己省察、『理由なき支那蔑視は排すべきであった』という覚醒、亡くなった父への思い、学びたい意欲、文学への夢。そして一九四七年三月四日、卒業式を目前にした日記には『さあこれから、経験を積み、人生観を高め、深く考えて、勇ましく人生の海へ乗り出してゆこう』と書かれていた」(斎藤真理子「三人の女性の『敗戦日記』」『図書・2022・7・P.63』岩波書店 二〇二三年)

 

キム・ナムジュ「82年生まれ、キム・ジヨン」文庫化に際して翻訳家としての斎藤真理子が気になったのはこの短文に目を通していたからである。としても、どんな女性も吉沢久子、野上弥生子、田辺聖子のようになれるわけではまるでない。上野千鶴子はいう。二箇所。

 

(1)「女性の職場進出がこんな暗いハナシばかりでいろどられていたら、そこまで犠牲を払って得られる自立なんてまっぴら、と女たちが思っても無理はない。けれど戦後三〇年余、女たちは強くなりつづけて、『仕事も家庭も』らくらくこなす女たちが現われた。

 

今では、バリバリのキャリアウーマンが、結婚して子どもを持っていても誰も驚かないし、女っぽい粧いであらわれたら、かえってセンスの良さをほめるくらいだ。たとえば『仕事か家庭か』の時代の私たちのヒーロー──ヒロインと言うべきだろうか?──は、結婚もせず、子どもも持たず、この道一筋に歩んだ大先輩、市川房枝さんのような人だが、今日、『仕事も家庭も』の時代のモデルは、主婦としての役割をこなした上で、なおかつ、男顔負けの仕事をこなすスーパーウーマンである。

 

もちろん、こんな生活は、誰にもまねできるものではない。家庭と仕事と、いずれの領域においても一人前の仕事をこなす女たちは、つまり二人前以上の能力のあるスーパーウーマンたちで、彼女らは、能力と、何より体力と、そしてそれに劣らず運に恵まれている。こういう女性の周囲には、たいがい姑か実家の母がいて子育てを助けてくれているものだし、本人自身が何より肉体的にタフである。自分も、そして夫も子どもも、健康でなくては、こんな生活はもつものではない。

 

いつの時代にも、こういうずば抜けたスーパーウーマンは、人口の何パーセントかはいて、彼女たちの姿は女たちの希望の星になってきた。だが能力も体力もないふつうの女がこのまねをしようと思ったら、まずただちにカラダをこわすのがオチだ。無理をしてへこたれる女たちを、責めるのは酷である。無理をしてもへこたれない方が、とくべつなのである。

 

なるほど、仕事も家庭もさっそうとこなすわれらがスーパーウーマンの姿はきらきらしい。もちろん能力に劣らず努力もしていることだろうが、女だってがんばれば、あんなふうに自立と解放をかちとることができる、というモデルを提供してくれそうに見える。仕事も家庭も、と欲ばって、それを全部実現してしまう、女の自己実現のお手本のように思える。

 

だが、概してこういう女性たちは、自分の能力と努力のレベルを標準にものを考えるから、自分なみに力もがんばりもないふつうの女たちに対して厳しい。彼女たちは、ダメな女の甘えを批判するが、その裏には、できる女のおごりがある。アメリカの社会学者は、これをうまく名づけて『女王蜂症候群』と呼んだ。

 

スーパーウーマンは、万人のモデルにはならない。彼女らのかがやかしい姿を見れば見るほど、できる女はやればいい、わたしは足を引っ張るようなことはしたくない、でも自分にはとても無理だわ、とただの女は思ってしまう。それを見たできる女は、『だから女は』とくやしがる。女同士のちがいは開く一方だ」(上野千鶴子「女という快楽・P.218~220」勁草書房 一九八六年)

 

(2)「女の集りで話をするたびに、真剣で熱気を帯びた彼女たちに向かって、口がさけても言いたくないことばがある。それは『がんばって』という一言だ。私は『がんばって』と他人に言うのもイヤだし、他人から言われるのもイヤだ。がんばりたくなんか、ないのだから。それでなくても、女はすでに十分にがんばってきた。がんばって、はじめて解放がえられるとすれば、当然すぎる。今、女たちがのぞんでいるのは、ただの女が、がんばらずに仕事も家庭も子どもも手に入れられる、あたりまえの女と男の解放なのである」(上野千鶴子「女という快楽・P.226」勁草書房 一九八六年)

 

なお、一九四五年八月十五日を思い出すことは、同時に、今現在進行中のウクライナ戦争について触れないわけにいかなくさせる。主に「自称テレビ-マス-メディア」を通してだが、何十年もロシア研究者としてロシアを愛すればこそ、今のロシアにはもう絶望しか見出せないと本音を言い出した専門家による告発が相次いできた。読者としてはもっと暴露して欲しい気はする。

 

と同時に常に混み入った戦争報道/報道戦争の中で、ロシアかさもなくばアメリカかという極めて狭い二者択一の罠へ動員する同調圧力によって、途轍もない精神的苦痛に喘いでいる当事者がいることを知っておくことも、「専門家」の発言と同じか、あるいはそれ以上に重要なのであって、ややもすればそんなことまるでないかのように無視されてしまいがちな日本の「空気感」への慎重かつ批判的態度を忘れず怠らない必要がある。一九七〇年ユーゴスラヴィア生まれの作家・写真家・舞台女優でもある高橋ブランカはいう。

 

「あの時と同じです。NATOが一九九九年にユーゴスラビアを空爆した時です。あり得ないと思ったことが、七八日間続きました。軍人のみならず、子供を含む一般人も数多く死亡しました。国際社会(弱々しい!)反対を意に介さず自分とは何の関係もない国を空爆しました。その結果、圧倒的に弱いユーゴスラビアは負けて、領土の一部(コソヴォ)をあきらめなければいなけくなったのです。

 

そのアメリカの行為を強く非難したロシアは、何と、同じことをしています!今度はアメリカがウクライナへの侵攻を避難しています。ロシアは非難に対して悪びれもせずアメリカがやってよい事をロシアはダメだと言うんですか』と反論してします。

 

常に東と西の間にいる私はと言うと、開いた口が塞がらないまま《幼稚園児》が武器で遊んでいる様子を眺めるしかありませんーーー」(高橋ブランカ「婆さんと蛙の足し算」『図書・2022・7・P.21』岩波書店 二〇二二年)

 

常に切実な小文字の言葉あるいは言葉にならない複雑な心境。にもかかわらずヤルタ-ポツダム体制という桎梏(しっこく)から自由になる方法を自分自身の手でほとんど絶ちきった日本政府とその「自称テレビ-マス-メディア」は、こぞって自国の国民だけでなくせっかく日本へ移住してきてくれた外国人をも、議論抜きの圧殺主義的政治暴力によってばんばん戦時体制へ加速的に巻き込んでいく。危機の時代の生贄として国際社会の中から(ロシアも中国も望んでいるように)まんまと選抜された日本。公式に「死の欲動」まる出しの意志を承認され背中を押されて名誉だと喜んでいるふしさえ見受けられる日本とその「世論」。