白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・「ここ十五年」の落ち着きのなさ考

2023年10月30日 | 日記・エッセイ・コラム

ここ「十五年」というフレーズをしばしば目にするようになったのが去年のこと。大きな変化に晒された。何が。世界が。単純に語るわけにはいかないし語れるはずもない変化はさらなる変化を加速的に呼び寄せつつある。あちらにもこちらにも。

 

とともにこの種のグローバルな変化に耐えがたさを覚える大衆とその指導者層の中から大きく浮上してきた動きがある。日々目にする光景。差し当たり「反知性主義」と呼ばれている。地位も名もある知識人の中からでさえ平然と湧き出てきた数しれぬ「反知性主義」信奉者。かつては高慢ちきな知識人主導のイデオロギーが問題だったが今では反知性主義イデオロギーが問題になっているばかりか反知性主義イデオロギーの流行に便乗し政治利用して止みそうにない人々の胎動が問題をさらに混乱させているかに見える。「反知性主義」信奉者の言動の奇妙さは一見した明らかだと言われている。例えば「反知性」にもかかわらず身内の人間ばかり有名大学へ、超有名大学へ、誰もが知る多国籍企業へ送り込みたがる。何かといえば絶大な政治的影響力を持つ縁組へ、仲間内だけで物事を押し進めようとしてはばからない。

 

しかしここ「十五年」というフレーズに含まれているグローバルな急進的変化について、誰もが「初心者」だという点はさんざん議論されているにしても議論の内容は空っぽに見える。できるだけ無駄な時間を作り無駄な時間ばかり消費せよと厳命されているような違和感を拭いきれない。あるいは空疎に思えて仕方がない。エリック・ホッファーはいう。「新しい状況にみずから適応しなければならないとき、われわれは不適合者(ミスフィット)なのだ」。

 

「変化の経験をじっくりと考察してみよう。第二次大戦後、アジア、アフリカの途上国は情熱と耳を聾(ろう)する喧騒にみちた雰囲気の中でみずからを近代化しはじめた。素朴なアメリカ人らしく、私は近代化ーーー工場、道路、ダム、学校などを建設するーーーというまじめな、実際的な仕事がなぜ熱狂的な騒ぎをひき起こさねばならないのだろう、と自問した。自著『変化という試練』で私はこの問いに対する答えを見いだそうと試みた。私の中心的な考えは、ドラスティックな変化とは根本的にくつがえってしまう体験であるということ、新しく先例のない事柄に直面したとき、われわれの過去の経験や業績は助けになるよりむしろ障害になるということ、であった。モンテーニュが死について『わたしはそれに関するかぎりみな初心者である』と語ったことは、まったく新しい経験についても真実なのである。新しい状況にみずから適応しなければならないとき、われわれは不適合者(ミスフィット)なのだ。そして不適合者は情熱的な雰囲気の中で生き、呼吸するのである。われわれは革命が変化の原因である、と考えていた。実際はその逆で、変化が革命の地盤を準備するのだ。変化の経験に内在する困難や焦燥が人々をして革命のアピールを受容せしむるのである。変化が先なのだ。事態が全然変化しないところでは、革命の可能性は最も少ない」(ホッファー「未成年の時代」『現代という時代の気質・P.19〜20』ちくま学芸文庫 二〇一五年)

 

急進的左派に急進的右派が対応していた時代はすでに終わっている。そこで二元的対立構造は罠だということを常々述べてきた。いずれの陣営も昨今の急進的変化の渦中で対応しきれていない。ショック症状を起こしたまま自らが自らの手で病いをますます悪化させていくばかり。にもかかわらず世界中が訳知り顔で一人前に振る舞えているに違いないと思い込んでいる。一つ一つの事柄についてきわめて注意深く慎重な人々もなるほど少なくないとはいえ。

 

言い換えれば、ここ十五年のあいだで最も急進的だったのは世界の変化であってグローバル規模での「反知性主義」の台頭を巻き起こしてしまった政治経済的などんな立場あるいは陣営でもない。立場や陣営というものは逆に、変化の「後になって」起こってきたショック症状に伴う目まいから醒め切っているとはとてもではないけれども言えないだろうとおもう。


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて592

2023年10月30日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

母の朝食の支度。今朝は母が準備できそうなのでその見守り。

 

午前六時。

 

前夜に炊いておいた固めの粥をレンジで適温へ温め直す。今日の豆腐は四国化工機「おいしいとうふ絹」。1パックの二分の一を椀に盛り、水を椀の三分の一程度入れ、白だしを入れ、レンジで温める。温まったらレンジから出して豆腐の温度が偏らずまんべんなく行き渡るよう豆腐を裏返し出汁を浸み込ませておく。おかずはキュウリの糠漬け。

 

(1)糠を落とし塩分を抜くため一度水で揉み洗い。(2)漬物といっても両端5ミリほどは固いので包丁で切り落とす。(3)皮を剥く。(4)一本の半分のままの細長い状態で縦に三等分する。(5)三等分した細長いキュウリを今度は5ミリ程度の間隔で横に切り分けていく。(6)その上にティッシュを乗せてさらに沁み込んでいる塩分を水とともに吸い上げる。今朝はそのうち十八個程度を粥と一緒に食する。

 

昨日夕食はカニ雑炊。ホウレンソウの胡麻和え。一度衰えた食欲の回復を周囲が変に煽り立てて元気を出させるのは精神的に逆効果なのは医療の常識。体力的にも不要な疲労が積み重なりいたずらに死期を早めてしまう。そこは気をつけたい。

 

参考になれば幸いです。

 

今朝の音楽はビル・エバンス「ALL OF YOU」。


Blog21・「死」を反復する「私」

2023年10月30日 | 日記・エッセイ・コラム

「私」が死を恐れなくなったのはどうしてだろう。実年齢で「老いた」からというだけでは説明にならない。実年齢で「老いていない」場合でも「私」が死を恐れずに生きていくことを可能にするきっかけはこれまでに何度もあった。作品の中で直接書かれていないとしても書かないことで逆に読者に読み取らせる方法はすでに確立されていた時代。もしプルーストがそのことに気づいていなかったと考えるとしたらそれこそ失笑を買うか哀れみの目を向けられることすらなく終わるだろう。

 

ゲルマント家のパーティーで次々と描かれる光景は一人の人間が時間の作用とともにまるきり別人に変化するということに重点が置かれている。ゲルマントならゲルマントという「名」が欠落していればもうその時点でゲルマント夫人はゲルマント夫人ではありえずまったくの別人として認識されるかまったくの別人としてしか認識されないというどこにでも転がっているありふれた事実報告である。

 

過去の社交界で天上の存在に映って見えていた華々しいゲルマント夫人はもはや死んだ。現在生きているゲルマント夫人はもしゲルマントという「名」をぶら下げていなかったなら即刻退場するほかない別人である。過去と現在との間には切断がある。切断のない人間というものはこの世に一人も存在しない。性格が変わるとか見た目が老けるとかいうわかりきったこととは違った意味で、語り手が繰り返し強調するのは、この「間」、「間歇性」、「切断と再接続との反復」=「離接」という避けて通れない事情についてだ。この「間歇性」という言葉をもっとわかりやすい言葉へ変換すれば「死」ということになる。

 

ジルベルトを愛している時期の「私」とアルベルチーヌを愛している時期の「私」は同じ「私」だろうか。違うと語り手はいう。両者の「間」には「死」があった。あるいは「間という死」が認められる。その意味で人間は生涯を通して何度も「死」を経験する。

 

「ところが奇妙な暗号というべきか、危険を怖れるこうした熟慮が私のうちに生まれたのは、ほんのしばらく前、死を考えることが私にはどうでもよくなったまさにそのときである。私が私自身でなくなるという怖れはその昔、それも新たな恋心を(ジルベルトやアルベルチーヌに)いだくたびに、私をぞっとさせた。なぜなら私は、それが一種の死に相当するからであろう、その女性を愛している存在がある日もはや存在しなくなるという考えに耐えられなかったからである」(プルースト「失われた時を求めて14・第七篇・二・P.279」岩波文庫 二〇一九年)

 

これまで「死」を繰り返し反復してきたことに気づいた瞬間、「私」はもはや「死」を恐れる必要を《失った》と言うこともまた可能だろう。


Blog21(番外編)・二代目タマ’s ライフ166

2023年10月29日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇二三年十月二十九日(日)。

 

早朝(午前五時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

朝食(午前八時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

昼食(午後一時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

夕食(午後六時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

深夜に物音を立てていたのでまた色鉛筆を引っ張り出して遊んでいるのだろうと思い、早朝、回収しようと床を見渡す。

 

見つけた。

 

ところがそれは取り出せないようにあらかじめ八本ほど輪ゴムで縛って文房具箱に入れておいた色鉛筆のかたまり。口でくわえたのだろうか。前足でごそごそやりながら?もしかしたら歯を輪ゴムそのものに引っかければさほど力を使うことなく簡単に取り出せることに気づいたのかもしれない。

 

黒猫繋がりの楽曲はノン・ジャンルな世界へ。PJハーヴェイ。キャリアも長くなってきたがそれよりPJハーヴェイの声がそもそもノン・ジャンルなものに思える。その1。

ちなみに三十年前はこんな感じ。


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて591

2023年10月29日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

母の朝食の支度。今朝は母が準備できそうなのでその見守り。

 

午前六時。

 

前夜に炊いておいた固めの粥をレンジで適温へ温め直す。今日の豆腐は四国化工機「おいしいとうふ絹」。1パックの二分の一を椀に盛り、水を椀の三分の一程度入れ、白だしを入れ、レンジで温める。温まったらレンジから出して豆腐の温度が偏らずまんべんなく行き渡るよう豆腐を裏返し出汁を浸み込ませておく。おかずはキュウリの糠漬け。

 

(1)糠を落とし塩分を抜くため一度水で揉み洗い。(2)漬物といっても両端5ミリほどは固いので包丁で切り落とす。(3)皮を剥く。(4)一本の半分のままの細長い状態で縦に三等分する。(5)三等分した細長いキュウリを今度は5ミリ程度の間隔で横に切り分けていく。(6)その上にティッシュを乗せてさらに沁み込んでいる塩分を水とともに吸い上げる。今朝はそのうち十八個程度を粥と一緒に食する。

 

昨日夕食は甘エビのお造り一個。味は決して口に合わないわけではないのだが量的に一個食べられればせいぜいといったところ。ホウレンソウの胡麻和え。

 

参考になれば幸いです。

 

今朝の音楽はビル・エバンス「ALICE IN WONDERLAND」。