ケアの思想。という言葉は日本でも加速的に広がりつつあるものの内容について誰がどれほど知っているというのだろう。極めて疑問というほかない。ケアという言葉。なぜか今日の日本では言葉が内容を超えている。超え過ぎてしまうと何が起こるか。言葉が内容を覆い隠してしまい言葉の空転が始まる。
まだ治癒していないケースがある。数人のグループ単位で同様の症状を繰り返す難治例というべきだろうか。しかし典型例でもある。とりわけ日本では。典型例が難治例なのはどうしてか。具体例を上げてみよう。
一九八四年。大学入学の二年前。学生グループの一つで政治的には学内最大勢力だった赤軍派(大菩薩峠派)の残党系学生らが三里塚闘争に参加した最後の年。なぜ最後になったのか。現地では集会後に恒例のデモがあるわけだが、デモの最中、赤軍派系学生デモ隊と中核派系学生デモ隊とが接触。赤軍派系学生デモに突き飛ばされた形になった中核派系デモ隊の一人がデモの流れから孤立、すかさず間に入った警察に逮捕される事態が生じた。この接触が赤軍派系学生による意図的なものなのかそれとも偶然なのかははっきりしない。結果的に中核は赤軍に抗議。この集会を最後に赤軍派系学生は三里塚闘争から離脱した。しかし問題は中核派系デモ隊の一人を突き飛ばして逮捕させる形のデモを行った赤軍派系学生のデモ指揮者の行動様式。この学生はふだんから学内の密室で女子学生に対する性暴力を何度も繰り返していた。
一九八六年。大学入学。上級生ら複数の学生から二年前の出来事をつぶさに聞いた。そのなかで性暴力常習者であることも聞き及んだ。「やってしまえばいくらでもこちらの言いなりになる」という信念の持ち主だということも浮上してきた。京都大や大阪大など同じ学生有志の間でも問題にされてはいたが、その学生は獄中から出てきた赤軍派(大菩薩峠派)旗揚組らの信用が厚いためまともに取り上げられないという事情が分厚い壁になっていた。
さらにこれまで縷々述べてきたように、個人的にはデジタル化の流れの中で報道に重心を移動していく重要性を感じていたことと、何から何まで上級生の「言いなり」になる必要はないと思っていたこともあり、活動方針をめぐって赤軍派(大菩薩峠派)の残党系学生と対立。後継者になれという圧力を断った。すると彼らはこれまで取り組んできた障害者介護、釜ヶ崎日雇労働者支援、様々な差別問題その他すべての社会活動に関与することは一切許さないと通告してきた。そんな権限がどこにあるのだろうか。特に学外で暮らす地域の自立障害者介護というのはきっちり日程を組んでおくのはもとより介護者の側が忘れていたでは済まされない事故がしばしば起こる。なぜ一私学の学生グループの上級生数人の方針だけで地域で暮らす自立障害者の日常生活が脅かされなくてはならないのか。筋違いもはなはだしい。なので赤軍派(大菩薩峠派)の残党系学生の圧力・妨害は無視して障害者介護は大学を中退するまでずっと続けていた。
これまで通りの方針のもとで後継者にならなければ「バールで頭をぶち抜かれたやつがおる」とか「中核と革マルとの十年戦争知っとるやろ」とか「他党派や右翼暴力集団から死刑宣告されとるやつは一杯おるんやぞ」という言葉の圧力。しかし世間は広い。大阪市生野区や門真市の障害者(児)介護の世界だけでもものすごく広い。赤軍派(大菩薩峠派)の残党系学生だけで世の中回っているわけでは全然ない。しかしこれらの言葉の暴力をぶつけてきたのは一九八四年の三里塚闘争で中核派デモ隊と謎の接触を演じて結果的に中核派一名を逮捕へ追い込んだ性暴力常習学生ではない。八十四年の問題デモ指揮者はすでに大学を卒業している。これらの恫喝発言は八十七年末頃の出来事。卒業した性暴力常習学生の後を継いで赤軍派残党グループ組織部長になった学生。これまた密室内性暴力常習者。支援してくれる数少ない大学教授らの前でだけは「優等生」を気取るが大学関係者の見ていないところではやりたい放題。金遣いもたいへん荒い。今となってはわからないが使途不明金ならいくらでも出てくるようなありさまだった。
脅迫を受けたとはいっても障害者介護は続けていたのだが、ある日鬱状態に陥り留年しながら大学に通っていた。そのころ偶然、学部は異なるが同学年の女子学生の一人が担当する新聞づくりを手伝った。やり方一つ教わらないまま手をこまねいて右往左往しているのを見るに見かねて、取材、原稿書き、校正などほとんどすべて仕上げた。するとそれを見ていた赤軍派残党グループのうちの元女子学生が、新聞づくりを助けた女子学生を呼んで言った。「あの人と付き合っているとあなたの評価が下がる」。
こういうことだ。中核派系デモ隊の一人を突き飛ばして逮捕させる形のデモを行った赤軍派系学生のデモ指揮者は性暴力常習者でもある。その後継者もまた性暴力常習者になった。さらに上層部の出してくる運動方針を言われるがまま相続しないという理由でこちらを一方的に社会活動、障害者介護、労働運動支援の場から叩き出そうとした。後日談として、好き放題に叩き出していた連中はバブル崩壊と同時に自分達の職場で一斉解雇を始め、とうとう自分たちの側が追い出されるはめになった。
こうもいえる。問題は反復なのだと。
(1)中核派系デモ隊の一人を突き飛ばして逮捕させる形のデモを行った赤軍派系学生のデモ指揮者は性暴力常習者でもある。
(2)その後継者もまた性暴力常習者になった。さらに上層部の出してくる運動方針を言われるがまま相続しないという理由でこちらを一方的に社会活動、障害者介護、労働運動支援の場から叩き出していた。
(3)さらにその下の学年になると、自分たちの仲間内にいる学生が、一度自分たちの活動方針から離脱して別の活動を行なっている人間と友人になったり何らかの付き合いを持てばその時点で「評価が下がる」とするおおっぴらなソ連型スターリニズム。
現在少しずつクローズアップされつつあるケアの観点からいえば、「家庭内暴力」、「ネグレクト」、「性暴力依存・性暴力信仰」、「被害者の加害者化」、「PTSD患者の無限増殖」など、アメリカ精神医学会の基準に則っていえば、これらの病的症状は「家族問題」として反復されがちなケースだ。
なお、赤軍が中核を突き飛ばした形になった件について。中核派の側を支持するとかしないとかはまるで問題でない。個人的には今も昔もそもそも中核派とは関わりがない。かつて大阪市立大学エレベーター設置運動を展開したのはどの政治セクトにも所属しない障害者学生当事者とその支援者らであり、同時期の中核派はそれを一つも支援していない。
さらに問題は打ち重なっている。赤軍派(大菩薩峠派)が獄中にいる頃、逮捕をまぬがれた赤軍派の一部が「よど号ハイジャック事件」を起こした。公安は当然マークしていただろうし一九八四年三里塚で赤軍派残党学生が中核派デモ隊に横槍を入れた現場も直接間接を問わず見ていたはずである。だが逮捕されたのは中核派の側であり赤軍派(よど号ハイジャックグループ)には堂々と世界各国を渡り歩かせている。中核派系委員長だったKは獄中十六年。一方彼らのデモ隊に横槍を入れた赤軍派系デモ指揮者で性暴力常習学生は今や大阪で親から譲られた不動産業者を継いで悠々自適。なぜだろう。公安の体質についてはどうか。文春がすっぱ抜いた木原問題と公安との間に漂う性暴力の臭いたっぷりの不可解ぶり。断ち切れるものならできる限り速いうちに断ち切るのがいいとおもう。でなくては無関係の人々までどんどん巻き込まれていくのがもう眼に見えるようだ。
日本で難治例が典型例をも兼ねるケースがはなはだ多いのはどうしてか。ロシアを含めたアジアや南米のような旧植民地に多いのも特色。