先日来、地方都市の市長の発言が問題視されている。フリー・スクールの公的支援は「国の根幹を崩しかねない」というもの。フリー・スクールがなぜ必要不可欠になってきたかについてはマス-コミでもそこそこ取り上げざるを得ない模様。しかしマス-コミがいつも露呈して止まない問題として今なおほとんど触れない部分がある。「国の根幹」とは何なのかという問いがそうだ。
問題発言を問われた市長が頭の中で思い描いている「国の根幹」。それがどんな形を取ってであるにせよ、少なくとも日本のマス-コミがこの十五年ばかりの間でここまで落ちぶれ果てていることを考慮に入れたとしてもなお、「国の根幹」という言葉と「天皇制」とをまったく切り離して受け止めたとはとてもではないが考えにくい。むしろ「国の根幹」=「天皇制」というイデオロギーが生きているがゆえにかえってマス-コミは敏感に反応したと考えられる。
ところで問題とされた「国の根幹」という絶対主義的かつ全体主義的発言とは裏腹に、天皇制は、日本という国があるともないとも定かならぬ古代から、記紀の時代、中世、近世、大日本帝国時代、戦後象徴天皇制時代と、絶対普遍的な形のまま終始一貫して押し貫かれてきているとは言い難く、むしろ変化してきた歴史に彩られている。それは折口信夫が「水」について述べているようにその都度形態を変容させてきた歴史として見た場合、より一層はっきりするだろうと思われる。
簡単な話から入ろう。「乳母(ちおも)・湯母(ゆおも)」とは何か。
「乳母・湯母をちおも・ゆおもと訓じたのは、正しいと思われる。一体おもなる古語は、正確には、乳をくれる人を意味するものらしく、多くは乳母に当り、時としては母の義にも使われたらしい。
みどり児の為こそ おもは覓(モト)むと言へ。乳飯故哉(チノメヤ)、君がおも覓むらむ(万葉集巻十二、二九二五)
という万葉集の嗤笑歌は、乳母の意に用いた例である」(折口信夫「皇子誕生の物語」『折口信夫天皇論集・P.171』講談社文芸文庫 二〇一一年)
「乳母(ちおも)・湯母(ゆおも)」そして「壬生・壬生部(みぶ)/丹生(にぶ)」。
「壬生・壬生部の名義は、元々聖なる水の行事、いい換えれば、産湯に関連しての名である。それが、転じて乳養の事に考えられて行ったのは、すでに述べた通り、事実でもあり、また自然でもあった。『みぶ』は、元『にぶ』ーーーー丹生ーーーとも発音して、聖なる水及び水の女神に関する語であった。この水の女神の出て奉仕するのは、聖子の誕生の儀であり、或は至尊ふっかくの礼の際であった。この女神の職を代り行うのが、選ばれた民の女子の最高貴な者の為事である。それをみぶ(壬生)といい、それを周る聖職団を壬生部という。乳部と書く様に、意義は変って考えられて来るが、壬生部の本義は、『湯坐』を奉仕する事であった。ただ湯坐を行うのは、壬生の女神であったから、その資格において、巫女として、産湯の儀を執行したからの名である」(折口信夫「皇子誕生の物語」『折口信夫天皇論集・P.175』講談社文芸文庫 二〇一一年)
さらに「産湯」(うぶゆ)の「ゆ」。温かい湯のことを最初に「ゆ」と呼んだわけではない。折口信夫はいう。
「さすれば、通常の『ゆ』というのは、何だろう。即『斎』(ユ)という語の中心になった熟語の略せられたものである。『斎川』(ユカハ)といって、神聖にして、潔斎に用いられる場処があった。そこの聖水を『ゆかはみづ』と称えた。『ゆかは』の『みづ』が、『ゆの水』或は『斉水』(ユミヅ)という過程を経て、極端に省略せられた『ゆ』という形になり、その理想的な温泉及びそれに擬した温湯という名となって、『水』と対照せられる事になった」。
『斎川』(ユカハ)あるいは『斎川水』(ユカハミズ)。「水」から入っているところに注意深くありたい。「『うぶゆ』必しも、湯ではなく、水であった事も多かったに違いない。だから、反正天皇の瑞井の如きも、必しも温湯とは申されない」と折口はいう。
「扨、産湯の物語を申さねばならぬ。日本人の日常生活に湯のつき纏うて居ること、実に甚しい位であるが、昔は、必しも温湯をのみ『ゆ』と言ったのではなかった。『ゆ』と称せられるものの中、特に後世の湯の、肌に心地よい温度を持ったという特質のあるものが、霊妙な感じを人に抱かせた所から、其『ゆ』に似せた《わかし》湯が、『ゆ』の名をすっかり奪って了った訣である。『ゆ』というべきものの中に、『いづるゆ』或は『いでゆ』というべき、神意によって、偶然現れて来たのが『いづ』で、その自然なる『ゆ』が、禊ぎの水の最神聖なものと信じられていたのだ。さすれば、通常の『ゆ』というのは、何だろう。即『斎』(ユ)という語の中心になった熟語の略せられたものである。『斎川』(ユカハ)といって、神聖にして、潔斎に用いられる場処があった。そこの聖水を『ゆかはみづ』と称えた。『ゆかは』の『みづ』が、『ゆの水』或は『斉水』(ユミヅ)という過程を経て、極端に省略せられた『ゆ』という形になり、その理想的な温泉及びそれに擬した温湯という名となって、『水』と対照せられる事になったのだ。温泉に神の恵みの深きを思うべき日本の国では、古代から、それを『斎川水』に利用した例が見える。たとえば、出雲の国造が代替り毎に、都に上って宮廷を拝するに先だって、その国の禊ぎの場で禊ぎをくり返した。その泉の中、意宇郡忌部神戸の出湯の如き、
国造神賀詞(カムヨゴト)奏(マヲ)しに、朝廷(ミカド)に参向(マイムカ)ふ時、御沐之忌里(ミソギスルユマヒノサト)なり。ーーー即、川辺に出湯あり。出湯の在る所、海陸を兼ねたり。仍(ヨッ)て、男女老少或は道路に駱駅たり。或は海中の河沚洲に、日に集まりて市を成せり。繽粉として燕楽す。一たび濯く則(トキハ)、形容端正(キラキラ)しく、再浴する則(トキハ)、万病悉く除(ノゾコ)なる。ーーー
という様に、『斎川水』の温湯となって行く道筋の思われるものもある。だが『うぶゆ』必しも、湯ではなく、水であった事も多かったに違いない。だから、反正天皇の瑞井の如きも、必しも温湯とは申されないのである」(折口信夫「皇子誕生の物語」『折口信夫天皇論集・P.176~177』講談社文芸文庫 二〇一一年)
「水」は古代儀礼に欠かせない。温水だとはまったく限らない。禊ぎの信仰と縁が深い『斎川』(ユカハ)あるいは『斎川水』(ユカハミズ)は逆に川から儀式の場へ導入された水路を通る「水」。わざと温めたものでもなければ意図的に冷やしたものでもない。名称の変化が「水」の変化と同時である点に変化の儀式性あるいは古代呪術政治の生々しさを見て取ることはたやすい。また「水」は「制度」とともにさらに「名」を置き換えていく。
「何処の水でも、禊ぎをすれば、産湯又は、復活水(ヲチミヅ)の威力を発揮するものと信じられた訣でもなかった。中には、王氏のためには呪いのかかっていた水すらあり、平群真鳥の如きは、広く塩を指して咀うた。ただ、角鹿(ツヌカ)の海の塩を咀い落したので、これを天皇御料の食塩とするとあるが、これは、禊ぎの汐の起源をも兼ねているのである。第三の例とした誉津別皇子の伝えの如きは、恐らく、復活の清水の物語であろう。生れながらにして物いわぬ皇子が、物いわれるに至る径路として、今も言う白鳥なる鵠(クグヒ)の鳥を捕えるために、あちこちの地に逐い廻ったというのは、一つは、鳥を霊魂の保管者と見たのでもあるが、一つは、《ことどひ》の出来る様、霊魂の這入る様に、禊ぎの出来る斎川水を覓めて廻った物語なのである。禊ぎの儀礼は、実は復活の信仰から出ている。復活は、同時に若還りーーー万葉集では変若(ヲチ)というーーーを意味する。この二つながら、元々誕生をくり返す考えに外ならぬのである。結局、古代人にとっては、事実誕生と復活と、還魂法と回春の呪法との間に、殆区別がなかったのも理由のあることである。宮廷においても、そうだったし、これが及んで、貴族・豪族・庶民の上にも、変りはなかった。宮廷におかせられては、誕生の御儀式は、主上としての新しい御誕生なる即位の大嘗祭にも行われている。又、小にしては、年々歳々の冬ごもりを撒して、春の生活に入らせ給う朝賀の式に先だっても行わせられた様に拝し奉られる。誕生と復活の御行事をくり返す間に、次第に復活によって、成長する自然と、又それに影響せられて発達した諸氏族の間の物語とが、宮廷の信仰を助長したらしい。陛下は、年々春と共に誕生遊ばされ又、新しい天地の下に復活あらせられる。だから、愈益若やかに、健やかにお出でになると信じたのである。出雲びとの間に伝わった宮廷の伝承の傍系ともいうべき神話の中の、大国主命の屢命を失い又、窮地に陥って復活して来る毎に威力を増した物語などは、殊にその信仰を拡張したことと思われる。くわしく解説している暇は、もうなくなって来たが、大国主に教えられた因幡の素兎の潮を浴びる物語や、その神自身も、焼け死んだ肉身が『おもの乳汁』と貝殻の呪術とによって、復活したという伝説などは、表面、復活・蘇生を語るものと見えるが、実は誕生の信仰の延長である。或は寧、誕生の儀礼が、目的を展開して来たものといえるのである」(折口信夫「皇子誕生の物語」『折口信夫天皇論集・P.178~179』講談社文芸文庫 二〇一一年)
今度は「おもの乳汁」。大嘗祭の意味も変わってくる。もともとは「はる」(春)の儀式である。「誕生」ということに重点が置かれていた。それがなぜか「秋」の儀式を意味するようになった。「誕生と復活と」はまた別々の事柄を意味しているわけだが、どういう経過をたどったかは様々な見解があるものの、今ではほとんど「収穫」という言葉によってそもそもの政治性を覆い隠す装置へ変換されてしまうまでに立ち至っている。
もっとも、この程度なら歴史を専攻する大学生なら誰でも知っているくらいの話ではある。にもかかわらず地方議会の市長とはいえ「国の根幹」というただならぬ言葉、古代天皇制から随時変容し、戦後象徴天皇制の間にも「週刊誌天皇制」や「ワイドショー天皇制」として微妙に形態を変化させつつある事情と濃厚密接な繋がりを持つ言葉をなぜフリー・スクールの公的支援と結びつけて安易安直にぽっと発言することができたのか。「問題提起」したかったという理由が上げられている。「問題提起」。東アジア全域にわたる古代史・宗教史すべてから始めて二〇二三年のパレスチナ戦争も当然議論の枠組みに入ってくる問題であるほかないにもかかわらず、それらをまとめてごっそり「問題提起」したいと公言していることになるわけだが。どんな感覚なのか。
日本では大日本帝国時代の公教育と天皇制という今なお総括しきれていない大問題が残されている。さらに新自由主義経済のもとですべての日本の世帯が多かれ少なかれ背負わされている今の生活様式から生み落とされ、公教育ではフォローできなくなっている諸問題は星の数ほどもある。その受け皿の一つとしてのフリー・スクールというあり方が「国の根幹」を脅かすというのは一体何が言いたいのか、あまりにも不可解で理解を絶すると言わざるをえない。それでもなお「国の根幹」にこだわるというのであれば、それこそ天皇制と公教育の問題へ踏み込むほかなくなってくるだろう。天皇制に賛成とか反対とかいう以前の遥か基礎。いっそ物事の「いろは」から始めるのも悪くはない気がしないでもないが。