白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21(番外編)・二代目タマ’s ライフ152

2023年10月14日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇二三年十月十四日(土)。

 

早朝(午前五時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

朝食(午前八時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

昼食(午後一時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

夕食(午後六時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

カラーに慣れてきたら慣れてきたでそれなりにいたずらを始める。爪切りしないと。

 

黒猫繋がりの楽曲はまだ繋がる。ギターがメインだとはいえイントロにせよソロにせよいつもいつもヴィブラートをかければいいとは限らない。ノン・ヴィブラートでさらにロング・トーンが聴かせどころということもある。ごまかしが効かないことで有名な楽曲。サンタナから。


Blog21・今度もうやむや

2023年10月14日 | 日記・エッセイ・コラム

昨日のテレビですでに報道されていたが今日(十月十四日)の朝刊の一面を見ながらつくづく考え込んでしまう。「細田議長 詳細語らず疑惑否定」。

 

統一教会と政府要人とをめぐる問題では選挙目的の金銭問題と霊感商法ばかり取り上げられてきたイメージが強い。けれども他に問題が山積している。とりわけ被害者二世三世問題。解消へ向けた地道な取り組みが行われ続けていて何十年もかかっているのは周知の事実。さらにほとんどまったくといっていいほど取り上げられない重大問題がまだある。被害者支援を行なっていた人々が逆に逮捕された事例。

 

おいそれとプライバシーに触れることはできないが実例なら上げることができる。例えば一九八七年。それは京都大学校内で起きた。ほぼ毎日のように勧誘活動を行っていた統一教会員に抗議の声をかけた学生(当時、二年生)に統一教会員の側が逆に抵抗し挑発を煽り立てる言動を行なった。大学校内はいつものように多くの学生らが行き来している。たちまち人だかりができる。専門外であっても何かと勉強している学生も少なくないわけで、当時から問題視されていた統一教会に対し抗議する学生らの側はさすがに多い。しかし野次馬もまた多い。人だかりの中では何がどう生じたのか明確な線引きができにくい。押し合いへし合いに近い形になる。とはいえただ単にそれだけのことならよくある光景で珍しくない。

 

しかしその日は違っていた。今日もまた押し問答あるいは押し合いへし合いが始まったかと周囲からは見えていたらしい。ところが突然「殴られた」という声が上がった。そう言い出したのは統一教会員の側。一方「殴った」とされた学生は特定の政治セクトとは何の関係もない学生有志。そこへなぜか警察が登場してきてわけのわからないうちに逮捕。統一教会員の側はまったくお咎めなし。それはちょっとないだろうと他大学で統一教会問題に取り組んでいる学生らへも連絡が入り救援対策が組まれた。細田衆院議長がまだ四十八歳くらいの時のことだったとおもう。細田議長は東京大学出身だが関西圏の他大学でも当時これら一連の問題事案は東京大学新聞社と連携して情報のやりとりを行なっていた。しかし統一教会問題になるとどこかで何かがいつもうやむやになってしまう。不可解で仕方がなかった。

 

救われない。これでは。


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて576

2023年10月14日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

母の朝食の支度。今朝は母が準備できそうなのでその見守り。

 

午前六時。

 

前夜に炊いておいた固めの粥をレンジで適温へ温め直す。今日の豆腐は四国化工機「にがり充てん」。1パックの三分の二を椀に盛り、水を椀の三分の一程度入れ、白だしを入れ、レンジで温める。温まったらレンジから出して豆腐の温度が偏らずまんべんなく行き渡るよう豆腐を裏返し出汁を浸み込ませておく。おかずはキュウリの糠漬け。

 

(1)糠を落とし塩分を抜くため一度水で揉み洗い。(2)漬物といっても両端5ミリほどは固いので包丁で切り落とす。(3)皮を剥く。(4)一本の半分のままの細長い状態で縦に三等分する。(5)三等分した細長いキュウリを今度は5ミリ程度の間隔で横に切り分けていく。(6)その上にティッシュを乗せてさらに沁み込んでいる塩分を水とともに吸い上げる。今朝はそのうち十八個程度を粥と一緒に食する。

 

昨日夕食は博多おでん。思っていたより少し多めに食べることができた。痛み止めを常に用いてではあるものの。

 

参考になれば幸いです。

 

今朝の音楽は人間椅子「さらば世界」。


Blog21・プルーストが笑う「売りと買い」

2023年10月14日 | 日記・エッセイ・コラム

「祖母の旧友」というのはヴィルパリジ夫人。「正午にカジノの庭園でじつに不愉快な目つきで私を見つめる紳士」はシャルリュス。二人ともゲルマント家と繋がりのある人物だとは夢にも思われなかった。また「知覚には現実と精神との完全な接触を妨げる縁飾りが存在することに気づいたように、われわれと他人とのあいだには偶発事という縁飾りが介在する」と注釈めいた括弧付きの文章はカントのいう「物自体」概念の言い換え。ヴィルパリジ夫人もシャルリュスもただ単なる通りすがりの人物で済ませてしまうことは十分できた。ヴィルパリジ夫人との出会いもシャルリュスとの出会いもいずれにしても最初は切断されており繋がり一つ持たなかった。それを「私」に向けて一挙に接続させたのはゲルマントという「名」であり、その裾野の広大さを知れば知るほどゲルマントという「名」が専制君主のように振る舞っていることに思い当たる。プルーストにすればそれが滑稽に見えた。

 

「私にとってきわめて大きな夢想の対象であったゲルマント家の人たちでさえ、私がまずそのメンバーに近づいたとき、ひとりは私の祖母の旧友、もうひとりは正午にカジノの庭園でじつに不愉快な目つきで私を見つめる紳士というすがたであらわれた(こんなことを言うのも、私がコンブレーでの読書中、知覚には現実と精神との完全な接触を妨げる縁飾りが存在することに気づいたように、われわれと他人とのあいだには偶発事という縁飾りが介在するからである)。それゆえ私にとっては、あとからその人たちをひとつの名前へ結びつけることによりようやくはじめて、その人たちと知り合ったことが、ゲルマント家の人たちと知り合ったことになったのである」(プルースト「失われた時を求めて14・第七篇・二・P.143~144」岩波文庫 二〇一九年)

 

ここで「あとからその人たちをひとつの名前へ結びつけることによりようやくはじめて、その人たちと知り合ったことが、ゲルマント家の人たちと知り合ったことになった」とある。それほどゲルマントの「名」は凄かったというわけでは全然ない。逆にプルーストはゲルマントの「名」がパリ社交界で専制君主のように取り扱われている滑稽さを暴露することに面白味を感じている。没落貴族の続出と新興資本家階級の台頭。没落貴族は新興資本家階級に「名」を売って生き延び、新興資本家階級は没落貴族の「名」を買って自分たちをブランド化する。

 

売りと買い。日本でも明治維新前後から盛んに行われたように、華々しい縁組によって差別的出自を抹消すると同時に差別的出自を抹消するために華々しい縁組の政財界への組み込みと再編がどんどん推し進められた。しかし縁組はただ単なる買収ではなく新しい血縁の創出を伴わない限りあっけなく崩壊してしまう危機に常に晒されていたため、この種の「売買」は女性を介した人身売買の大々的横行を公認することでますます加速した。ところがいったん独占資本が形成させると遅れてきた人々の縁組はすでに強大化されていた幾つかの財閥によって阻止されるようになる。しかも財閥に入った女性たちの何人かは自分の身が売りに出されたことに違和感を持つことにはなるほど自覚的だったといえるだろうけれども、その当事者女性たちが「遊郭で売春する哀れな貧乏人の娘さんたちを救ってあげましょう」と言い出して遊郭の女性たちに手を差し伸べる一方、遊郭で売春できるほど「容姿端麗」でない膨大な貧乏世帯出身女性たちが次々と劣悪な労働現場へ送り込まれるのを見て「自業自得、努力不足」だと決めつけるばかりの意味不明な「慈善事業」を世に振りまき自分で自分に酔っていたというあまりにお粗末な無自覚ぶりを呈してはばかるところを知らなかった。

 

小説家プルーストは例外かもしれない。としても読んでいないとは決して言えない戦後日本言論人の中には奇怪としか言いようのない小説家がわんさといる。女性史を無視して書きまくるような言論人は確かに減ってはきた。それでもなおその種の一方的フィクションが売れ続ける日本の風土まで消え去ったわけではさらさらない。ずいぶん根深い。まだまだ罪深い。このような風土を温存すればするほど今度は救われない被害女性が開き直って加害女性の側へどんどん加担していくという転倒が起こる。欧米ではとっくの昔に実証済みだ。それでもなお日本はなぜ人から学ぼうとしないのだろう。