ゲルマント家のパーティー出席者の面々も様変わりしてきた。かつては何ものでもなかったブロックがそれなりに名声のある文筆家として一目置かれるようになり、長く蔑まれていたオデットの娘ジルベルトが全盛期のゲルマント夫人に並ぶ地位に付き華々しく光り輝いている。かといって過去に若かった人々がすべて姿を消したというわけでもなく、パーティーとなれば相変わらず出席する高齢者もいる。そこで飛び交う言葉に注目すると面白い現象が絶え間ない勘違いを引き起こしていることがわかる。
ある人物について語られた「お忘れですな、あれは死にましたよ」という言葉は「あれは受勲者ですよ」とか「あれはアカデミーの会員ですよ」と言っているように聞こえる。受け取る人々の立場に沿って頭の中で勝手に変換される。文字通り「死んだ」と受け取られるとは必ずしも限らない。同じくパーティーに出席していない「姿」はどんな言葉を呼び集めるだろうか。「あれは冬をすごしに南フランスへ行きましたよ」とか「あれは高地で療養するよう命じられたんです」といった言葉を呼び集める。話題になる人物に関する消息について「死は識別されにくく、ほとんど生と混同され、いわば社交辞令と化」す。死が問題にされているのかそれとも生が問題にされているのか、言葉を聞き取る人々次第で内容がまるで異なってくる。
「そもそも毎日のようにあまりにも多くの死に瀕した人の情報がもたらされ、ある者は持ち直したが、べつの者は『息をひきとった』と聞かされるので、久しく会う機会のなかっただれそれは肺炎の危機から脱したのか、それとも他界したのか、もはや正確には想い出せなかった。こうした高齢者の暮らす領域では、死は数が増えるばかりで、ますます不確かなものになるのだ。このようなふたつの世代、ふたつの交際社会が交わる集まりでは、さまざまに異なる理由から、死は識別されにくく、ほとんど生と混同され、いわば社交辞令と化し、ひとりの人間を多かれ少なかれ特徴づける小事件とみなされるだけで、死を語る人びとの口調からは、それが当人にとってすべての終わりを告げる事件であることを意味しているとは感じられない。『お忘れですな、あれは死にましたよ』と言う人の口調は、まるで『あれは受勲者ですよ』とか『あれはアカデミーの会員ですよ』とかーーーこれもパーティーに出席できない理由という点では同じことになるがーーー『あれは冬をすごしに南フランスへ行きましたよ』とか『あれは高地で療養するよう命じられたんです』とかと言うときとそっくりなのだ」(プルースト「失われた時を求めて14・第七篇・二・P.147~148」岩波文庫 二〇一九年)
異なる二つの世代が入り混じっているがゆえにそういう取り違えが起こっているように見えはする。だがただ単に様々な世代の人々が入り混じっているだけのことならこれまでの社交界でもずっと見かけられたありふれた光景に過ぎない。決定的に違っているのは世代交代ではない。このパーティー自体がもはやかつてのパーティーとは異なっている点に注意したいとおもう。ここで描かれているゲルマント家のパーティーはなるほどゲルマント家のパーティーという言葉の上では同じでも、そこで演じられていることは二つに分裂してもはや二度と交わることのない別々の価値体系が二重化されている光景である。一つの光景が同時にもう一つの光景と二重写しになっている。「私」にはそれがわかる。両者とともに長い時間を過ごしてきた立場だからである。
ブロックもそうだがわざととぼけて知らん顔で一流の作家を演じている。ジルベルトもわかった上で母オデットの「姿」と「見間違えたでしょう」と言いながら「私」をからかって遊んでいる。このパーティーで「私」が見せつけられていることはただ単なる世代交代の模様ではなく、第一次世界大戦を経て出現した光景、まるで異なる別々の価値体系が二重化されて一つに映り込んでいる奇妙な光景、一つの言葉が最低でも二つかそれ以上の複数の言葉を呼び寄せる事態を避けることは二度と不可能だという「世界的な様変わり」である。唯一絶対的な世界というものはもうどこにも見あたらない。