白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21(番外編)・二代目タマ’s ライフ153

2023年10月15日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇二三年十月十五日(日)。

 

早朝(午前五時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

朝食(午前八時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

昼食(午後一時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

夕食(午後六時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

あと二、三日でカラーを外す予定のタマ。もう少しの辛抱。慣れてきたといっても不便な面は色々あるのでタマにとっては待ち遠しい。今日で推定年齢がちょうど七ヶ月。保護当初は頑固な目やにだらけでなかなか目を開けることができず生涯盲目ということも覚悟したが洗顔、目薬、ステロイド投薬を一ヶ月ほど続けているうちに少しずつ開いてきた。食事も流動食から離れるまでに異例の長期間を要したが今では嘘のようにカリカリをばくばく食べるようになった。しかし最も好みの玩具がなぜかシリンジだというのは想定外で面白い。人間から見ればシリンジは医療器具にしか見えないわけだが猫にとっても同じく医療器具に見えるとはまったく限らない。ドリブルしてこれほど楽しいおもちゃはほかにないように見える。

 

黒猫繋がりの楽曲はまだ繋がる。飼い主が高校生だった頃に流行った曲。


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて577

2023年10月15日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

母の朝食の支度。今朝は母が準備できそうなのでその見守り。

 

午前六時。

 

前夜に炊いておいた固めの粥をレンジで適温へ温め直す。今日の豆腐は四国化工機「にがり充てん」。1パックの三分の二を椀に盛り、水を椀の三分の一程度入れ、白だしを入れ、レンジで温める。温まったらレンジから出して豆腐の温度が偏らずまんべんなく行き渡るよう豆腐を裏返し出汁を浸み込ませておく。おかずはキュウリの糠漬け。

 

(1)糠を落とし塩分を抜くため一度水で揉み洗い。(2)漬物といっても両端5ミリほどは固いので包丁で切り落とす。(3)皮を剥く。(4)一本の半分のままの細長い状態で縦に三等分する。(5)三等分した細長いキュウリを今度は5ミリ程度の間隔で横に切り分けていく。(6)その上にティッシュを乗せてさらに沁み込んでいる塩分を水とともに吸い上げる。今朝はそのうち十八個程度を粥と一緒に食する。

 

昨日夕食はカキフライの衣を剥がした中身を五個。ナスのすまし汁。痛みにまた変化。みぞおちから背中にかけて突き抜けるような痛みが走るという。午後からは特にひどい。薬の変更が必要な様子。見取りの場所をどこにするか再度検討する。

 

参考になれば幸いです。

 

今朝の音楽はビル・エバンス「NARDIS」。


Blog21・一つに映り込んだ二つの世界

2023年10月15日 | 日記・エッセイ・コラム

ゲルマント家のパーティー出席者の面々も様変わりしてきた。かつては何ものでもなかったブロックがそれなりに名声のある文筆家として一目置かれるようになり、長く蔑まれていたオデットの娘ジルベルトが全盛期のゲルマント夫人に並ぶ地位に付き華々しく光り輝いている。かといって過去に若かった人々がすべて姿を消したというわけでもなく、パーティーとなれば相変わらず出席する高齢者もいる。そこで飛び交う言葉に注目すると面白い現象が絶え間ない勘違いを引き起こしていることがわかる。

 

ある人物について語られた「お忘れですな、あれは死にましたよ」という言葉は「あれは受勲者ですよ」とか「あれはアカデミーの会員ですよ」と言っているように聞こえる。受け取る人々の立場に沿って頭の中で勝手に変換される。文字通り「死んだ」と受け取られるとは必ずしも限らない。同じくパーティーに出席していない「姿」はどんな言葉を呼び集めるだろうか。「あれは冬をすごしに南フランスへ行きましたよ」とか「あれは高地で療養するよう命じられたんです」といった言葉を呼び集める。話題になる人物に関する消息について「死は識別されにくく、ほとんど生と混同され、いわば社交辞令と化」す。死が問題にされているのかそれとも生が問題にされているのか、言葉を聞き取る人々次第で内容がまるで異なってくる。

 

「そもそも毎日のようにあまりにも多くの死に瀕した人の情報がもたらされ、ある者は持ち直したが、べつの者は『息をひきとった』と聞かされるので、久しく会う機会のなかっただれそれは肺炎の危機から脱したのか、それとも他界したのか、もはや正確には想い出せなかった。こうした高齢者の暮らす領域では、死は数が増えるばかりで、ますます不確かなものになるのだ。このようなふたつの世代、ふたつの交際社会が交わる集まりでは、さまざまに異なる理由から、死は識別されにくく、ほとんど生と混同され、いわば社交辞令と化し、ひとりの人間を多かれ少なかれ特徴づける小事件とみなされるだけで、死を語る人びとの口調からは、それが当人にとってすべての終わりを告げる事件であることを意味しているとは感じられない。『お忘れですな、あれは死にましたよ』と言う人の口調は、まるで『あれは受勲者ですよ』とか『あれはアカデミーの会員ですよ』とかーーーこれもパーティーに出席できない理由という点では同じことになるがーーー『あれは冬をすごしに南フランスへ行きましたよ』とか『あれは高地で療養するよう命じられたんです』とかと言うときとそっくりなのだ」(プルースト「失われた時を求めて14・第七篇・二・P.147~148」岩波文庫 二〇一九年)

 

異なる二つの世代が入り混じっているがゆえにそういう取り違えが起こっているように見えはする。だがただ単に様々な世代の人々が入り混じっているだけのことならこれまでの社交界でもずっと見かけられたありふれた光景に過ぎない。決定的に違っているのは世代交代ではない。このパーティー自体がもはやかつてのパーティーとは異なっている点に注意したいとおもう。ここで描かれているゲルマント家のパーティーはなるほどゲルマント家のパーティーという言葉の上では同じでも、そこで演じられていることは二つに分裂してもはや二度と交わることのない別々の価値体系が二重化されている光景である。一つの光景が同時にもう一つの光景と二重写しになっている。「私」にはそれがわかる。両者とともに長い時間を過ごしてきた立場だからである。

 

ブロックもそうだがわざととぼけて知らん顔で一流の作家を演じている。ジルベルトもわかった上で母オデットの「姿」と「見間違えたでしょう」と言いながら「私」をからかって遊んでいる。このパーティーで「私」が見せつけられていることはただ単なる世代交代の模様ではなく、第一次世界大戦を経て出現した光景、まるで異なる別々の価値体系が二重化されて一つに映り込んでいる奇妙な光景、一つの言葉が最低でも二つかそれ以上の複数の言葉を呼び寄せる事態を避けることは二度と不可能だという「世界的な様変わり」である。唯一絶対的な世界というものはもうどこにも見あたらない。