白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21(番外編)・二代目タマ’s ライフ155

2023年10月17日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇二三年十月十七日(火)。

 

早朝(午前五時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

夕食(午後五時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

手術後の最終チェックにJRを乗り継ぎ大阪ネオベッツVRセンターへ。おかげさまで経過はすっかり良好。ほっとひと息といきたいところだがそう簡単にはいかない。保護猫なので耳垢の掃除は折りを見て行なっていたが、初代タマの時とは違っていてどうも今度は中耳炎の疑いあり。耳ダニ発見。

 

大きな手術は無事終了したのでいったんかかりつけの動物病院へ戻るが、駆虫剤投与などの治療をかかりつけの動物病院で診てもらってほしいとのこと。帰宅後すぐ自転車でかかりつけ医院へ。駆虫剤投与。効果はほどなく出るようだが念のため一週間後に診察予定。

 

黒猫繋がりの楽曲は今日からノン・ジャンルな世界へ。ブライアン・イーノ。アンビエントをアーバンでやってみたらこうなったらしい。


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて579

2023年10月17日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

母の朝食の支度。今朝は母が準備できそうなのでその見守り。

 

午前六時。

 

前夜に炊いておいた固めの粥をレンジで適温へ温め直す。今日の豆腐は四国化工機「にがり充てん」。1パックの三分の二を椀に盛り、水を椀の三分の一程度入れ、白だしを入れ、レンジで温める。温まったらレンジから出して豆腐の温度が偏らずまんべんなく行き渡るよう豆腐を裏返し出汁を浸み込ませておく。おかずはキュウリの糠漬け。

 

(1)糠を落とし塩分を抜くため一度水で揉み洗い。(2)漬物といっても両端5ミリほどは固いので包丁で切り落とす。(3)皮を剥く。(4)一本の半分のままの細長い状態で縦に三等分する。(5)三等分した細長いキュウリを今度は5ミリ程度の間隔で横に切り分けていく。(6)その上にティッシュを乗せてさらに沁み込んでいる塩分を水とともに吸い上げる。今朝はそのうち十八個程度を粥と一緒に食する。

 

昨日夕食はサンマの焼いたのを少々。ホウレンソウの胡麻和え。朝食を済ませるとすぐまたベッドで横になる。昼前に胃腸薬を飲んで昼食に備える。夕食前にもまた胃腸薬を飲んで食事に備える。その繰り返し。

 

参考になれば幸いです。

 

今朝の音楽はビル・エバンス「MY FOOLISH HEART」。


Blog21・「花咲く乙女たち」の無限交雑

2023年10月17日 | 日記・エッセイ・コラム

別人というほかないほど変貌している友人知人たち。それがかつて「私」と面識のあった同一人物だと知るためには「名」の一致に根拠を求めなければならないほどまるで違った人間へと変わっていた。「名」の一致が今のDNA鑑定のような役割を果たした。数十年にわたる時間の作用はそれほど次元違いなまでにどんな人間をも変えてしまう。しかし過ぎ去った時間の作用について「私」にもっと衝撃を与えたのは「名」の一致によってようやく友人知人だとわかる場合ではなく、もはや「名」も違う人々、新しい「名」で登場してきた若い人々がゲルマント家のパーティー会場の花形として君臨している事実である。

 

「とはいえ流れ去った時は、もっと完全なその証拠を私に与えてくれていた。というのも、二十年を経て私が思わず求めようとしたのは、私が以前に知り合った娘たちではなく、娘たちがそのころ持っていた若さをいま持っている娘たちだったからである」(プルースト「失われた時を求めて14・第七篇・二・P.172」岩波文庫 二〇一九年)

 

ジルベルトやアンドレ、アルベルチーヌたちはかつて社交界とその周辺を埋め尽くす花々として咲き誇っていた。今やジルベルトともアンドレともアルベルチーヌとも何一つ関係のない新しい「名」がこれ以上ないというほど華麗な花々として社交界に君臨している。そして「私」は現在のジルベルトやアンドレに花々を見ず、新しい「名」の持ち主たちに花々を見ている。「花咲く乙女たち」は今や「名」をも全然違っているまったくの別人なのだ。この第二の切断(かつての花形と今の花形との切断)は第一の切断(かつてのジルベルトと今のジルベルトとの切断のような)と同じパーティー会場で同時進行している。新しく出現してきた華々しい「花咲く乙女たち」が身につけていてその世界に住んでいる価値体系は今後、これまでに出現した諸価値体系との無限の交雑とともに更新再更新されていくように見える。とすればもう、絶対普遍の「制度」というものは限りなくゼロに近づいていくのだろう。しかしそれゆえにこの傾向はかつてなく息苦しいほど多くの「制度」をも新しく呼び込まないではいられなくなる事態の予告のようにも思えてくる。