ゲルマント夫人は若い頃からいつも賞賛されてきた「ゲルマント家の才気」を今なお失っていない。そう言うのは妥当だろうか。それとも夫人が身につけ今なお用いる「ゲルマント家の才気」を演出する方法は何一つ変わっていないと言うべきだろうか。
もし後者だとすればゲルマント夫人は社交界でもてはやされ賞賛されるただ単なる一種の技術を何十年ものあいだ飽きもせずひたすら繰り返してきたに過ぎないということになる。逆説的なことに「ゲルマント夫人の才気」と呼ばれ賞賛され続けてきたものは、実を言えば、ただ単なる技術を延々反復することしか知らないという「才気の不在」にほかならない。そして次の箇所で残酷なまでに暴露されるのはまぎれもなく実際のところは後者なのだというもはや動かしようのない事情である。しかし「それに気づいた者はなんと少なかったことだろう!」ということが起こってくるのはなぜだろう。
(1)「同じやりかたがつづいているので才気が生き残っているものと人びとは信じていたが、それは菓子屋の商標をむやみに信じる人たちが、いつまでも同じ店からプチ・フールをとり寄せ、その味が落ちていることに気づかないのと同じであろう」。
(2)「公爵夫人は、すでに戦争中から、このような衰退の徴候を見せていた。だれかが文化を意味するキュルチュールなる語を口にすると、公爵夫人はそれをさえぎって笑みをうかべ、美しいまなざしを輝かせて『ククククルトゥーア』と言ったもので、それを聞いて笑った友人たちはそこになおゲルマント家の才気が見出されると信じていたのだ。たしかにそれはかつてベルゴットを魅了したのと同じ型であり、同じ抑揚であり、同じ笑みであり、そもそもベルゴットも、自分自身の相も変わらぬ句読法や、間投詞や、省略符や、形容詞を使いつづけていたが、それはもはやなにも意味しなかった」。
「なにか才気あふれることばを差しはさもうとするとき、公爵夫人は昔と同じく数秒のあいだ口をつぐんでためらい、さあ出ますよという顔をするのだが、やおら口をついて出てくることばはなんの価値もないものだった。しかしそれに気づいた者はなんと少なかったことだろう!同じやりかたがつづいているので才気が生き残っているものと人びとは信じていたが、それは菓子屋の商標をむやみに信じる人たちが、いつまでも同じ店からプチ・フールをとり寄せ、その味が落ちていることに気づかないのと同じであろう。公爵夫人は、すでに戦争中から、このような衰退の徴候を見せていた。だれかが文化を意味するキュルチュールなる語を口にすると、公爵夫人はそれをさえぎって笑みをうかべ、美しいまなざしを輝かせて『ククククルトゥーア』と言ったもので、それを聞いて笑った友人たちはそこになおゲルマント家の才気が見出されると信じていたのだ。たしかにそれはかつてベルゴットを魅了したのと同じ型であり、同じ抑揚であり、同じ笑みであり、そもそもベルゴットも、自分自身の相も変わらぬ句読法や、間投詞や、省略符や、形容詞を使いつづけていたが、それはもはやなにも意味しなかった。ところが新参の者たちは、公爵夫人の話が面白おかしくもなく、『縦横無尽に才気を発揮している』とも感じられない日にやって来ると、不思議に思い、ときには『なんて愚かな女だろう!』と言う始末だった」(プルースト「失われた時を求めて14・第七篇・二・P.208~209」岩波文庫 二〇一九年)
ただ単なる一種の技術を演出することが「才気」だと無邪気に信じられていた古い価値体系はもう無効化されてしまった。ゲルマント夫人がかたくなに信じ込んでいる「ゲルマントの才気」は、それがただ単なる一種の技術の繰り返しでしかないということが知られてしまうやいなや崩壊する。それをあばき出したのはこの時期の社交界に登場してきた「新参者」が身につけていた新しい価値体系である。ところが新しい価値体系もいずれもっと新しい価値体系によって駆逐されるし実際に駆逐された。
だからこう言うことができるだろう。新しい価値体系が批評的力を持つのは新しい価値体系が古い価値体系を駆逐して新しい価値体系が常識化し世俗的に一般化するとともに批評的力を失い、もはや新しいとは呼ばれなくなるまでの比較的短い期間に限られていると。