白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21(番外編)・二代目タマ’s ライフ159

2023年10月22日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇二三年十月二十二日(日)。

 

早朝(午前五時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

朝食(午前八時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

昼食(午後一時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

夕食(午後六時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

一度覚えた色鉛筆ころがしの味。何本取り出したのだろう。今日もソファの下から出るわ出るわ。見ていないうちにかなり遊び回った様子。手術以降、ずいぶん元気が回復してきた証拠なのでその意味では飼い主としては大変うれしい。遊び足りないときは飼い主の足に飛びついてアピールするのがなんとも健気。

 

黒猫繋がりの楽曲はノン・ジャンルな世界へ。どんなジャンルでも同じ傾向があるのかもしれないが、一度全盛期を迎えた音楽というのは、それで売れたからといっていつまでも同じままで持つわけではない。ジャズにしてもただ単なるムード音楽になってしまえばムード音楽としては生き残っていく一方で肝心のジャズシーンは確実に衰退していく。まだこれからという若い人々や本格的にジャズをやりたい人々、聴きたい人々が案外いる中でそんな環境がいいとは少しも思わない。で、これは、そんな停滞気味のシーンにしばしばインパクトを与える試みの一つといえそうだ。


Blog21・肩こり解消法

2023年10月22日 | 日記・エッセイ・コラム

うつ病の慢性化から二年ほど経った頃。ひどい肩こりに悩まされるようになった。左側の首筋から肩甲骨にかけての部位。朝起きてから寝るまでずっと痛んでいる。病院でまあまあ強力な部類のシップ薬を処方してもらったがただ単に貼り付けているだけでは効果があるのかどうかもよくわからない状態がつづいた。

 

原因はパソコンか読書か運動不足かストレスかと色々考えてみて、できるだけ休憩時間をとるように心がけもしたが一向に改善しない。そこで起床してしばらくすると軽めのストレッチをやってみることにした。すると思いがけず肩こりは改善した。面倒だが一日二回、このストレッチが奏功した。運動不足というだけでは散歩がいいのかジョギングも入れていければ入れるのがいいのかとあれこれ散漫になってしまって安定しない。そうではなくてもっとコンパクトで体の各部位ごとに適度な曲げ伸ばしを反復するストレッチが最適だった。シップ薬なしで乗り切れる日も出てきた。

 

そのうち或ることにふと気づいた。午後八時頃に遅い昼寝から目覚めたとき、首筋のいつもの位置がまた痛む。例の肩こり。ストレッチは朝にやったしシップ薬も貼っている。面倒だなあと思いながら体を起こしてとりあえずパソコン画面を開く。無意味に見える。かといって他にすることはと考えるだけでどっと疲れてくる。一方、その頃気になっていたことが一つあった。最近ギター弾いてないなあーーー。当たり前のことだが楽器というのはあまり長いあいだ触らないと腕がなまってしまうだけでなく、中学高校時代から続けていた動きなので一日に一時間弱でも楽器に触れることがもはや肉体の一部と化している。それを止めるということはかえって体によくないのかもしれない。ギターを取り出して曲目はランダムに何曲か弾いてみる。弾いているうちに思い出してくる曲もある。そうして一時間半ばかり経った頃、面倒な肩こりがすっかり引いていることに気がついた。

 

そんなわけで、無理がかからない程度にではあるけれども、今でも一日一時間から一時間半はギターを手に取るようにしている。薬代削減にもなるので悪くはないとおもう。こんな方法もあると思ってもらえれば是非。


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて584

2023年10月22日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

母の朝食の支度。今朝は母が準備できそうなのでその見守り。

 

午前六時。

 

前夜に炊いておいた固めの粥をレンジで適温へ温め直す。今日の豆腐は男前豆腐店「特濃ケンちゃん」。1パックの二分の一を椀に盛り、水を椀の三分の一程度入れ、白だしを入れ、レンジで温める。温まったらレンジから出して豆腐の温度が偏らずまんべんなく行き渡るよう豆腐を裏返し出汁を浸み込ませておく。おかずはキュウリの糠漬け。

 

(1)糠を落とし塩分を抜くため一度水で揉み洗い。(2)漬物といっても両端5ミリほどは固いので包丁で切り落とす。(3)皮を剥く。(4)一本の半分のままの細長い状態で縦に三等分する。(5)三等分した細長いキュウリを今度は5ミリ程度の間隔で横に切り分けていく。(6)その上にティッシュを乗せてさらに沁み込んでいる塩分を水とともに吸い上げる。今朝はそのうち十八個程度を粥と一緒に食する。

 

昨日夕食は生そば。適度な柔らかさや温度というものは日内変動(その時その時の体調)次第で微妙に異なるのが末期癌の常。さらに微妙な違いが大きな違い。身近にいて信用できる人間が患者の気持ちを辛抱強く聞いて汲み取って工夫して始めてカボチャの煮物をもうひとかけら食べられるか食べられないか左右されるというのが実状。こうしてこうしてこうすれば良いと単純かつ一概にはとても言えない。

 

参考になれば幸いです。

 

今朝の音楽はビル・エバンス「DETOUR AHEAD」。


Blog21・「才気」と「才気の演出」との違い

2023年10月22日 | 日記・エッセイ・コラム

ゲルマント夫人は若い頃からいつも賞賛されてきた「ゲルマント家の才気」を今なお失っていない。そう言うのは妥当だろうか。それとも夫人が身につけ今なお用いる「ゲルマント家の才気」を演出する方法は何一つ変わっていないと言うべきだろうか。

 

もし後者だとすればゲルマント夫人は社交界でもてはやされ賞賛されるただ単なる一種の技術を何十年ものあいだ飽きもせずひたすら繰り返してきたに過ぎないということになる。逆説的なことに「ゲルマント夫人の才気」と呼ばれ賞賛され続けてきたものは、実を言えば、ただ単なる技術を延々反復することしか知らないという「才気の不在」にほかならない。そして次の箇所で残酷なまでに暴露されるのはまぎれもなく実際のところは後者なのだというもはや動かしようのない事情である。しかし「それに気づいた者はなんと少なかったことだろう!」ということが起こってくるのはなぜだろう。

 

(1)「同じやりかたがつづいているので才気が生き残っているものと人びとは信じていたが、それは菓子屋の商標をむやみに信じる人たちが、いつまでも同じ店からプチ・フールをとり寄せ、その味が落ちていることに気づかないのと同じであろう」。

 

(2)「公爵夫人は、すでに戦争中から、このような衰退の徴候を見せていた。だれかが文化を意味するキュルチュールなる語を口にすると、公爵夫人はそれをさえぎって笑みをうかべ、美しいまなざしを輝かせて『ククククルトゥーア』と言ったもので、それを聞いて笑った友人たちはそこになおゲルマント家の才気が見出されると信じていたのだ。たしかにそれはかつてベルゴットを魅了したのと同じ型であり、同じ抑揚であり、同じ笑みであり、そもそもベルゴットも、自分自身の相も変わらぬ句読法や、間投詞や、省略符や、形容詞を使いつづけていたが、それはもはやなにも意味しなかった」。

 

「なにか才気あふれることばを差しはさもうとするとき、公爵夫人は昔と同じく数秒のあいだ口をつぐんでためらい、さあ出ますよという顔をするのだが、やおら口をついて出てくることばはなんの価値もないものだった。しかしそれに気づいた者はなんと少なかったことだろう!同じやりかたがつづいているので才気が生き残っているものと人びとは信じていたが、それは菓子屋の商標をむやみに信じる人たちが、いつまでも同じ店からプチ・フールをとり寄せ、その味が落ちていることに気づかないのと同じであろう。公爵夫人は、すでに戦争中から、このような衰退の徴候を見せていた。だれかが文化を意味するキュルチュールなる語を口にすると、公爵夫人はそれをさえぎって笑みをうかべ、美しいまなざしを輝かせて『ククククルトゥーア』と言ったもので、それを聞いて笑った友人たちはそこになおゲルマント家の才気が見出されると信じていたのだ。たしかにそれはかつてベルゴットを魅了したのと同じ型であり、同じ抑揚であり、同じ笑みであり、そもそもベルゴットも、自分自身の相も変わらぬ句読法や、間投詞や、省略符や、形容詞を使いつづけていたが、それはもはやなにも意味しなかった。ところが新参の者たちは、公爵夫人の話が面白おかしくもなく、『縦横無尽に才気を発揮している』とも感じられない日にやって来ると、不思議に思い、ときには『なんて愚かな女だろう!』と言う始末だった」(プルースト「失われた時を求めて14・第七篇・二・P.208~209」岩波文庫 二〇一九年)

 

ただ単なる一種の技術を演出することが「才気」だと無邪気に信じられていた古い価値体系はもう無効化されてしまった。ゲルマント夫人がかたくなに信じ込んでいる「ゲルマントの才気」は、それがただ単なる一種の技術の繰り返しでしかないということが知られてしまうやいなや崩壊する。それをあばき出したのはこの時期の社交界に登場してきた「新参者」が身につけていた新しい価値体系である。ところが新しい価値体系もいずれもっと新しい価値体系によって駆逐されるし実際に駆逐された。

 

だからこう言うことができるだろう。新しい価値体系が批評的力を持つのは新しい価値体系が古い価値体系を駆逐して新しい価値体系が常識化し世俗的に一般化するとともに批評的力を失い、もはや新しいとは呼ばれなくなるまでの比較的短い期間に限られていると。