白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21(番外編)・二代目タマ’s ライフ156

2023年10月18日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇二三年十月十八日(水)。

 

早朝(午前五時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

朝食(午前八時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

昼食(午後一時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

夕食(午後六時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

シリンジをドリブルして遊ぶのがとても楽しそうなので見ている飼い主もうれしい。だがお気に入りのシリンジのサイズは10ミリリットルの小型。なので簡単にソファの下やテレビ台の下へすべり込ませてしまう。そのたびに飼い主は読書の手を止める。といっても今度はソファを持ち上げたりテレビ台を移動させたり冷蔵庫や本棚の裏を手探りしたりと体を使う。腰を痛めないよう気をつけないと。

 

黒猫繋がりの楽曲はノン・ジャンルな世界へ。ブラック・ライヴズ・マターの幹部不祥事以降、左派からも見放されつつあるブラック・ライヴズ・マター。ところが黒人問題は何も警官による一方的暴力ばかりではなく職業差別全般に及んでいる。しばらくすればまた違った形で再び噴火するだろうという予感がアメリカ社会には常に漂っている。そんな状況の只中でブラック・ミュージックの系譜はどんどん新しい展開を見せる。最晩年のコルトレーンを思わせる楽曲。


Blog21・罠としての二元的対立構造

2023年10月18日 | 日記・エッセイ・コラム

昨日のテレビでもやかましいほど何度も繰り返し映っていた。パレスチナ問題。そのすべてに目を通している暇はとてもなかったわけだがともかくコメンテーターが出てきて色々しゃべっていた。けれどもなぜか一つも触れられていない問題がある。避けて通れない問題なのではと思いつつーーー。

 

早朝。たまらなく眠い目をこすりながら十月十八日の朝刊を開くと鷲田清一が別の話題で引用を交え「優生思想」について述べている。パレスチナ問題のことかと錯覚しそうになった。

 

世界で最も古いとされる幾つかの戦闘的宗教の教義には共通項がある。どれも必ず「自分たちほど優れた<民族>はいない」ことを前提しているという共通項が。降りられない舞台を自分たちでせっせと作り上げたのが人間だとすれば、ある人間が他の人間を指差して「ノーマル/アブノーマル」と二元的対立構造の枠組みにわざわざ押し込んで疑わない人間こそがそもそもどこか逸脱したフリーク(畸形的存在)として出発したことを、たまには思い出してみるのも悪くない気がする。

 

「たがいに関係しあう諸国家にとって、ただ戦争しかない無法な状態から脱出するには、理性によるかぎり次の方策しかない。すなわち、国家も個々の人間と同じように、その未開な(無法な)自由を捨てて公的な強制法に順応し、そうして一つの(もっともたえず増大しつつある)諸民族合一国家を形成して、この国家がついには地上のあらゆる民族を包括するようにさせる、という方策しかない。だがかれらは、かれらがもっている国際法の考えにしたがって、この方策をとることをまったく欲しないし、そこで一般命題として正しいことを、具体的な適用面では斥(しりぞ)けるから、《一つの世界共和国》という積極的理念の代わりに(もしすべてが失われてはならないとすれば)、戦争を防止し、持続しながらたえず拡大する《連合》という《消極的》な代替物のみが、法をきらう好戦的な傾向の流れを阻止できるのである」(カント「永遠平和のために・P.45」岩波文庫 一九八五年)

 

生きていればますます白けることばかり続く時期は誰にでもあるとおもう。何十年ともう延々続いているような気にもなる。にもかかわらず、ではなく、それゆえに、なるほどカントは考える人だったのだろうとつくづく思う。

 

鷲田清一の引用へ戻ってみよう。「全盲という生き方」についての一つの想い。

 

動物にも全盲の場合があるし逆にないほうがおかしい。個人的には猫を一匹飼っているが最初に保護された際に「生涯盲目覚悟」で飼うことに決めたと述べた。なぜ「覚悟」が必要なのかというと怪我や事故などで生涯に渡って医療費がかさんでくるからである。その限界まで猫とともに暮らす。覚悟というのはそういうことだ。眼は見える「べき」で「ある」わけでもなければ「べき」で「ない」わけでもない。どちらが偉いとか偉くないとか、そんなことは誰にも決められない。ところがそれを決めてしまってはばかるところを知らないのが戦闘的宗教の「宗教性」なのではとおもう。

 

また戦争関連映像を見ていておもうのは、いずれの陣営にせよ、殺したがっているのかそれとも殺されたがっているのか一体どちらなのかさっぱりわからないという観点を上げたい。さらに目立つ点は他にもある。今なお戦場を圧倒的に覆い尽くしている「男性<性>」という序列問題。コメンテーターの中に色々な人々がいることはいても、パレスチナ問題ほど巨大化してしまうと、そういう基本的な問いの次元から遠ざかりがちになってしまうのはなぜだろう。「今はそんなことを言っている場合でない」と言う人々がいるけれども、ではなぜ、こんなことになる前に打てる手をもっと打っておかなかったのだろうといつも思う。もっとも、「そんなことが言えるのは外にいるからだ」と指摘されるに違いない。だが二元的対立構造という形式はーーーあえて形式と言おうーーー必然的に外部を出現させるほかない。「外」は二元的対立構造の枠組みから排除されつつ出てくるのであってその逆ではない。二元的対立構造自体がそもそも罠として機能する。覆い隠すものとして立ち働く。

 

そんなことを考えているうちにリハビリの時間。一日は早い。


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて580

2023年10月18日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

母の朝食の支度。今朝は母が準備できそうなのでその見守り。

 

午前六時。

 

前夜に炊いておいた固めの粥をレンジで適温へ温め直す。今日の豆腐は四国化工機「にがり充てん」。1パックの三分の二を椀に盛り、水を椀の三分の一程度入れ、白だしを入れ、レンジで温める。温まったらレンジから出して豆腐の温度が偏らずまんべんなく行き渡るよう豆腐を裏返し出汁を浸み込ませておく。おかずはキュウリの糠漬け。

 

(1)糠を落とし塩分を抜くため一度水で揉み洗い。(2)漬物といっても両端5ミリほどは固いので包丁で切り落とす。(3)皮を剥く。(4)一本の半分のままの細長い状態で縦に三等分する。(5)三等分した細長いキュウリを今度は5ミリ程度の間隔で横に切り分けていく。(6)その上にティッシュを乗せてさらに沁み込んでいる塩分を水とともに吸い上げる。今朝はそのうち十八個程度を粥と一緒に食する。

 

昨日夕食はサンマの焼いたの。ナスのすまし汁。体重は五月の入院以降で10キロばかり減少。30キロ台を推移。

 

参考になれば幸いです。

 

今朝の音楽はビル・エバンス「YOU AND THE NIGHT AND THE MUSIC」。


Blog21・単一神話の崩壊

2023年10月18日 | 日記・エッセイ・コラム

アルベルチーヌは言うまでもなくジルベルトにせよゲルマント夫人にせよ始めての出会いと同時に立ち現れたイメージというものを「私」は持つ。幾つ持つのか。決して一つではありえない。出会い自体が一度でない。何度もある。すると「私」はそれぞれの人々と「何度にもわたり、さまざまに異なる時点で知った」ことになる。そして「その都度その人は私にとって別人であ」るばかりか「私自身も別人となってべつの色彩の夢に浸っていた」と考えるほかない。会うたびに出会いもまた違っている。以前の相手と以後の相手とが同一であることはない。同じなのは「名」だけに過ぎない。そしてまた「私」もその都度変容している。ということは一体、その都度新しく出会っていたのはそもそも誰と誰とがなのか。アルベルチーヌがそうであったように「何人ものゲルマント公爵夫人が存在したのであり、それはバラ色の婦人以来、何人ものスワン夫人が存在したのと同じである」。

 

「この第二の人、欲望から生まれたのではなく回想から生まれた人は、私が知り合ったどの女の場合でも、単一の存在ではなかった。なぜなら私はその人を、何度にもわたり、さまざまに異なる時点で知ったからであり、その都度その人は私にとって別人であり、私自身も別人となってべつの色彩の夢に浸っていたからである。ところで、それぞれの年のさまざまな夢を統括していた法則は、その夢のまわりに私がその年に知り合った女のさまざまな想い出を寄せ集めていた。たとえば少年時代のゲルマント公爵夫人にまつわるあらゆることがらは、ある引力によってコンブレーのまわりに集められていたし、あとで私を午餐に招待しようとしているゲルマント公爵夫人にかかわるあらゆることがらは、それとはまるで異なる神経過敏な存在のまわりに集められていた。要するに何人ものゲルマント公爵夫人が存在したのであり、それはバラ色の婦人以来、何人ものスワン夫人が存在したのと同じである」(プルースト「失われた時を求めて14・第七篇・二・P.176~177」岩波文庫 二〇一九年)

 

アルベルチーヌ一人についてでですら次のように語られるほかなかった。

 

「さまざまなアルベルチーヌのひとりひとりが異なるのは、ダンサーが舞台に登場するたびに、投光器の光が無数に変化し、そのせいでダンサーの色彩も形も性格も変わるのに似ている。この時期に私がアルベルチーヌのうちに眺めた存在はあまりにも多様であり、のちのちの私も、どのアルベルチーヌを想いうかべるかによって自分がべつの人間となる習慣を身につけたのかもしれない。私は、場合によって嫉妬深い男、つれない男、官能にふける男、憂鬱な男、怒り狂う男になったが、これらはよみがえる想い出のつれづれに再創造されただけではなく、たとえ同じひとつの想い出でも、その想い出を評価するときに介在する確信の度合いの違いによって再創造されたのである。つねに立ち返るべきはこのことであり、たいていの時間われわれの心を気づかないうちに満たしているこの確信であるが、この確信はわれわれの幸福にたいして、われわれが実際に見ている相手より重大な役割を果たすのだ。というのもわれわれが人を見るのもこの確信を通じてであり、見ている相手にそのときどきの重要性を与えるのもこの確信だからである。厳密に言うなら、のちにアルベルチーヌのことを考えたときのさまざまな私にも、ひとりずつべつの名称を与えるべきだろう」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.642」岩波文庫 二〇一二年)

 

「私」の側についてもまた「のちにアルベルチーヌのことを考えたときのさまざまな私にも、ひとりずつべつの名称を与えるべきだろう」と。

 

その都度異なる。必ず異なる。どこまでも微分化していくことができる。果てしなく分割できてしまう。アルベルチーヌもジルベルトもゲルマント夫人も諸断片の無限の系列として何度も繰り返し再構成されうる。どれが本当のアルベルチーヌなのか。どの記憶に本当のジルベルトが、ゲルマント夫人が、いるのか。それともいないのか。「さまざまな想い出を寄せ集め」るしか手立てがないということ。「さまざまな想い出を寄せ集め」ることならそれこそ頂上のない山のようにうず高く打ち重ねられていく。その都度更新され、決定されることなく、いつも違ったモザイク模様を呈し、むしろ決定は無限に延期されていくのである。