昨日のテレビでもやかましいほど何度も繰り返し映っていた。パレスチナ問題。そのすべてに目を通している暇はとてもなかったわけだがともかくコメンテーターが出てきて色々しゃべっていた。けれどもなぜか一つも触れられていない問題がある。避けて通れない問題なのではと思いつつーーー。
早朝。たまらなく眠い目をこすりながら十月十八日の朝刊を開くと鷲田清一が別の話題で引用を交え「優生思想」について述べている。パレスチナ問題のことかと錯覚しそうになった。
世界で最も古いとされる幾つかの戦闘的宗教の教義には共通項がある。どれも必ず「自分たちほど優れた<民族>はいない」ことを前提しているという共通項が。降りられない舞台を自分たちでせっせと作り上げたのが人間だとすれば、ある人間が他の人間を指差して「ノーマル/アブノーマル」と二元的対立構造の枠組みにわざわざ押し込んで疑わない人間こそがそもそもどこか逸脱したフリーク(畸形的存在)として出発したことを、たまには思い出してみるのも悪くない気がする。
「たがいに関係しあう諸国家にとって、ただ戦争しかない無法な状態から脱出するには、理性によるかぎり次の方策しかない。すなわち、国家も個々の人間と同じように、その未開な(無法な)自由を捨てて公的な強制法に順応し、そうして一つの(もっともたえず増大しつつある)諸民族合一国家を形成して、この国家がついには地上のあらゆる民族を包括するようにさせる、という方策しかない。だがかれらは、かれらがもっている国際法の考えにしたがって、この方策をとることをまったく欲しないし、そこで一般命題として正しいことを、具体的な適用面では斥(しりぞ)けるから、《一つの世界共和国》という積極的理念の代わりに(もしすべてが失われてはならないとすれば)、戦争を防止し、持続しながらたえず拡大する《連合》という《消極的》な代替物のみが、法をきらう好戦的な傾向の流れを阻止できるのである」(カント「永遠平和のために・P.45」岩波文庫 一九八五年)
生きていればますます白けることばかり続く時期は誰にでもあるとおもう。何十年ともう延々続いているような気にもなる。にもかかわらず、ではなく、それゆえに、なるほどカントは考える人だったのだろうとつくづく思う。
鷲田清一の引用へ戻ってみよう。「全盲という生き方」についての一つの想い。
動物にも全盲の場合があるし逆にないほうがおかしい。個人的には猫を一匹飼っているが最初に保護された際に「生涯盲目覚悟」で飼うことに決めたと述べた。なぜ「覚悟」が必要なのかというと怪我や事故などで生涯に渡って医療費がかさんでくるからである。その限界まで猫とともに暮らす。覚悟というのはそういうことだ。眼は見える「べき」で「ある」わけでもなければ「べき」で「ない」わけでもない。どちらが偉いとか偉くないとか、そんなことは誰にも決められない。ところがそれを決めてしまってはばかるところを知らないのが戦闘的宗教の「宗教性」なのではとおもう。
また戦争関連映像を見ていておもうのは、いずれの陣営にせよ、殺したがっているのかそれとも殺されたがっているのか一体どちらなのかさっぱりわからないという観点を上げたい。さらに目立つ点は他にもある。今なお戦場を圧倒的に覆い尽くしている「男性<性>」という序列問題。コメンテーターの中に色々な人々がいることはいても、パレスチナ問題ほど巨大化してしまうと、そういう基本的な問いの次元から遠ざかりがちになってしまうのはなぜだろう。「今はそんなことを言っている場合でない」と言う人々がいるけれども、ではなぜ、こんなことになる前に打てる手をもっと打っておかなかったのだろうといつも思う。もっとも、「そんなことが言えるのは外にいるからだ」と指摘されるに違いない。だが二元的対立構造という形式はーーーあえて形式と言おうーーー必然的に外部を出現させるほかない。「外」は二元的対立構造の枠組みから排除されつつ出てくるのであってその逆ではない。二元的対立構造自体がそもそも罠として機能する。覆い隠すものとして立ち働く。
そんなことを考えているうちにリハビリの時間。一日は早い。