中上健次が金掘部落で耳にした「ヒコソ」とは何者だろう。
「その夫婦が尾呂志で住んでいたという家に行ってみた。家は雨戸を閉ざしたままである。家の横にコンクリートで作った流しがあり、その上に歯ブラシ、使いかけの練り歯磨のチューブが置かれてある。流しをみる限り、十日前までは人が住んでいた気がする。廃屋の常であるが、夏草が生え茂っていた。ただ、どこの家にも植えてある草花が見あたらない。流しの端に、部落解放同盟浪速(なにわ)支部と文字の入った大きな青い表紙のメモ帳が三冊あったのを見つけた時、驚いた。風雨にさらされていたため、表紙は変色しボロボロとくずれかかっている。そこに何故そのようなものが在るのだろうと思った。それまで一度も『部落』という言葉を耳にした事もなかった尾呂志の里で、いきなり眼にした部落解放同盟浪速支部の文字は、衝撃的である。『部落』あるいは『差別』を、今ここで回路として導き入れるなら、その衝撃はつまり都と熊野、都会と田舎という問いの衝撃でもある。言葉を変えれば、共同体の事でもある。あの共同体とこの共同体、ここでは大阪・浪速と尾呂志の差異である。被差別部落なのかどうかも他所者(よそもの)の眼に分からぬ尾呂志ではなく、部落解放同盟のある大阪・浪速で、男は精神を病み、心中した。その尾呂志で聞いたのは、ヒコソという人物についてだった」(中上健次「紀州~木の国・根の国物語・尾呂志・P.133」角川文庫 一九八〇年)
次の記述は世界中どこにでも見られる古代国家神話成立過程と重なり合う。中上健次の場合はそれを熊野と重ね合わせるのだが矛盾はない。圧倒的軍事力だけでなく一方、医術に長けていなければただ単なる暴力支配のための装置でしかなくなる。どちらか一方ではなくどちらも同時に、でなくてはならないという両価性が要請される。
「背が高く、力が強いし度胸があり、医術も出来たヒコソという男である。その老婆の話を聴きながら、ヒコソなる人物が全国に偏在する和泉式部(いずみしきぶ)伝説など、伝説の構造をよくふまえている気がした。貴種(きしゅ)がただ襤褸(らんる)の身になるというのではなく、医者になるという知性があり、背が高く力が強く度胸があり腕が立つマスラヲの典型のような男として描写されているヒコソは、恋に身を焼く歌人としてタオヤメの典型である和泉式部と裏と表の関係にある。そう考えて、熊野比丘尼(びくに)と後に重なりあう和泉式部なら、ヒコソの医術、灸、ハリも、宗教や呪術(じゅじゅつ)と重なり合う事もあり得る、と思った。老婆の語った二つのヒコソの話を、呪術者と悪鬼、悪霊と読む方法はどうだろうか?つまり私はこの土地に埋ずもれ、眠りこんだ悪霊の声、マモノの声を聴こうとしていたのだった」(中上健次「紀州~木の国・根の国物語・尾呂志・P.138」角川文庫 一九八〇年)
「熊野集・葺き籠り」で菊雄はヒコソ神話を持つ金堀部落へ直接入ったわけではない。木川という人間を媒介者として入っている。菊雄は木川(広い意味で「山の民」)の媒介なしに金堀へ入ることはできない。その木川から金堀ならびにヒコソの話を聞かされる。ヒコソは略奪者であり開墾者でもあり医術者でもある。木川の話は面白い。そうして木川は菊雄を金堀部落の中へ導き入れる。
「その道から海岸沿いの国道を抜けてから菊雄はヒコソとは何の事じゃと言った。木川は最初山賊だと言った。菊雄が胸ポケットに納ったふくさを指さし、山賊があっちからもこっちからも略奪した物の一つがこれじゃの、と独りごちると、木川は違うと首を振った。いろいろな種類のヒコソがいたが金堀の者が信じているのはただ一人の雲つくほどの大男のヒコソだった。金堀という部落を開いたのも大男のヒコソだったし伯母峯(おばみね)峠に出没した山賊を平定したのもヒソコだったしその頭領となったのもヒコソだった。さらに金堀の部落に医術を持ち込み、あたりに生えた薬草をさがし出して一人根を乾かし葉を陰干しにして粉に引き薬を調合して金堀の者に売りに歩かせて山でたつきの道を開かせたのもそうだった。ヒコソ、ソウバレ、と木川は言って薬はいまでも繁華街のある市に出ていった金掘の者が民間医薬として習いうけた術を使って作り売ってやっている、と木川は言った」(中上健次「熊野集・葺き籠り」『中上健次選集9・P.251~252』小学館文庫 二〇〇〇年)
菊雄は金掘で暮らす女と知り合う。木川の話になる。「神かくし」という言葉がポイントだが、ある共同体と別の共同体との間に立って両者を媒介する立場にふさわしいエピソードが木川にはあると感じる。さらにこの「神かくし」という言葉は言葉自体が何かもっとほかの事情を覆い隠そうとするときにも用いられることがある。「神かくし」という言葉は、ある共同体と別の共同体との間で、表向きは「ない」とされているはずの交流が実は「ある」というような場合、この事情を幼児や女や狂人を媒介として暗に語られることがある。
「その女に向って木川は何で俺をこの金堀に誘ったのだろうか?と訊くと、さあと首を振り、『あんたが一番他の人間より神かくしに合いやすいと思たんと違う』と笑い、それから思い出したように笑い入って、『あのボン、昔、神かくしに合うたんよ。尾呂志(おろし)の人間や市木(いちき)の人間は子供が神かくしに合うたら何のつもりかまずこの金堀に来て、あっちもこっちもさがして廻るのに、あのボン、この金堀で遊んどって風伝峠の先まで行っとった』。『神かくしか』菊雄は女を見てつぶやいた。『尾呂志や市木の人間らがここへ捜しに来るのは理由のない事でもないんで、丁度、子供の頃、ここらあたりの若い衆が正月になると山仕事も暇になるので獅子舞に出るのが流行(はや)っとって金堀やから金が掘るほどもうかる目出度いからと言て出て門付けにことわられたら腹いせに遊んどる子供連れて来たらしい。それの他理由は知らんけど、あのボン、風伝峠の先の平谷で五つになるのにズボンに大小便たらして立っとったというんやから』女はまた笑い入った」(中上健次「熊野集・葺き籠り」『中上健次選集9・P.266~267』小学館文庫 二〇〇〇年)
しかし木川はすでに菊雄をこの「かくれ里」へ導き入れた。そして菊雄は金堀に住む女性と性交渉を持った。
「亡霊というなら菊雄にしてみれば紀伊の山奥にある金堀という部落そのものが生れて初めて眼にする亡霊だった。菊雄は女の家から二軒先の木川に誘われてこの金堀に来て結局住みつく事になったが、女と夫婦のように一緒に暮らしても、金堀が昔映画で観た忍者のかくれ里のような不思議な感じは消えなかった。女がそばに坐りくだくだと亡霊の立ち居振る舞いを言っているのを耳にしながら、女のえり首や耳元を見ていると雨に振り込められて繰り返した事を思い出す。女は菊雄をさいなみたがったし、獣類と同じだとさげすみたがった。菊雄が獣類になり切り嚙みちぎる、ひき裂くと思って襲いかかると、女は与えきれぬ施しを身を犠牲にしてつぐなうように菊雄の嬲(なぶ)るがままにした。菊雄は女と交情する度に女が極頂の果で急に一緒に金堀にやって来た男の木川に変わるようで、気をいきながら人を殺してしまったような気がして身震いした」(中上健次「熊野集・葺き籠り」『中上健次選集9・P.236~237』小学館文庫 二〇〇〇年)
古代大和政権に対抗しうる最大勢力だった熊野は、しばしば論じられてきたように「菊雄=神武」とすれば、鉱山を有しヒコソ(薬草)信仰のある熊野に対する神武東征神話のテキストの一つとして読めもしよう。だが日本のような圧倒的に山間部が多く平地の少ない地形のもとで、山地をも平地をも自由に行き来できる木川=「山の民」(山人、山神)の媒介というテーマはもっと注目されていいのではと思わないでもない。そして彼ら「山人」の末裔たちは今どこでどんな日常を営んでいるのかといったことも。