白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・イスラエル/ハマス/武器供給国家=日本

2023年10月08日 | 日記・エッセイ・コラム

イスラエルとハマスとの戦闘報道がにわかにテレビ画面を覆い尽くそうとしている。ところがもう少し視野を広げてみて「中東紛争」全般に関し、世界でも特に日本のマス-コミの場合、考えてみないといけないことがある。

 

二〇〇〇年から二〇二三年現在だけに限ってみた場合、日本の武器輸出では三菱重工、IHI、NECなどの企業名がまあまあ有名ではある。ところが中東紛争が始まったのは一体いつのことだろうか。第二次世界大戦終結後二年ほどですでに火を噴いた。さらに大戦終結後五年ほど経った一九五〇年以降一九八〇年代いっぱいを通して、世界有数の武器供給国家として名を馳せてきた国はどこか。ほかでもない日本だ。

 

しかし試しに直接軍事的武器として生産されたものを除いてみるとしよう。すると表向き「民需品」の形を取りながら紛争地帯へ輸出し、紛争当事国へ輸入されるやいなや「民需品」のはずがたちまち軍事的武器として簡単に改造可能な商品が幾らも見つかる。そうした「子供だまし」でしかない軍需類似品を六十年以上もの長きも渡って世界中で売りさばいてきた世界有数の技術立国はどこか。これまた日本だ。この手の商売にどっぷり浸かり込み依存さえしてきた日本とその「高度経済成長」の正体。バブルの終焉と長引く不況。さらに世界の政治的軍事的勢力地図が大きな転換点にある今日、日本の実質的存在価値はみるみる失われつつある。政府の焦りは丸見えだ。

 

しかしこれらのことは東西冷戦研究の専門家でなくとも今の四〇代から九〇代の人間なら少なくない人々が知っている紛れもない事実である。知らない人々がいるとしたら今回のイスラエルとハマスとの戦闘を堂々と報道している日本のマス-コミがそれこそ真っ先に六十年以上に渡る武器供給国家としての日本の立場を問いにふすべきであり、その上でなぜ今この報道なのかを改めて問うのが筋というものだ。しかしできないだろう。できない理由?あまりにもしらじらしい。

 

思うわけだがイスラエルにもハマスにも支援しようとは思わないし思えない。むしろ「またか」とこれまで以上にうんざりするばかりである。火に油ばかり注ぎたがる日本。しかしなぜそうするのだろう。

 

話は変わるようで変わらない。あえて言っておけば、例えば清志郎や坂本龍一が生きていた頃はこんな歌がたくさんあった。当たり前にあった。そして諸外国、特にイギリスやアメリカでは今なお伝統的に受け継がれている。

 


Blog21(番外編)・二代目タマ’s ライフ146

2023年10月08日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇二三年十月八日(日)。

 

おかげさまで無事退院。病院食は朝から順調だったようだ。なお手術跡保護のため首周りに初めてカラーを付ける。二週間ほど付けておかないといけない。早く慣れてほしいところ。

 

帰宅後夕食(午後六時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

黒猫繋がりの楽曲はまだ繋がる。リッチー・ブラックモアの後継者を自任しつつ登場してきたイングヴェイ・マルムスティーン。


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて570

2023年10月08日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

母の朝食の支度。今朝は母が準備できそうなのでその見守り。

 

午前六時。

 

前夜に炊いておいた固めの粥をレンジで適温へ温め直す。今日の豆腐は四国化工機「にがり充てん」。1パックの三分の二を椀に盛り、水を椀の三分の一程度入れ、白だしを入れ、レンジで温める。温まったらレンジから出して豆腐の温度が偏らずまんべんなく行き渡るよう豆腐を裏返し出汁を浸み込ませておく。おかずはキュウリの糠漬け

 

(1)糠を落とし塩分を抜くため一度水で揉み洗い。(2)漬物といっても両端5ミリほどは固いので包丁で切り落とす。(3)皮を剥く。(4)一本の半分のままの細長い状態で縦に三等分する。(5)三等分した細長いキュウリを今度は5ミリ程度の間隔で横に切り分けていく。(6)その上にティッシュを乗せてさらに沁み込んでいる塩分を水とともに吸い上げる。今朝はそのうち十八個程度を粥と一緒に食する。

 

昨日夕食はカキフライの衣を剥がしたものを幾つか。カボチャの煮物を幾つか。早めに就寝。今朝、就寝中に付けている便尿漏れ用パッドを付け替える際に便をパンツに付けてしまったので洗ってほしいという。特に注意力が衰えたわけではないのだが体の動きが思うように付いていけなくなっていくようで悔しがっている。

 

今朝の音楽はキャノンボール・アダレイ「LOVE FOR SALE」。

 

参考になれば幸いです。


Blog21・その都度瞬間的でしかない人格

2023年10月08日 | 日記・エッセイ・コラム

個々の人間の「短所や長所」。ある瞬間にはAに見え、別の瞬間にはBに見える。玉虫色ということもできる。しかしそれはそもそも人間にあらかじめ内在しているものなのだろうか。そんなことはまるでない。ある時期の「社会的観点から見た人生のそれぞれの瞬間に結びついていると考えるべきだろう」と語り手はいう。むしろ「短所や長所は個人の外にあると言っても過言ではなく、個々の人間は、まるで夏至や冬至のようにあらかじめ存在する避けようのない普遍的な点を通過するかのように、短所や長所という光のなかを通過する」と。

 

「しかしある種の短所や長所は、それぞれの人間に結びついているというよりも、社会的観点から見た人生のそれぞれの瞬間に結びついていると考えるべきだろう。短所や長所は個人の外にあると言っても過言ではなく、個々の人間は、まるで夏至や冬至のようにあらかじめ存在する避けようのない普遍的な点を通過するかのように、短所や長所という光のなかを通過するのだ」(プルースト「失われた時を求めて14・第七篇・二・P.131~132」岩波文庫 二〇一九年)

 

よく用いられるように「短所もあれば長所もある」という言い方にはどこか無責任でステレオタイプな響きがないだろうか。何一つ基準というものがない場合、これといって良くもなければ悪くもないような人間の言動が、或る一定の時期に限り支配的ですぐさま流行で終わり通り過ぎていく特定の「社会的観点から見た」場合にのみ「短所」とも見え「長所」とも見えるのが人間というものであって、それのみを人格の判断材料にできるわけは決してない。ただそれだけで人格を肯定したり否定したりするのはもはや犯罪でしかない。或る特定の社会的観点が社会の中で支配的でなくなり消え去ってしまえばもうどんな人間の人格についても「短所/長所」を決定する物差しは別の物差しへ置き換えられてしまう。

 

ところがほんの一時期であれ、いったん「短所や長所」とされた評価はなぜ容易に消え失せないのだろうか。もはや基準は失効し無効化してしまっているというのに。また短所として切り取られ、あるいは長所として切り取られる人格というものは、切り取り可能という意味で、実は絶対的因果関係を一つも持っていない。にもかかわらず切り取り、転移させ、モザイクし、さらにパッチワークを繰り返し、特定の人間の人格を何度も短所だの長所だのと評価して飽き足らない「社会的」暴力。そしてその都度、個々人はいつもいっときの社会的観点で善人にもなり悪人にもなり、そのたびに社会全体から名指された評価を受け入れなくてはならない。おそらく来年、再来年にはもう変わっているだろう移り気な社会的観点の側からラベリングされる評価を一度ならず背追い込まねばならない。

 

しかしなぜそういうことができるのか。社会的観点から見れば一人の人間はなるほど身体は一つに映って見えてはいてもなお、無限の諸断片へいつでも切断され、別の社会的観点が支配的になればその時にはその時で、また別の諸断片にスポットライトが当てられ、それ以前とはまるで別人として取り扱われることが可能だからである。唯一絶対的な一貫した人格というものはどこをどう探してみても見あたらない。

 

ところがいったん背負うことになった責任については契約・信用制度において確実に履行されなくてはならないし、この事情がどれほど逆説めいて見えたとしても責任問題は依然として動かすことのできない責任問題として時々刻々と姿形を置き換えながら延々相続されていくのである。強度はそのままに姿形ばかりを取り変えながら何度も繰り返し反復されるということ。人間とその歴史はいつも微分化可能でどこまでも微細な部分へ切断可能だが、同時に一つの人格としても認められるとすれば、責任放棄などという言葉はどこから湧いて出てくることもできない。一度言明した責任はその都度更新されて果たされることを求められ、さらに再更新されてはまた果たされることを求められる。事態は固定されることなく常に変貌していく。変貌すればするほど責任性もまた変貌に寄り添いつつ、変貌から乖離することなく、問われ続けなければならなくなる。より一層複雑化していくほかない残酷さに付き纏われている。