過去と現在との間に横たわる切断された空白。忘却といっていい。それがなければ相手が変化したのか変化していないのかさえさっぱりわからない。切断があって始めて相手の変化に気づいたり相手を別人と取り違えることもできる。それは相手の変化に気づいたり相手を別人と取り違えるためには切断=忘却を必要とするということにほかならない。
ルグランダンはかつて軽蔑していたブロックに対して今や「きわめて愛想よく振る舞うようになった」。しかしそんなことは社会的地位の変化に伴って生じる当たり前の現象であって、言い換えれば、一人の人間が「われわれの記憶のなかで一枚の画のような均一性を保持していないからであ」り、一人の人間がいつも変わらぬ絶対的「均一性」を保持し続ける世界はとっくに終わった(神の死)だからである。
「こうしたすべての人たちがこうむった肉体上や社交上の変化にもまして、さらに私を驚かせたのは、この人たちがたがいに相手にいだく想いが変化したことである。かつてルグランダンはブロックを軽蔑して、けっして声をかけなかった。ところがいまやルグランダンはブロックにきわめて愛想よく振る舞うようになった。これはブロックが以前よりずっと高い地位を占めたことに起因するわけではまったくない。そんなことなら指摘するまでもなかろう。というのも社会的変化は、それをこうむった人たち相互の立場をそれぞれ否応なく変えるからだ。それは人びとがーーーわれわれにとってそう見える人びとという意味であるーーーわれわれの記憶のなかで一枚の画のような均一性を保持していないからである。われわれが忘れるにつれて、人びとは変化する。ときにわれわれはある人たちをべつの人ととり違えていることさえある。『ブロック、よくコンブレーに来ていた人ですね』と言いながら、人は私のことを指しているのだ」(プルースト「失われた時を求めて14・第七篇・二・P.141~142」岩波文庫 二〇一九年)
語り手は「神の死」をもはや前提としており、一人の人間というものは、いつどこであちこち切断されているかわからない諸断片の一瞬の寄せ集めが延々組み換えられていく過程でしかないということを繰り返し語る。作品の最初で「夢」について長々と続く考察が置かれており、個々の人間にとって最も身近な切断=忘却は「夢」にほかならないといきなり語られていることを思い出そう。
だがしかしブロックと「私」とを取り違えた人に訂正を指摘し、「名」の一致による証明が済めばただちに「私の名」において回復される信用というものがあり、その信用が保存されている間に限り、ブロックと「私」とを取り違えはすみやかに正される。
例えば、加害者は加害者へ、被害者は被害者へ、すみやかに訂正される。「私の名」あるいは「汝の名」でも構わないが、過去と現在とが共鳴し合うやいなや、さらに切断=忘却されていた期間に何があったか、どんな変化が起きたか、あるいは意図的な変化が捏造されていたか、次々あからさまにすることができる。被害者が三、四人ほどいればその子どもたちも生活史次第で何人かはいる。三十五年ほど前に学生だった母を持つ子どもの場合、学生時代の母が何人かの男子学生によって性暴力の奴隷としてたらい回しにされていたことを知った子どもたちがどれくらいの数にのぼるか正確にはわからないにせよ実際にいる。PTSDや精神障害に苦しみ抜きながら、周囲の支援も受けながら育った子どもたちにすれば、加害学生らが今や悠々自適の生活を送ることができているのは他でもない日本の巨大マス-コミに匿われる形になっているからだと知ることは案外簡単だ。
そのあたりの事情について個人的には知りうる立場だがあえて伏せていることも少なくない。もし知れば知ったで被害家族らがいきなり加害者の自宅や職場へ押しかけるかもしれない。どういうことになるか。押しかけた被害者の側が興奮のあまり逆に警察に引っ張られる可能性は十分考えられる。問題が警察の手に渡ると何が起こるか。さらにマス-コミはあっけなく大嘘をついて誤魔化す方法なら幾らでも知っている。ところが物事はそこまで容易にはかどりはしない。ますますややこしくなるわけではいささかもない。むしろ天秤は慢心してのぼせ上がったままのマス-コミの予想とはまったく逆の方向へ傾き始める。
被害者二世三世問題についてどう考えるべきか。口封じでもするつもりだろうか。それではまるでソ連の再演でしかない。ファンタジーではあるまいし法律に則って戸籍に記載された「汝の名」を誤魔化すことは決してできない。さらに今やありとあらゆる鑑定方法がひしめき合っていて個人史の再現など簡単に済む。悠々自適に生涯を終えることができるなどとは夢にも思ってはならない。