白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21(番外編)・二代目タマ’s ライフ151

2023年10月13日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇二三年十月十三日(金)。

 

早朝(午前五時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

朝食(午前八時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

昼食(午後一時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

夕食(午後六時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

今日の飼い主は母の診察の付き添い。癌そのものではなく経過観察中に出てきた上室性頻脈症(不整脈)。いつもと異なる変則的スケジュールでタマはお留守番。よく遊んでいたかというとそんなことはなく遊び相手がいないと寝てばかりだったらしい。

 

黒猫繋がりの楽曲はまだ繋がる。初めての来客でも物怖じしないタイプだが動物病院で大型の犬さんに近づいてもまるで平気。犬さんとも仲良くなれそうだ。


Blog21(ささやかな読書)・回り道に快楽する人々

2023年10月13日 | 日記・エッセイ・コラム

大澤真幸は「回り道という快楽」についてこう述べている。

 

「したがって、資本家の行動、資本の循環運動には、目的へと直接的には向かわないーーー不合理とも解釈できるーーー回り道が孕まれている。目的に到達すること、目的物を獲得することは、人に満足や快楽をもたらす。もちろん、先に述べたように、資本の場合、一回の循環で、暫定的に目的に到達したとしても、なお真の目的は先延ばしされ、それゆえに資本家には完全な満足はもたらさないのだが、そのことは、今、脇に置いておこう。これと対比させれば、回り道を通る過程は常に苦痛をともなっている。それは目的から(いったん)遠ざかることを意味しているからだ。それは、目的物をあえて放棄することを意味しているからだ。資本家は、(増殖した)貨幣の獲得を目的としているのに、(いったん)貨幣を放棄しなくてはならない。本来の目的物ではないものを獲得し、それを使用したり、消費したりしなくてはならない。こうした回り道は、直接的には『苦痛』として体験されることになる。が、繰り返し回り道を通るとき、《逆転》が生ずる。《苦痛をともなう回り道を歩むこと自体が、人に快楽をもたらす》のだ。目的物を獲得したときの快楽よりも大きな快楽が、目的から(いったん)遠ざかる回り道を歩む苦痛の中から発生してくる。このような逆転が生じうることを、われわれは皆、体験的によく知っているはずだ。何かを獲得するための過程が犠牲や放棄を含んでいるとき、その犠牲や放棄の行為それ自体が高次の快楽の源泉となる。つまり苦しいこと自体が、やが気持ちよくなってきて、それをやめられなくなる。逆に、回り道なしに直接に目的に到達できてしまえば、その方がよりよいはずなのに、実際には快楽はむしろ小さい。過程や手段であった苦しい迂回路が、目的物を獲得したときのそれとは異なる快楽の原因となることがあるのだ。『本末転倒』と見なされる現象だが、人間の行動には一般に認められる機制である。資本の回転が止まらないのは、回り道が固有の快楽をうみだし、資本家を誘惑し続けるからである。『放棄』そのものに随伴する逸脱的で過剰な快楽がなければ、貨幣物神に魅了されている人は、貨幣退蔵者としての側面を十分に克服することはできない。投資は、常に本来の目的との関係では暴挙であり、愚かしい選択だからだ。人を投資へと駆り立てているのは、貨幣の放棄が、目的からは外れた何かを獲得し使用することが、それ自体で快楽を生んでいるからである」(大澤真幸「<世界史>の哲学(151)」『群像・2023・11・P.502~503』講談社 二〇二三年)

 

言い換えれば、戦争に参加したがる人間の行動を一つの特徴的パターンとして読み取ったニーチェが述べたことと同様のことが資本家の行動を通しても見られる。ニーチェから見れば人間は、直接死ぬのではなく戦争という「迂路を経て」死ぬことに熱狂的快楽を覚えると言った。大澤真幸はアメリカで何度も試みられてきた「ユートピア」=「アメリカ」=「民主主義」建設の過程を「回り道という快楽」として論じている。

 

「アメリカで建設されてきたーーーいまもたえず試みられているーーー《ユートピア的共同体は、このような『回り道』の一種ではあるまいか》。ユートピア的共同体は、本来求められている究極の救済の場『神の国』ではない。『あれ』ではないのだ。が、まさにそのことにおいて、地上のユートピア的共同体は、幸福な場所へと変容しうる。ホイットマンやデューイが希望を託した、『民主主義』=『アメリカ』もまた、このような機制ーーーを通じて措定されている。デューイやホイットマンの『世俗主義』に関連させて、ローティは次のように述べている。

 

デューイもホイットマンも、ものごとが必ずやアメリカにとって都合よく運び、アメリカの自己創造という実験が成功するにちがいないという見解には与しなかった。〔神の永遠性ではなく〕人間の世俗的時間の中で世界をみることの代償は偶然性である。『神の摂理』や内在的目的論の観念を受け入れなかったので、二人とも、人類の先導者が道に迷うかもしれず、ひょっとしたら人類を導いて絶壁から落ちるかもしれない、ということを認めざるをえなかった。ホイットマンが述べているように、『合衆国は封建制度の華麗な歴史を乗り越える定めにあるか、史上もっとも恐るべき失敗者になる定めにあるかどちらかである』。

 

ここに記されているホイットマンとデューイの不安、もしかするととてつもない破滅への道を選んでしまっているかもしれないという不安は、大きな投資をするときの資本家の不安とそっくりではないか。ここに、彼らの『民主主義』としてのアメリカというユートピア構想が、資本家を投資へと導いたのと同じ心的機制に規定されていたことが示唆されている」(大澤真幸「<世界史>の哲学(151)」『群像・2023・11・P.504』講談社 二〇二三年)

 

そんなアメリカも世界の警察の地位を失って以後、まったっく落ち着きを欠いてしまい、どこか思いつきに近いキャッチコピーのような中身からっぽな言葉ばかり空転させているように見える。


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて575

2023年10月13日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

母の朝食の支度。今朝は母が準備できそうなのでその見守り。

 

午前六時。

 

前夜に炊いておいた固めの粥をレンジで適温へ温め直す。今日の豆腐は四国化工機「にがり充てん」。1パックの三分の二を椀に盛り、水を椀の三分の一程度入れ、白だしを入れ、レンジで温める。温まったらレンジから出して豆腐の温度が偏らずまんべんなく行き渡るよう豆腐を裏返し出汁を浸み込ませておく。おかずはキュウリの糠漬け。

 

(1)糠を落とし塩分を抜くため一度水で揉み洗い。(2)漬物といっても両端5ミリほどは固いので包丁で切り落とす。(3)皮を剥く。(4)一本の半分のままの細長い状態で縦に三等分する。(5)三等分した細長いキュウリを今度は5ミリ程度の間隔で横に切り分けていく。(6)その上にティッシュを乗せてさらに沁み込んでいる塩分を水とともに吸い上げる。今朝はそのうち十八個程度を粥と一緒に食する。

 

昨日夕食は生姜のちぎり天を少々。ホウレンソウの胡麻和え。

 

参考になれば幸いです。

 

今朝の音楽はビル・エバンス「YOU MUST BELIEVE IN SPRING」。


Blog21・「神の死」だけでは終わらない「汝の名」

2023年10月13日 | 日記・エッセイ・コラム

過去と現在との間に横たわる切断された空白。忘却といっていい。それがなければ相手が変化したのか変化していないのかさえさっぱりわからない。切断があって始めて相手の変化に気づいたり相手を別人と取り違えることもできる。それは相手の変化に気づいたり相手を別人と取り違えるためには切断=忘却を必要とするということにほかならない。

 

ルグランダンはかつて軽蔑していたブロックに対して今や「きわめて愛想よく振る舞うようになった」。しかしそんなことは社会的地位の変化に伴って生じる当たり前の現象であって、言い換えれば、一人の人間が「われわれの記憶のなかで一枚の画のような均一性を保持していないからであ」り、一人の人間がいつも変わらぬ絶対的「均一性」を保持し続ける世界はとっくに終わった(神の死)だからである。

 

「こうしたすべての人たちがこうむった肉体上や社交上の変化にもまして、さらに私を驚かせたのは、この人たちがたがいに相手にいだく想いが変化したことである。かつてルグランダンはブロックを軽蔑して、けっして声をかけなかった。ところがいまやルグランダンはブロックにきわめて愛想よく振る舞うようになった。これはブロックが以前よりずっと高い地位を占めたことに起因するわけではまったくない。そんなことなら指摘するまでもなかろう。というのも社会的変化は、それをこうむった人たち相互の立場をそれぞれ否応なく変えるからだ。それは人びとがーーーわれわれにとってそう見える人びとという意味であるーーーわれわれの記憶のなかで一枚の画のような均一性を保持していないからである。われわれが忘れるにつれて、人びとは変化する。ときにわれわれはある人たちをべつの人ととり違えていることさえある。『ブロック、よくコンブレーに来ていた人ですね』と言いながら、人は私のことを指しているのだ」(プルースト「失われた時を求めて14・第七篇・二・P.141~142」岩波文庫 二〇一九年)

 

語り手は「神の死」をもはや前提としており、一人の人間というものは、いつどこであちこち切断されているかわからない諸断片の一瞬の寄せ集めが延々組み換えられていく過程でしかないということを繰り返し語る。作品の最初で「夢」について長々と続く考察が置かれており、個々の人間にとって最も身近な切断=忘却は「夢」にほかならないといきなり語られていることを思い出そう。

 

だがしかしブロックと「私」とを取り違えた人に訂正を指摘し、「名」の一致による証明が済めばただちに「私の名」において回復される信用というものがあり、その信用が保存されている間に限り、ブロックと「私」とを取り違えはすみやかに正される。

 

例えば、加害者は加害者へ、被害者は被害者へ、すみやかに訂正される。「私の名」あるいは「汝の名」でも構わないが、過去と現在とが共鳴し合うやいなや、さらに切断=忘却されていた期間に何があったか、どんな変化が起きたか、あるいは意図的な変化が捏造されていたか、次々あからさまにすることができる。被害者が三、四人ほどいればその子どもたちも生活史次第で何人かはいる。三十五年ほど前に学生だった母を持つ子どもの場合、学生時代の母が何人かの男子学生によって性暴力の奴隷としてたらい回しにされていたことを知った子どもたちがどれくらいの数にのぼるか正確にはわからないにせよ実際にいる。PTSDや精神障害に苦しみ抜きながら、周囲の支援も受けながら育った子どもたちにすれば、加害学生らが今や悠々自適の生活を送ることができているのは他でもない日本の巨大マス-コミに匿われる形になっているからだと知ることは案外簡単だ。

 

そのあたりの事情について個人的には知りうる立場だがあえて伏せていることも少なくない。もし知れば知ったで被害家族らがいきなり加害者の自宅や職場へ押しかけるかもしれない。どういうことになるか。押しかけた被害者の側が興奮のあまり逆に警察に引っ張られる可能性は十分考えられる。問題が警察の手に渡ると何が起こるか。さらにマス-コミはあっけなく大嘘をついて誤魔化す方法なら幾らでも知っている。ところが物事はそこまで容易にはかどりはしない。ますますややこしくなるわけではいささかもない。むしろ天秤は慢心してのぼせ上がったままのマス-コミの予想とはまったく逆の方向へ傾き始める。

 

被害者二世三世問題についてどう考えるべきか。口封じでもするつもりだろうか。それではまるでソ連の再演でしかない。ファンタジーではあるまいし法律に則って戸籍に記載された「汝の名」を誤魔化すことは決してできない。さらに今やありとあらゆる鑑定方法がひしめき合っていて個人史の再現など簡単に済む。悠々自適に生涯を終えることができるなどとは夢にも思ってはならない。