白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21(番外編)・二代目タマ’s ライフ158

2023年10月21日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇二三年十月二十日(金)。

 

早朝(午前五時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

朝食(午前八時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

昼食(午後一時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

夕食(午後六時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

午前中。何本かの色鉛筆が行方不明。ソファの下を探ってみるとぞろぞろ出てきた。シリンジをどこかへもぐり込ませてしまうと今度は色鉛筆を取り出してきて遊ぶことを覚えたようだ。形は、まあ、似ているといえば似ている。もしタマが野良のままだったらシリンジや色鉛筆の代わりに何を追いかけていたのだろう。

 

黒猫繋がりの楽曲はノン・ジャンルな世界へ。elekingでも紹介されているようにエヂ・モッタはブラジルのアーティスト。しかしeleking評とは別に個人的にブラジルから登場する音楽家に注目するには理由がある。精神医療との関係。二十世紀終わりから一世風靡したラカン派精神分析が精神医療の現場とは異なる他の分野を含めた様々な領域で最も読まれ語られたのはどこか。発祥地フランスを別にすれば日本とブラジルとが突出している。他の分野というのは例えば日本の建築家・磯崎新がラカン「鏡像段階論」に言及していることは有名。だからといってエヂ・モッタの音楽が難解かといえば全然そんなことはない。相変わらずリズム&ブルースやソウル主体。さらに今作は一九八〇年代日本のあちこちで聴かれたシティ・ポップ調の楽曲が入っていて面白い。その2。


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて583

2023年10月21日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

母の朝食の支度。今朝は母が準備できそうなのでその見守り。

 

午前六時。

 

前夜に炊いておいた固めの粥をレンジで適温へ温め直す。今日の豆腐は男前豆腐店「特濃ケンちゃん」。1パックの二分の一を椀に盛り、水を椀の三分の一程度入れ、白だしを入れ、レンジで温める。温まったらレンジから出して豆腐の温度が偏らずまんべんなく行き渡るよう豆腐を裏返し出汁を浸み込ませておく。おかずはキュウリの糠漬け。

 

(1)糠を落とし塩分を抜くため一度水で揉み洗い。(2)漬物といっても両端5ミリほどは固いので包丁で切り落とす。(3)皮を剥く。(4)一本の半分のままの細長い状態で縦に三等分する。(5)三等分した細長いキュウリを今度は5ミリ程度の間隔で横に切り分けていく。(6)その上にティッシュを乗せてさらに沁み込んでいる塩分を水とともに吸い上げる。今朝はそのうち十八個程度を粥と一緒に食する。

 

昨日夕食はごぼ天を二分の一ほど。ホウレンソウの胡麻和え。

 

参考になれば幸いです。

 

今朝の音楽はビル・エバンス「ON GREEN DOLPHIN STREET」。


Blog21・「女優」と「ラシェル」とを繋いだもの

2023年10月21日 | 日記・エッセイ・コラム

ブロックが「私」のそばへやってきて何やらささやく。そのフレーズは「呪文のことば」として「私」に作用する。パーティーで詩を朗読したのは一体誰か。今や別人としか見えないラシェル(かつてのサン=ルーの愛人)がそうだとは記憶が繋がりそうで繋がっていながった。ある覚醒時と次の覚醒時との間に入ってきて一つの覚醒時を無数に分裂させる夢のように切断されていた。ブロックが口にした言葉はどこにでも転がっていそうなありふれたフレーズ。「奇遇だねえ、こんなところでラシェルに会うなんて!」。

 

「『奇遇だねえ、こんなところでラシェルに会うなんて!』とブロックは私の耳元でささやいた。この呪文のことばで、サン=ルーの愛人をこの見知らぬ汚らしい老婆に変えていた魔法はたちどころに解かれた。女優がだれであるかを知ったとたん、私は完全にラシェルの面影を認めた」(プルースト「失われた時を求めて14・第七篇・二・P.200」岩波文庫 二〇一九年)

 

ブロックは何かをわざわざ暴露しようという意図を持っていたわけではいささかもない。それが嘘のように「呪文のことば」として機能する。詩を朗読した「女優がだれであるかを知ったとたん、私は完全にラシェルの面影を認めた」。

 

「女優」と「ラシェル」との繋がりを不意にもたらしたのは言葉である。今の「私」にとって「女優」と「ラシェル」との間は切断されていて等価関係に置かれていない。切断されて久しい別々の二つのものでしかない。ところがブロックのもたらした一言によって両者が等置されるやいなや今度は接続される。取るに足らないワンシーンに見える。だがこの瞬間、言葉は間違いなく貨幣と同じように機能したシーンに読者は遭遇している。