祖母の死という現実に「私」が不意に襲われた瞬間、「私」は祖母の死と始めて直面した。実際の祖母の死の年月日から「私」が祖母の死の側から襲われた時間との間には一年ほどの隔たりがあった。過去と現在との間にはいつどんな形で表面化するか誰にもわからない深淵が横たわっている。個人史というものはいつも間歇的なものだ。両者の間には確実に切断がある。切断なしに再接続できるわけなどどこにもない。そして再接続はいつも同一だとはまるで限っていない。再接続、再々接続、再々々接続と試みれば試みるほど「オリジナル」という観念はかえって遠ざかっていくばかりである。語り手は述べる。「つぎつぎと昔へさかのぼるにつれて、同じひとりの人物のさまざまなイメージが、ついにはきわめて長期にわたる間隔によって切り離され、相異なるわが自我によって保存され、それぞれ異なる意味を備えてしまった結果、私はそれらのイメージとかかわった過去の流れを俯瞰しているつもりのときは、そのイメージを見落としもし、それらがかつて私の親しかったイメージと同じものであるとは考えもしなかった」。
「つぎつぎと昔へさかのぼるにつれて、同じひとりの人物のさまざまなイメージが、ついにはきわめて長期にわたる間隔によって切り離され、相異なるわが自我によって保存され、それぞれ異なる意味を備えてしまった結果、私はそれらのイメージとかかわった過去の流れを俯瞰しているつもりのときは、そのイメージを見落としもし、それらがかつて私の親しかったイメージと同じものであるとは考えもしなかったし、まるでその語源へ結びつけるように、それらが私にとって持っていた元来の意味へ結びつけるには、注意力のひらめきという偶然が必要であった。スワン嬢は、バラ色のサンザシの生け垣の向こうから私にまなざしを投げかけたが、そのまなざしが欲望を意味していたことはそもそもあとから振りかえって判明したことだ。コンブレーのうわさではスワン夫人の愛人とされていた男が、同じ生け垣の背後から険しい目つきで私を見つめていたが、その目つきの意味もそのとき私が思っていたようなものではなかったし、そのうえ当人自身があれからずいぶん変わったので、私はバルベックのカジノのそばでポスターに見入っていた紳士がその人であるとは気づきもせず、その紳士のことを十年に一度は想い出して『なんとあれはシャルリュス氏だったのだ、すでにあのとき、不思議なことに!』と思う始末だった」(プルースト「失われた時を求めて14・第七篇・二・P.133~134」岩波文庫 二〇一九年)
さらに思い出そう。
「われわれが自然なり、社会なり、恋愛なり、いや芸術なりをも、このうえなく無私無欲に観賞するときでさえ、あらゆる印象にはふたつの方向が存在し、片方は対象のなかに収められているが、もう片方はわれわれ自身のなかに伸びていて、後者こそ、われわれが知ることのできる唯一の部分である」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.481~482」岩波文庫 二〇一八年)
ゆえにこう言える。
「スワン嬢は、バラ色のサンザシの生け垣の向こうから私にまなざしを投げかけたが、そのまなざしが欲望を意味していたことはそもそもあとから振りかえって判明したことだ」。
スワンはシャルリュスが男性同性愛者だと知っていたので妻オデットが出かける際にシャルリュスが同行することに違和感一つ抱いていなかった。むしろ正しい判断だった。ところがシャルリュスの性的嗜好をまったく知らないコンブレーの他の住民たちはオデットとシャルリュスとが一緒に出かけるのを目にしてオデットの夫であるスワンは一体何を考えているのか大層いぶかしげにあらぬ噂話に耽り込んで貴重な時間を無駄にしていた。
しかしコンブレーでの罪深い井戸端的噂話などという馬鹿げて無益な時間の浪費に身を入れるつもりのない「私」はシャルリュスの目に「狂人」と「スパイ」とに共通する目の光を見た。「狂人」と「スパイ」という言葉はどこか物々しい。言うまでもなく頭がおかしいという意味では全然なく、広く世界中で流通している凡庸かつ退屈な言葉でいえば「諜報活動員」の眼差しを差し示している。シャルリュスはただ単に男性同性愛者として自分にふさわしい相手を探し回っていたに過ぎないわけだがその眼差しは「諜報活動員」のそれと等価なレベルに達していたというまでのことだ。熱心さという意味でいえば、その眼差しはある種の威圧感さえ帯びつつぎょろぎょろと生きもののように活発に動き回る、と言える。「私」は過去と切り離された現在において、そんなシャルリュスを思い出す時、次のように、シャルリュスを思い出すというより遥かに記憶というものの間歇性について考えている。
「コンブレーのうわさではスワン夫人の愛人とされていた男が、同じ生け垣の背後から険しい目つきで私を見つめていたが、その目つきの意味もそのとき私が思っていたようなものではなかったし、そのうえ当人自身があれからずいぶん変わったので、私はバルベックのカジノのそばでポスターに見入っていた紳士がその人であるとは気づきもせず、その紳士のことを十年に一度は想い出して『なんとあれはシャルリュス氏だったのだ、すでにあのとき、不思議なことに!』と思う始末だった」。
いずれにせよこの箇所で確実に区別しておくべき事情が二つある。
(1)スワン嬢(ジルベルト)とシャルリュスとは「バラ色のサンザシの生け垣」を媒介して「私」の記憶と接続する。
(2)アルベルチーヌは「バルベックの浜辺」を媒介して「私」の記憶と接続する。
「そのとき突如として私は、正真正銘のジルベルトとは、正真正銘のアルベルチーヌとは、前者はバラ色のカンザシの垣根の前で、後者は浜辺で、それぞれ最初に出会った瞬間、そのまなざしのなかに心の内を明かした女がそうだったのかもしれないと想い至った」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.28」岩波文庫 二〇一八年)
(1)と(2)との違いは果てしなく大きい。朦朧としていてその先はてんで見えない。ところが両者はどこまで行っても決して交わることがないに違いないということを焦点化してみると、その点に限りなぜか手に取るようにわかってしまい、時として虚無感とも無力感ともつかない絶望が腹の底から再び湧き出てくる。もっとも作品ではコンブレーとゲルマントとは久しい以前から複雑に入り組んだトランス(横断的)流通をのびのび形成していたわけだが、それゆえなおさら今の日本の中で生きていることで、マーク・フィッシャーのいう「再帰的無力感」に繰り返し襲われない日はますますなくなるのである。