現在と過去とが共鳴して止まないゲルマント家のパーティー。オデットならオデット、ブロックならブロックと、個々のケースに当たりながら時間の侵食作用の残酷さが語り分けられている。それは語り手の特徴という以上に前提として採用されたものだ。「名」が介入するやたちまち暴き出される個々人それぞれのあからさまな変容ぶり。しかしそれだけならプルーストのあまりにも有名なテーマの一つである「暴露」について読者はただ単に書かれていることを確認すればいいというだけのことで何かもう一仕事終えたかのような錯覚に陥ってしまいはしないだろうか。
語り手が何度も強調するのは時間は残酷だということだけではなくて、時間の侵食作用が一人の人間を、一つの「名」を通してという保証のもとで、もはや別人へ変化させたのはただ一人に限ったことではまるでないという点である。パーティー参加者の「名」の数と同じだけ「特殊」な人生があったということだ。そしてそれらの「名」においてそれぞれの人生はまったくの別物として考えられなくてはならないということでもある。複数の人間がいれば複数の人生があるというのは当たり前であって、そうではなく、複数の人々のそれぞれの人生がまったくの別人への変貌として捉えることができるのはただ個々人の「名」が過去と現在とを共鳴させた場合に限るということでなくては意味をなさない。個々人はそれぞれ「特殊」である。この特殊性に個々人それぞれの差異(違い)があり、差異(違い)ゆえに個々人の尊厳も生じる。だがしかしその特殊性をあからさまにしてみせるのは個々人に与えられた「名」であり言葉であり、ただ言葉だけだという意味では、単なる言葉でしかないという実に心もとない切実な事情をも物語っている。それぞれが社交界へ入ってきた経過は次のようにそれぞれ異なっている。
「とはいえ、ゲルマント家の交際社会に受け入れられるという私に生じたできごとは、なにやら例外的なことのように思われた。しかし自分自身の外へ、自分を直接とり巻いている環境から外へ出てみると、このような社会現象は、当初そう見えたほど特殊なものではなく、私が育ったコンブレーの水盤からも、同じ水面の上方へ、私とまるで釣り合うかのように結局はかなり多数の噴水が吹きあげられていることがわかった。個々の状況はつねに特殊なものであり、個々の性格はつねに個人的なものであるから、ルグランダンが(甥の風変わりな結婚によって)それなりにこの交際社会へはいりこんだのと、オデットの娘がこの交際社会と縁組をしたのと、スワン自身が、そして最後になったが私自身がこの交際社会にはいりこんだのとでは、やりかたはもちろんまるで違っていた。私のように自分の人生に閉じこもり人生を内部から眺めて生きてきた者にとって、ルグランダンの人生は自分とはなんの関係もなく、自分とは正反対の道をたどったように思われた。深い谷間を流れる川からはべつの支流が見えず、やはり同じ大河へ注ぎこむにしても、双方の流れは遠く隔たっているようなものである」(プルースト「失われた時を求めて14・第七篇・二・P.128~130」岩波文庫 二〇一九年)
その意味では社交界といっても単純に似たもの同士ばかりの集まりではなく、そこには必ず複数の人生があるといえる。ところがどの社交人士を見たとしても「名」の一致を通して始めて過去の若々しい人間が数十年を経て別人としか思えないほど変貌するかは誰にもわからない。ようやくわかったとしてもそもそも「名」というものはなんなのか。記号に過ぎないではないか。言語が「制度化」されていない場所へ移動すればたちどころに意味を消滅させてしまうほかない気の毒なくらいどこまでも薄っぺらい記号にのみ依存しているという残酷さについて、むしろそのことを語り手は教える。しかし一度「制度化」されてしまうと今度は「制度」が個人をどこまでも縛り付ける桎梏になるほかないのもまた事実である。言語的構造的「制度」へ依存しなければ言語的構造的「制度」から自立することはできない。どんな身振り(言葉・振る舞い)への依存もなしに他のどんな身振り(言葉・振る舞い)への移動の承認の契機もない。個人の生涯を鋳型にはめ込んでしまう言語的社会の拒否は言葉を捨てるということではなく、逆に言葉への依存と同時にでなければ行うことができない。
長く切断され忘れられてもいた現在と過去とを「名」の一致によって共鳴させることはできる。だが「名」が失われていたとしたら現在と過去とを共鳴させることはもはやできない。もっとも、人前で共鳴させて見せる必要はどこにもないし、それこそ個人の自由である。だが心の中だけでも現在と過去とを共鳴させつつ現状を引き受けるかそれとも嘘だらけの言説を弄して自分で自分自身を偽り続けて死んでいくかを決めるのは自分に与えられた「名」の一致にのみ賭かっている。
もしたとえ嘘だらけで押し通したとしてももし死ねばすぐさま社交界を埋め尽くしている人々の手持ちの言葉が死という虚無的領域にどっと寄せ集められ、思い出せる限りのありとあらゆる言葉を列挙して飽きることなく墓をあばき、嘘に満ちていた死者の生前の姿を陽の目に晒しあげて凱歌を上げにやってくる。現在と過去との共鳴を人前で肯定するにせよあくまで心の奥底へ隠蔽しておくにせよ、どちらかを選べと迫る「制度」は何一つない。にもかかわらずこの逆説に個々人は耐えるほかないのだ。