白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21(ささやかな読書)・おとなの精神安定剤

2023年10月07日 | 日記・エッセイ・コラム

小池昌代「乳母の恋」(『群像・2023・11・P.20~37』講談社 二〇二三年)

 

何かに関して、特に自分の専門分野について「知っている」というのは、ある意味、無知の証拠である。ところが世の中に偏在する圧力の中でも最大規模のものの一つは何かというと、この「知っている」と思い込んでいるに過ぎない「無知」を「無自覚」のままにさせておくという暗黙の「制度」が上げられるだろう。小池昌代の小説がある種の精神安定剤として働きかける効果を有するのは世の中がこっそり押し付ける「無知」を「無自覚」のままに放置させることなく、逆に意識化させるからだ。それなら安定とは逆なのではと反射的に思う人々の側が多分多いに違いない。しかしその反射性はただ単なる「パブロフの犬」的反応に過ぎない。事情は遥かに込み入っている。

 

上品かつほどよく調整されたユーモアというより、文学とはほど遠いほぼギャグに近い文章を、いわゆる純文学の中へ意識的に取り込み書き込んでしまうことで、それが読者にとって精神安定剤たりうるということを知っていても知っていなくても構わないわけだが、ともかく、あらゆる身振り・言葉を射程に収めつつ世界を席巻しそうな勢いの政治装置を兼ねている「無知」への「無自覚」という政治的効用をそのまま放置させておくどえらい「世間様」が暑苦しくかつむさ苦しく押し付けて止まない暗黙の「制度」というものがある。

 

一方、小池昌代の小説を見ていると、上品かつほどよく調整されたユーモアというものが全体主義であれ差別主義であれどんな政治体制へも平然と加担するスマートな小道具と化してきた現状にきわめて意識的であるようにおもう。「来春映画化決定!」とでもいうような世界的ベストセラーのように大げさで特権的な位置から書き下すよう期待されるされないにかかわらず、なぜかわざわざ意図的に放り込んだ登場人物とその幻想とによって否応なく織りなされうっかり踏み込んでしまい不可避的に抜け出せなくなりそうな不器用さ、誰もが一日に二、三度はやっていそうな不器用で恥ずかしく二度と思い出したくもないがどこか愛おしい狂気の瞬間をひょうひょうと描いてくれる点で、上滑りすることのない自己滑稽化という思いのほか難度の高い文章がくるくる紡がれていく文章に浸っていられるし、できればもっと浸っていたいと思わせる。そこを買うのである。


Blog21(番外編)・二代目タマ’s ライフ145

2023年10月07日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇二三年十月七日(土)。

 

手術のためJRを乗り継いで大阪・玉造のネオベッツVRセンターへ。午前四時から絶食。

 

午後七時頃帰宅。直後に病院から連絡あり。手術は無事成功とのこと。手術痕も比較的浅く終えることができたようだ。ただ猫ではしばしばあることなのだが入院に伴うストレスがタマの場合もやや強いらしい。なので明日退院予定で考えてもらっていいということになった。連日大阪まで出るのはひさしぶりだが住んでいたこともあるので飼い主としてはストレスらしきものを感じないのだけれども。

 

さて黒猫繋がりの楽曲はまだ繋がる。今日も実は意外な選曲。ポリス解散後のスティングから。


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて569

2023年10月07日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

母の朝食の支度。今朝は母が準備できそうなのでその見守り。

 

午前六時。

 

前夜に炊いておいた固めの粥をレンジで適温へ温め直す。今日の豆腐は幸伸「やすらぐごまどうふ」。1パックを椀に盛り、水を椀の三分の一程度入れ、付属のたれみそを入れ、レンジで温める。温まったらレンジから出して豆腐の温度が偏らずまんべんなく行き渡るよう豆腐を裏返し出汁を浸み込ませておく。おかずはキュウリの糠漬け

 

(1)糠を落とし塩分を抜くため一度水で揉み洗い。(2)漬物といっても両端5ミリほどは固いので包丁で切り落とす。(3)皮を剥く。(4)一本の半分のままの細長い状態で縦に三等分する。(5)三等分した細長いキュウリを今度は5ミリ程度の間隔で横に切り分けていく。(6)その上にティッシュを乗せてさらに沁み込んでいる塩分を水とともに吸い上げる。今朝はそのうち十八個程度を粥と一緒に食する。

 

昨日夕食はカラスカレイの焼いたの。ホウレンソウの胡麻和え。声の張りは日に日に衰えをみせる。母の実兄が一度会って話の一つでもと電話をかけてきてくれた。大変ありがたいことだがしかし母は会話そのものがしんどいらしく断わった。また京都の実家で暮らす孫に最後のプレゼントとしてバッグをと語っていたが自分で外出するのが辛いというので代わりに選んできた。

 

今朝の音楽はキャノンボール・アダレイ「AUTUMN LEAVES」。

 

参考になれば幸いです。


Blog21・言葉への依存なしに言葉からの自立もない

2023年10月07日 | 日記・エッセイ・コラム

現在と過去とが共鳴して止まないゲルマント家のパーティー。オデットならオデット、ブロックならブロックと、個々のケースに当たりながら時間の侵食作用の残酷さが語り分けられている。それは語り手の特徴という以上に前提として採用されたものだ。「名」が介入するやたちまち暴き出される個々人それぞれのあからさまな変容ぶり。しかしそれだけならプルーストのあまりにも有名なテーマの一つである「暴露」について読者はただ単に書かれていることを確認すればいいというだけのことで何かもう一仕事終えたかのような錯覚に陥ってしまいはしないだろうか。

 

語り手が何度も強調するのは時間は残酷だということだけではなくて、時間の侵食作用が一人の人間を、一つの「名」を通してという保証のもとで、もはや別人へ変化させたのはただ一人に限ったことではまるでないという点である。パーティー参加者の「名」の数と同じだけ「特殊」な人生があったということだ。そしてそれらの「名」においてそれぞれの人生はまったくの別物として考えられなくてはならないということでもある。複数の人間がいれば複数の人生があるというのは当たり前であって、そうではなく、複数の人々のそれぞれの人生がまったくの別人への変貌として捉えることができるのはただ個々人の「名」が過去と現在とを共鳴させた場合に限るということでなくては意味をなさない。個々人はそれぞれ「特殊」である。この特殊性に個々人それぞれの差異(違い)があり、差異(違い)ゆえに個々人の尊厳も生じる。だがしかしその特殊性をあからさまにしてみせるのは個々人に与えられた「名」であり言葉であり、ただ言葉だけだという意味では、単なる言葉でしかないという実に心もとない切実な事情をも物語っている。それぞれが社交界へ入ってきた経過は次のようにそれぞれ異なっている。

 

「とはいえ、ゲルマント家の交際社会に受け入れられるという私に生じたできごとは、なにやら例外的なことのように思われた。しかし自分自身の外へ、自分を直接とり巻いている環境から外へ出てみると、このような社会現象は、当初そう見えたほど特殊なものではなく、私が育ったコンブレーの水盤からも、同じ水面の上方へ、私とまるで釣り合うかのように結局はかなり多数の噴水が吹きあげられていることがわかった。個々の状況はつねに特殊なものであり、個々の性格はつねに個人的なものであるから、ルグランダンが(甥の風変わりな結婚によって)それなりにこの交際社会へはいりこんだのと、オデットの娘がこの交際社会と縁組をしたのと、スワン自身が、そして最後になったが私自身がこの交際社会にはいりこんだのとでは、やりかたはもちろんまるで違っていた。私のように自分の人生に閉じこもり人生を内部から眺めて生きてきた者にとって、ルグランダンの人生は自分とはなんの関係もなく、自分とは正反対の道をたどったように思われた。深い谷間を流れる川からはべつの支流が見えず、やはり同じ大河へ注ぎこむにしても、双方の流れは遠く隔たっているようなものである」(プルースト「失われた時を求めて14・第七篇・二・P.128~130」岩波文庫 二〇一九年)

 

その意味では社交界といっても単純に似たもの同士ばかりの集まりではなく、そこには必ず複数の人生があるといえる。ところがどの社交人士を見たとしても「名」の一致を通して始めて過去の若々しい人間が数十年を経て別人としか思えないほど変貌するかは誰にもわからない。ようやくわかったとしてもそもそも「名」というものはなんなのか。記号に過ぎないではないか。言語が「制度化」されていない場所へ移動すればたちどころに意味を消滅させてしまうほかない気の毒なくらいどこまでも薄っぺらい記号にのみ依存しているという残酷さについて、むしろそのことを語り手は教える。しかし一度「制度化」されてしまうと今度は「制度」が個人をどこまでも縛り付ける桎梏になるほかないのもまた事実である。言語的構造的「制度」へ依存しなければ言語的構造的「制度」から自立することはできない。どんな身振り(言葉・振る舞い)への依存もなしに他のどんな身振り(言葉・振る舞い)への移動の承認の契機もない。個人の生涯を鋳型にはめ込んでしまう言語的社会の拒否は言葉を捨てるということではなく、逆に言葉への依存と同時にでなければ行うことができない。

 

長く切断され忘れられてもいた現在と過去とを「名」の一致によって共鳴させることはできる。だが「名」が失われていたとしたら現在と過去とを共鳴させることはもはやできない。もっとも、人前で共鳴させて見せる必要はどこにもないし、それこそ個人の自由である。だが心の中だけでも現在と過去とを共鳴させつつ現状を引き受けるかそれとも嘘だらけの言説を弄して自分で自分自身を偽り続けて死んでいくかを決めるのは自分に与えられた「名」の一致にのみ賭かっている。

 

もしたとえ嘘だらけで押し通したとしてももし死ねばすぐさま社交界を埋め尽くしている人々の手持ちの言葉が死という虚無的領域にどっと寄せ集められ、思い出せる限りのありとあらゆる言葉を列挙して飽きることなく墓をあばき、嘘に満ちていた死者の生前の姿を陽の目に晒しあげて凱歌を上げにやってくる。現在と過去との共鳴を人前で肯定するにせよあくまで心の奥底へ隠蔽しておくにせよ、どちらかを選べと迫る「制度」は何一つない。にもかかわらずこの逆説に個々人は耐えるほかないのだ。