「私」がバルベックへ出かけたくなったの理由の一つにスワンから聞かされた「ペルシャふうの教会」があるという話があった。
「というのもサン=ルーと知り合ったこの現実のバルベックへ私がどうしても出かけたくなったのは、大部分は、スワンが私にさまざまな教会のこと、なかでもペルシャふうの教会のことを話してくれたからである」(プルースト「失われた時を求めて14・第七篇・二・P.261」岩波文庫 二〇一九年)
実際に行って見てみると「私」が想像していた「ペルシャ風」とは違っている。ところが画家エルスチールからすると「私」が落胆するには及ばないという。エルスチールはいう。
「『とんでもない』とエルスチールは私に答えた、『むしろ大いに当たっている面があります。いくつかの部分は、まるでオリエント風です。柱頭の彫刻には、きわめて正確にペルシャの主題を再現しているものがありますから、オリエントの伝統が存続していたというだけでは充分な説明にはなりません。きっと彫刻家は、船乗りたちが持ち帰った小箱でも模写したのでしょう』」。
さらに。
「実際、あとでエルスチールが見せてくれた柱頭の彫刻には、たがいにむさぼり合うシナ風ともいえる龍が描かれていた」。
「私はエルスチールに、ほとんどペルシャ風の建物があるものと期待していたことが、おそらく失望の一因になったのだろうと言った。『とんでもない』とエルスチールは私に答えた、『むしろ大いに当たっている面があります。いくつかの部分は、まるでオリエント風です。柱頭の彫刻には、きわめて正確にペルシャの主題を再現しているものがありますから、オリエントの伝統が存続していたというだけでは充分な説明にはなりません。きっと彫刻家は、船乗りたちが持ち帰った小箱でも模写したのでしょう』。実際、あとでエルスチールが見せてくれた柱頭の彫刻には、たがいにむさぼり合うシナ風ともいえる龍が描かれていた。バルベックでは、『ほとんどペルシャ風の教会』ということばが示唆していたものとは似ても似つかぬ建物の全体に気をとられ彫刻のこんな小さな部分など見過ごしていたのだろう」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.434」岩波文庫 二〇一二年)
「私」が思い込んでいる「ペルシャ風」というのはきわめて単純化されたステレオタイプに過ぎない。逆にエルスチールが案内してくれた「ペルシャ風教会」について語られる言葉は「ペルシャ風」、「オリエント風」、「シナ風」とすでに重層的だ。ただ単に「ペルシャ風」という一言だけではとても語ることができないし「ペルシャ風」という言葉を持ち出すとすればその時すでに他の様々な意匠を含む複数性として語られるほかなくなっている。
初回のバルベック滞在時、ちょっとした建築物一つ取ってみても世界中から寄せ集められた多種多様な文物のモザイクに遭遇することができた。世界の加速化はすでに始まっていた。小さな見落としが問題なのではなく「ペルシャ風」という言葉がもはや気の遠くなるほど多様な重層性を獲得していた。