白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21(番外編)・二代目タマ’s ライフ142

2023年10月04日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇二三年十月四日(水)。

 

早朝(午前五時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

朝食(午前八時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

昼食(午後一時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

夕食(午後六時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

午前中は母の診察の付き添い。午後二時頃帰宅。お利口にお留守番していたタマ。テーブルの椅子のクッションで居眠っている。すっかり秋の気候になった一日を満喫していたようだ。

 

ちなみに黒猫と掛けてリッチー・ブラックモア。年齢が母の一年下で現在七十八歳。ブラック・マスカレードがおそらくリッチー最後のハード・ロック・ナンバーになるかもしれないとふと思った。思い出すがままに十一曲上げておこう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


Blog21・死体を喰らう愛欲とその複数性(改訂版)

2023年10月04日 | 日記・エッセイ・コラム

屍体を喰らう愛欲というエピソードは特に珍しくはない。上田秋成「青頭巾」は創作だが究極的死屍愛を描きながら同時にただ単なる死屍愛が狂気へ変化したと見なされるポイントとこの愛欲に終止符を打ったのが村にたまたま立ち寄った「他者」(旅の僧)である点に特徴がある。

 

下野国のある寺院での出来事。その寺の住職は「何某(なにがし)殿の猶子(ゆうじ)」=「しかるべき方の甥御様(おいごさま)」。最初から貴族筋である。さらに学問修行に秀で徳が高く村の尊敬を一身に集めていた。この住職が鬼になった。高貴な出身と鬼への変化。ある種のステレオタイプだがそれほど単純ではなく物語の中に幾つかの断層が見られる。

 

住職は灌頂の戒師を務めてほしいと依頼を受け、「越(こし)の國」(今の新潟県、石川県、富山県、福井県あたり)へ出かける。下野からひとまず外部へ出る。そして「越(こし)の國」(外部)で一人の「十二、三歳なる童兒(わらは)」(美童)と出会い連れ立って下野(内部)へ回帰してくる。この移動の過程で住職は利子を得て戻ってきたことになる。屍体を喰らうところまで行く愛欲は外部で生じた。言い換えれば、屍体を喰らうところまで行く愛欲は外部流通中に生産された。だが死屍愛そのものは珍しくない。外部で獲得した愛欲対象「十二、三歳なる童兒(わらは)」(美童)への接し方の変化に諸段階があり、それぞれ形態が異なる点でこの種の愛欲もまた複数性だという事情に注意を向けたい。

 

「今の阿闍梨(あじゃり)は何某(なにがし)殿の猶子(ゆうじ)にて、ことに篤学修行の聞えめでたく、此國の人は香燭(かうしょく)をはこびて歸依(きえ)したてまつる。。我(が)荘(いへ)にもしばしば詣(で)給ふて、いともうらなく仕(つか)へしが、去年(こぞ)の春にてありける。越(こし)の國へ水丁(くはんでう)の戒師(かいし)にむかへられ給ひて、百日あまり逗(とど)まり給ふが、他(かの)國より十二、三歳なる童兒(わらは)を倶(ぐ)してかへり給ひ、起臥(おきふし)の扶(たすけ)とせらる。かの童兒(わらは)が容(かたち)の秀麗(みやびやか)なるをふかく愛(めで)させたまうて、年来(としごろ)の事どももいつとなく怠(をこた)りがちに見え給ふ。さるに茲年(ことし)四月(うづき)の比、かの童兒(わらは)かりそめの病に臥(ふし)けるが、日を経(へ)ておもくなやみけるを痛(いた)みかなしませ給ふて、國府(こうふ)の典藥(てんやく)のおもだたしきまで迎(むか)へ給へども、其しるしもなく終(つひ)にむなしくなりぬ。ふところの壁をうばはれ、あまりに嘆(なげ)かせたまふままに、火に焼(やき)、土に葬(はうむ)る事をもせで、臉(かほ)に臉をもたせ、手に手をとりくみて日を經(へ)給ふが、終(つひ)に心神(こころ)みだれ、生(いき)てありし日に違(たが)はず戯(たはふ)れつつも、其肉の腐(くさ)り爛(ただる)るを吝(をし)みて、肉を吸(すひ)骨(ほね)を嘗(なめ)て、はた喫(くら)ひつくしぬ。寺中の人々、『院主(じゅ)こそ鬼になりつれ給ひつれ』と、連忙(あはたたしく)迯(にげ)さりぬるのちは、夜々(よなよな)里に下りて人を驚殺(おど)し、或は墓(はか)をあばきて腥々(なまなま)しき屍(かばね)を喫(くら)ふありさま、実(まこと)に鬼といふものは昔物がたりには聞(き)もしつれど、現(うつつ)にかくなり給ふを見て侍れ」(日本古典文学体系「青頭巾」『上田秋成集・雨月物語・P.123~124』岩波書店 一九五九年)

 

類稀なる美しさに恵まれた童兒(わらは)を身近に置き深く寵愛し仏道修行も怠りがちになる住職。しかし童兒(わらは)は病気を患い死んでしまう。死ねば遺体は火葬して土に葬るのが通例。ところが住職は荼毘にふすことも土に葬ることもせず、「臉(かほ)に臉をもたせ」(死体の顔に自分の顔をこすりつけ)、「手に手をとりくみて」(死体の手を自分の手と組み合わせ)、数日をすごした。やがて「心神(こころ)みだれ、生(いき)てありし日に違(たが)はず戯(たはふ)れつつも、其肉の腐(くさ)り爛(ただる)るを吝(をし)みて、肉を吸(すひ)骨(ほね)を嘗(なめ)て、はた喫(くら)ひつくしぬ」。美童が生きていた時と同じように死体と戯れ合い、死体の肉が腐乱していくのを惜しみ、肉を喰らい骨をしゃぶり、とうとう死体をすっかり食べきってしまった。ここで文章は「「心神(こころ)みだれ」=「狂気に陥り」とある。住職の狂人化は死体と戯れ合い始めた瞬間を境界線として始まったと見なされている。

 

もっとも、死屍愛だけというなら他にもエピソードがある。有名なのは大江定基(参川入道)の話。

 

「参川入道、いまだ俗にありけるをり、もとの妻(め)をば去りつつ、わかくかたちよき女に思(おもひ)つきて、それを妻(め)にて三川へゐてくだりけるほどに、その女ひさしくわづらひて、よかりけるかたちもおとろへて、うせにけるを、かなしさのあまりに、とかくもせで、よるもひるもかたらひふして、口をすひたりけるに、あさましき香の口より出(いで)たりけるにぞ、うとむ心いできて、なくなくはふりてける」(「宇治拾遺物語・巻第四・七・P.113」角川文庫 一九六〇年)

 

だが上田秋成「青頭巾」は愛欲の中に諸段階を設けてその複数性に踏み込んでいる。愛憐ゆえの嘆き。さらに美童の屍体と戯れ遊び始めることで狂気への境界線設定。そして死屍食。

 

寺院にいた他の僧侶たちは住職を見限ってみんな逃げ出してしまう。さらに住職は夜ごと村に下りてきて村の墓をあばき「腥々(なまなま)しき屍(かばね)を喫(くら)ふ」(死んで間もない屍肉を喰らう)ようになった。村人らはその姿を「鬼」と見た。ここで同時に行われなければならない二つの操作。

 

(1)美童から腐乱屍体への変化。

 

(2)高貴な出身の僧侶から鬼への変化。

 

一方的な愛欲に治癒というものはない。別の価値体系への向け変えが有効である。そこでたまたま村を通りかかった旅の僧が外部から到来した「他者」として出現し、鬼化した住職を形態変化させる役割を果たす。結果的に残されたのは旅の僧が住職にかぶせた青頭巾と住職の骨だけだったとはいえ。欲望を引き起こすのは肉だとされる仏教観は別として、外部で開花した住職の果てしない愛欲に終止符を打ったのがこれまた外部からやってきた旅の僧だというところにも注目したい。内部だけではどんな欲望も変化しない。外部へ移動するとともに変化し開花する欲望がこれまでの住職から鬼へと加工=再生産された。そして鬼へと生産された住職を骨へと回帰させたのもまた外部から移動してきた旅の僧=異人である点が重要だろうとおもわれる。

 

なお「青頭巾」を見ると日本の古典の他の幻想・ホラーものとは違い、狂気への境界線設定が意識的に明確化されているようである。上田秋成の特徴と言っていいような欲望論の一端かもしれない。けれども「青頭巾」で美童の屍体と戯れ遊び始めた住職の描写は、その前に「終(つひ)に心神(こころ)みだれ」とあり、さらにその後に「其肉の腐(くさ)り爛(ただる)るを吝(をし)みて、肉を吸(すひ)骨(ほね)を嘗(なめ)て、はた喫(くら)ひつくしぬ」とあるように、わざわざ特定してもしなくても構わない境界線設定だという点が気にかかりはしないだろうか。幻覚幻聴の出現抜きでそのまま死屍愛食へ進めてみても物語に差し障りは生じない。

 

というのは突然登場してきた旅の僧の言葉通り、死屍愛食は「そもそも」愛欲の極限の形だからである。恐怖する村人たちを納得させたのはその言葉であって、納得した側の村人たちにしてみれば「そもそも」論が披露された時点ですでに「鬼」への恐怖は半ば消滅したも同然で、物語も鬼化した住職が本当に村内から消え失せてくれるかどうかに話の重心が移っている。例えば「源氏物語」などでは「ものの怪ワールド」とでも言いうる箇所が幾らでも出てくるが、かといって「狂気/非狂気」の境界線はあいまいであり、ものの怪出現の理由もさほど奇怪でない。死屍愛食の場面も出てこない。ところが上田秋成作品は狂気への境界線がとても明瞭で描かれるシーンも猟奇的なほど深い欲望が取り扱われている。欲望というものは深ければ深いほど猟奇性を帯びるといえる。言い換えれば、究極的ホラーは限りなく芸術に近づく。


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて566

2023年10月04日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

母の朝食の支度。今朝は母が準備できそうなのでその見守り。

 

午前六時。

 

前夜に炊いておいた固めの粥をレンジで適温へ温め直す。今日の豆腐は男前豆腐店「濃厚ケンちゃん」。1パックの二分の一を椀に盛り、水を椀の三分の一程度入れ、白だしを入れ、レンジで温める。温まったらレンジから出して豆腐の温度が偏らずまんべんなく行き渡るよう豆腐を裏返し出汁を浸み込ませておく。おかずはキュウリの糠漬け

 

(1)糠を落とし塩分を抜くため一度水で揉み洗い。(2)漬物といっても両端5ミリほどは固いので包丁で切り落とす。(3)皮を剥く。(4)一本の半分のままの細長い状態で縦に三等分する。(5)三等分した細長いキュウリを今度は5ミリ程度の間隔で横に切り分けていく。(6)その上にティッシュを乗せてさらに沁み込んでいる塩分を水とともに吸い上げる。今朝はそのうち十八個程度を粥と一緒に食する。

 

昨日夕食はホタテ。レンジで温め醤油を垂らしシソで包んだものを三個。味噌焼きのつもりだったが多分固すぎるというので柔らかく仕上げる方法に変えた。意外と食べることができた。食べること自体が辛くなり少量化してくる時期だがおいしく食べられたらしい。ジャガイモのサラダは一皿弱。

 

今朝の音楽はマイルス・デイビス「SID’S AHEAD」。

 

参考になれば幸いです。


Blog21・ゲルマント「均質化」問題

2023年10月04日 | 日記・エッセイ・コラム

「私」はパーティー会場自体の変化に気づく。ゲルマント家の人々に顕著でありそれと識別できた記号が今なお残っている場合でも、「そのすぐそばにいる別の人は胡散(うさん)くさい新顔であると判断できるだけの、無数の根拠や微妙な相違にかんする知識までが消滅した」と思い知らされる。

 

「それでも、時が流れ去り、私の過去のささやかな部分が消滅したという印象が強く感じられたのは、こうしたまとまりのある集団(ゲルマント家のサロンがそうであった)が破壊されたことが原因というよりも、ある人がいまもなおそこにいるのはごく当然でそれにふさわしい座を占めているのにたいして、そのすぐそばにいる別の人は胡散(うさん)くさい新顔であると判断できるだけの、無数の根拠や微妙な相違にかんする知識までが消滅したことがその原因である」(プルースト「失われた時を求めて14・第七篇・二・P.103」岩波文庫 二〇一九年)

 

ぽっと出の新興資本家階級でしかなかったヴェルデュラン夫人が今やゲルマント大公妃の名(称号・地位)を占めることが可能になったように「ゲルマントのほう」と「メゼグリーズ(コンブレー)のほう」とはもはや常にすでにトランス(横断的)流通関係に入っている。さらに「失われた時を求めて」冒頭箇所に書き込まれているのを見れば、両者をまったく別々の世界として思い描いているのは「私」の甘美な幻想世界の事情に過ぎない。「私」の思い描くコンブレーが原始的で猥雑な「湿地帯」でないとすれば、ゲルマントという華々しく煌びやかな社交界への憧れは光り輝きようがない。ただ単に「私」が両者の絶え間ない交換流通関係を幻想の外部に取り除けておいただけのことであって実際のところ両者の間には早くから幾つもの交通路が縦横無尽に横切っていた。トランスしていた。両者とも互いの身振り(言葉・振る舞い)に通達し合っていた。ゆえに第一次世界大戦直後にはもう様々な縁組を通して両者の違いが出現するということは消滅していき、逆に両者ともに均質的な身振りが社交界を覆い尽くすようになっていた。語り手の言葉。

 

「ある人がいまもなおそこにいるのはごく当然でそれにふさわしい座を占めているのにたいして、そのすぐそばにいる別の人は胡散(うさん)くさい新顔であると判断できるだけの、無数の根拠や微妙な相違にかんする知識までが消滅した」。

 

絶えざる交換関係を通してかつての大貴族と新興資本家階級とは早くも均質性を獲得していた。そこでは両者ともに互いが互いの鏡となり互いが互いの姿を映し合うことばかりが繰り返される。そして急速に失われていくのはオリジナルという概念だ。オリジナルかコピーかという問題は消えてなくなる。すべては仮面へ解消する。どこにも中心はない。無数の「見せかけ」の系列が世界中で出現し、誰もが誰もの「見せかけ」を演じることしかもはやできなくなる。

 

「すべては見せかけ(シミュラクル)へと生成したのだ。それというのも、わたしたちは、見せかけ(シミュラクル)という言葉によって、たんなるイミテーションではなく、むしろ範型(モデル)つまり特権的な地位という考えそのものが或る行為によって異議を唱えられ、転倒されるようなまさにその行為〔現実態〕を理解しなければならないからである。見せかけ(シミュラクル)とは、即自的な差異を含む審廷である。それはたとえば、(少なくとも)二つの発散するセリーであり、そこでは当の見せかけ(シミュラクル)が遊び戯れ、あらゆる類似は廃止され、したがってオリジナルとコピーの存在をそれとして示すことができなくなるのである」(ドゥルーズ「差異と反復・上・第一章・P.195~196」河出文庫 二〇〇七年)

 

均質化への意志。すべての人間を等質空間へ組み入れることによって果たされる現代的「管理」。均質であればあるほどどの個人も他の個人と置き換えることは瞬時に可能だ。ますます不可視になっていく管理社会。いつどこで誰がふいに姿を消したとしても「よくあること」、「単なる事故」、「世をはかなんでの自殺」等々で済まされてしまう近未来的警察国家へのグローバル規模での加速。その恐怖について警察官自身もほとんど知らされていないか知ることもできない管理社会が進行していくに違いないと、プルーストやニーチェの眼にはすでに映っていたようにおもえる。