白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21(番外編)・二代目タマ’s ライフ154

2023年10月16日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇二三年十月十六日(月)。

 

早朝(午前五時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

朝食(午前八時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

昼食(午後一時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

夕食(午後六時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

飼い主がリビングにやってくるとお気に入りの玩具を口にくわえてそそくさと近づき、遊んでくれとアピールするタマ。飼い主が読書で忙しくなかなか構ってやれない時は器用に一人遊びして時間をつぶしている。カラーを付けたままでもずいぶん慣れた様子。もう少しだ。

 

黒猫繋がりの楽曲はまだ繋がる。今日の楽曲も飼い主が高校生だった頃に流行ったもの。黒塗りのキャデラックが富の象徴を意味した最後の時代。この時期にドラムを担当していたフランキー・バネリは二〇二〇年、膵臓癌と脳卒中のため六十八歳で死去。


Blog21(ささやかな読書)・「大文字の<文化>」への問い

2023年10月16日 | 日記・エッセイ・コラム

ロシア語の専門家はいう。

 

「いまのロシアやウクライナの人の生の声を紹介してほしい、という依頼をテレビや新聞から受けることがある。しかし番組の主旨を聞いていると戸惑うことのほうが多く、たいていは辞退してしまう。確かに私は現地の友人となるべく連絡をとっている。でも、それはただ少しでも彼らを孤独にさせないからであって、なにかを聞きだすためではない。戦争が起きている国の友人たちに、取材を前提に『いまの気持ちを聞かせてほしい』とか『正直な意見を述べてほしい』という言葉はとてもかけられない。むろん、言葉を発することを仕事とする作家や学者の場合は別だが、その場合でも配慮が必要ないわけではない。ましてやたとえばロシアで徴兵に怯えながらもぎりぎりの抵抗をしている出版社勤めの若者や、最も言論の不自由な職場のひとつである義務教育の教諭になんとか留まっている友達に、日本のテレビに向けて、いったいどんな『自然な』言葉を要求できるだろう。その行為自体が、彼らの傷にもなりかねないのに。心理的な負担という意味でも、実際の身の危険という意味でも」(奈倉有里「文化の脱走兵(13)」『群像・2023・11・P.444』講談社 二〇二三年)

 

ある意味当たり前と思える文章の中に「ケアの思想」が含まれていることに気づくことはそう難しくない。

 

「でも、それはただ少しでも彼らを孤独にさせないからであって、なにかを聞きだすためではない」。

 

奈倉有里は「ケアの思想」を意識してそうしているわけではないだろう。しかし「ケア」とはそもそもこうした態度のことを大いに含む。ではウクライナやロシアで実際に暮らしている人々はどのような場所でどのような言葉を交わし合っているのだろう。

 

「けれども同時に、ものをいえる場所、言葉を交わす場所は、彼ら自身が探し続けている。それを拾うことはできる。たとえばまったくの匿名で、彼ら自身も互いをほとんど知らないところで」(奈倉有里「文化の脱走兵(13)」『群像・2023・11・P.444』講談社 二〇二三年)

 

SNSの場合は近年とみに巨大プラットフォーマーの寡占状態下にあるため匿名性が維持できにくくなってきた。そこでゲームのチャットを利用する。そういう方法を日々探っていく。しかしその場所も大きくなればいずれ巨大プラットフォーマーに飲み込まれてしまうだろう。大事なことは日々探っていくを止めないということだろう。その態度は「大文字の<文化>」への問いを止めないということでもある。


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて578

2023年10月16日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

母の朝食の支度。今朝は母が準備できそうなのでその見守り。

 

午前六時。

 

前夜に炊いておいた固めの粥をレンジで適温へ温め直す。今日の豆腐は四国化工機「にがり充てん」。1パックの三分の二を椀に盛り、水を椀の三分の一程度入れ、白だしを入れ、レンジで温める。温まったらレンジから出して豆腐の温度が偏らずまんべんなく行き渡るよう豆腐を裏返し出汁を浸み込ませておく。おかずはキュウリの糠漬け。

 

(1)糠を落とし塩分を抜くため一度水で揉み洗い。(2)漬物といっても両端5ミリほどは固いので包丁で切り落とす。(3)皮を剥く。(4)一本の半分のままの細長い状態で縦に三等分する。(5)三等分した細長いキュウリを今度は5ミリ程度の間隔で横に切り分けていく。(6)その上にティッシュを乗せてさらに沁み込んでいる塩分を水とともに吸い上げる。今朝はそのうち十八個程度を粥と一緒に食する。

 

昨日夕食はれんこん饅頭のかに湯葉あんかけを一個。れんこんの風味がきついかと思っていたがそうでもなく一個だけでもおいしく食べられたようだ。

 

参考になれば幸いです。

 

今朝の音楽はビル・エバンス「BLUE IN GREEN」。


Blog21・「ほどよく心地よい血まみれ」としての局地戦

2023年10月16日 | 日記・エッセイ・コラム

ジルベルトやアンドレという「名」があるようにアルベルチーヌという「名」がある。そしてジルベルトもアンドレももはや別人。「名」を教えられなければ過去に「私」がジルベルトやアンドレとして知り合い現在もジルベルトやアンドレとして生きている人物が目の前にいるとはとても考えられないほど変貌している。時間の作用は過酷である。アルベルチーヌがもし死んでいなかったとしたらどうか。アルベルチーヌという「名」による保証がなければまったくの別人としてしか認識することはできないに違いない。「もし亡くなっていなければアルベルチーヌをそうしたように、生き残っているすべての娘たちを、私の想い出のなかに残っている娘たちとは確実にあまりにも異なる婦人にしてしまっていた」。過去に記憶された「イメージまで変えることはないからである」。

 

「私が突然ふたたび望んだもの、それは私がまだ本人たちと知り合う以前、バルベックで海の前をアルベルチーヌやアンドレやその友人の娘たちが通りすぎるのを見かけたときに夢見たものであった。ところがなんということか、私が今まさにこの瞬間これほど強く欲している娘たちに再会しようとしても、それは叶わぬことだった。きょう私が目にしたすべての人たちを、そしてジルベルト自身をも変えてしまった歳月の作用は、もし亡くなっていなければアルベルチーヌをそうしたように、生き残っているすべての娘たちを、私の想い出のなかに残っている娘たちとは確実にあまりにも異なる婦人にしてしまっていた。私はみずから努力してその娘たちに到達せざるをえないことが辛かった。なぜなら時は、人びとを変えてしまうが、その人びとについてこちらがいだくイメージまで変えることはないからである」(プルースト「失われた時を求めて14・第七篇・二・P.171」岩波文庫 二〇一九年)

 

ところが「名」は「制度」である。「名」が「制度」である限りで過去の姿と現在の姿とは瞬時に共鳴することができる。この共鳴に悲鳴を上げそうになったとしても「制度としての名」まで取り消すことは決してできない。「私」は記憶に残る過去のイメージと現在の姿との違いをあからさまに目撃するたびに驚きを隠せない。もはや別人としか言いようがないにもかかわらず「名」はむしろこの違いを肯定するよう「私」に要求することを止めようとはしない。値上げはしないが値下げもしない。びた一文たりとも。「私」は「制度としての名」を通して、現在において、過去の記憶を回想することができる。しかしそうした途端、過去の記憶はいささかも甘美なものではなくなる。この崩壊。そして次の瞬間にはもうさらなる崩壊が反復されていくばかりなのだ。

 

歴史は血まみれだとニーチェは言った。なるほどそうかもしれない。ところが二度の世界大戦と核開発競争を通してわかってきたのは大規模な全面戦争は実にしばしば商売の邪魔になってしまい割に合わないということだった。だから今度また始まったパレスチナ紛争のように局地戦の枠組み内に収めておくことができる限り、世界の武器供給企業にとっては「ほどよく心地よい血まみれ」というお金を産み落としてくれるオアシスが出現するに立ち至っている。