ロシア語の専門家はいう。
「いまのロシアやウクライナの人の生の声を紹介してほしい、という依頼をテレビや新聞から受けることがある。しかし番組の主旨を聞いていると戸惑うことのほうが多く、たいていは辞退してしまう。確かに私は現地の友人となるべく連絡をとっている。でも、それはただ少しでも彼らを孤独にさせないからであって、なにかを聞きだすためではない。戦争が起きている国の友人たちに、取材を前提に『いまの気持ちを聞かせてほしい』とか『正直な意見を述べてほしい』という言葉はとてもかけられない。むろん、言葉を発することを仕事とする作家や学者の場合は別だが、その場合でも配慮が必要ないわけではない。ましてやたとえばロシアで徴兵に怯えながらもぎりぎりの抵抗をしている出版社勤めの若者や、最も言論の不自由な職場のひとつである義務教育の教諭になんとか留まっている友達に、日本のテレビに向けて、いったいどんな『自然な』言葉を要求できるだろう。その行為自体が、彼らの傷にもなりかねないのに。心理的な負担という意味でも、実際の身の危険という意味でも」(奈倉有里「文化の脱走兵(13)」『群像・2023・11・P.444』講談社 二〇二三年)
ある意味当たり前と思える文章の中に「ケアの思想」が含まれていることに気づくことはそう難しくない。
「でも、それはただ少しでも彼らを孤独にさせないからであって、なにかを聞きだすためではない」。
奈倉有里は「ケアの思想」を意識してそうしているわけではないだろう。しかし「ケア」とはそもそもこうした態度のことを大いに含む。ではウクライナやロシアで実際に暮らしている人々はどのような場所でどのような言葉を交わし合っているのだろう。
「けれども同時に、ものをいえる場所、言葉を交わす場所は、彼ら自身が探し続けている。それを拾うことはできる。たとえばまったくの匿名で、彼ら自身も互いをほとんど知らないところで」(奈倉有里「文化の脱走兵(13)」『群像・2023・11・P.444』講談社 二〇二三年)
SNSの場合は近年とみに巨大プラットフォーマーの寡占状態下にあるため匿名性が維持できにくくなってきた。そこでゲームのチャットを利用する。そういう方法を日々探っていく。しかしその場所も大きくなればいずれ巨大プラットフォーマーに飲み込まれてしまうだろう。大事なことは日々探っていくを止めないということだろう。その態度は「大文字の<文化>」への問いを止めないということでもある。