そろそろかもと思っていたら絶妙のタイミングで出現したこの文章。
「この女、おれを蹴ったーーー」(松浦寿輝「B(第四回)」『群像・2023・11・P.254』講談社 二〇二三年)
女は足で振る舞う。さらにその口は小生意気この上ない。「わたし」は憤怒と屈辱にまみれながら思う。
「ある場面では男女平等の正論を楯にとるかと思えば、別の場面では『男らしさ』神話への従属を平然と要求して優位に立とうとする、こういう女どもの狡さには昔から辟易してきたものだ。結局いつもいつもこっちが諦めて、凹んで、引っ込むことになるのだ。まあ、もうひとことくらい罵声を浴びせて、それで勘弁してやるかと思い、適当な棄て台詞を思い浮かべようとした。この馬鹿野郎ーーー?しかし、野郎というのは男のことだろう。こっちをいきなり蹴りつけてきた女を、いったい何と言って罵倒したら」(松浦寿輝「B(第四回)」『群像・2023・11・P.256』講談社 二〇二三年)
言う、言われる、言い返す。ただそれだけだろうか。第四回で突然出現した感情の呻きとも憤りともつかぬ場面。といっても実は半年前。初回で一度さらりと顔見せしている。「わたしは少々色をなして言い返した」と。
「ーーーいや、そういうシニカルなことを言われても、とわたしは少々色をなして言い返した」(松浦寿輝「B(第一回)」『群像・2023・5・P.12』講談社 二〇二三年)
「わたし」と「女」との間で起こり、ほとんどの場合ならギャグに陥ってしまいがちなやり取り。大昔の筒井康隆が悪のりしていた頃の芸風を手際よく洗練させて漫画を映画へ置き換えたかのようなシーンであり、この種の二律背反的ギャグがたまらない読者にとっては大サービスといってもいいだろう。雑誌の三ページ半ばかり割いて十分書き込まれている。
ところがそれを「悪循環」と呼ぶにしても、「悪循環」いうものはどんな野次馬にでも飽きられてしまう傾向がある。野次馬は悪循環を一度は面白いと思いはするものの一度見たらもう知らないと背を向けてどこかへ行ってしまうしどこへ行っても構わないことになっている。しかし小説はどうなるのか。身振り(言葉遣い・振る舞い)と感情とが矛盾だらけのまま無限増殖を起こしていくほかないと思われたその直前、無限増殖を阻止しにやってくる言葉がある。「つくづく規則が好きなんだねえ、つまらない男」。
「ーーーうるさいわねえ、と女は鼻で笑って、ナントカ罪とか、禁止とか、つくづく規則が好きなんだねえ、つまらない男ーーーと小馬鹿にした口調で言った」(松浦寿輝「B(第四回)」『群像・2023・11・P.257』講談社 二〇二三年)
規則=「制度」。真っ先に問われるべきは制度化した言葉とそれによって織りなされていく小説である。というところで場面の空気はふっと変わる。といってもわざわざ前後半に分割するほど長くはない。
先日、小池昌代「乳母の恋」(『群像・2023・11・P.20~37』講談社 二〇二三年)を読んで、「上品かつほどよく調整されたユーモアというよりむしろほとんどギャグに近い文章」の効用について述べた。なぜというに、「上品かつほどよく調整されたユーモア」の書き方を手に入れた書き手が増えてくるに連れて「上品かつほどよく調整されたユーモア」の取り扱い方に関する「制度化」が起こり、今や大文字の文学、漫画、映画、社会問題に至るまで「上品かつほどよく調整されたユーモア」が盛り込まれていない作品はほとんどないという奇怪な全体主義が台頭してきたため、「上品かつほどよく調整されたユーモア」には持たされていないが「ほとんどギャグに近い文章」には以前から持たされていて今なお有効な「肉感」の記憶を忘却させないことが、ほかでもない小説という形態であれば可能だと考えるからである。