なぜ「数多くのゲルマント夫人」なのか。前回述べた。数多くのアルベルチーヌもアンドレも常に数多くの「私」とともに出現したきた経緯がある。その都度一回限りの組み合わせが無限に更新されていく。それは同時にその都度一回限りの言葉の寄せ集めとしても出現する。そしてその無限の系列は茫漠とした砂漠のようで果てしがない。
ドレフュス事件が世の中の話題をかっさらっていた時期。面白い変化が見られた。「ある人間がドレフュス事件に先立つ時期には人気者であったのに、ドレフュス事件がおこると狂信者または愚か者になったように、事件がその人びとにとっての人間の価値を変え、さまざまな党派のランクづけを変更したうえ、その党派自体も、それ以来、解体されたり再編されたりした」。ほとんど大多数の日本人にとっても馴染みの光景だろう。戦前、戦中、戦後。同一人物がどれほど大きく変貌したか。同一人物がまるで異なる三人の別々の人物ででもあるかのように変わった。同一性を保証していたのはただ単なる「名」に過ぎないといわんばかりの光景が出現した。
さらに時間の作用は二つの忘却をもたらす。
(1)「われわれの反感や軽蔑を忘れさせる」。
(2)「われわれの反感や軽蔑を説明していた根拠自体をも忘れさせる」。
(1)は誰にでもありがちで自分の身にも覚えがないわけではないという点でさほど問題にはならない。ところが重大問題としていつまでも禍根を残さずにいられないのは(2)のケース。日本では太平洋戦争終結後、「反感や軽蔑を説明していた根拠自体をも忘れさせる」作用にわざと便乗する形で少なくない数の戦犯が戦後政界に華々しく登場するという前代未聞の事態を出現させた。
「私にとって数多くのゲルマント夫人が存在したように、そのゲルマント夫人や、スワン夫人や、そのほかの人びとにとっては、ある人間がドレフュス事件に先立つ時期には人気者であったのに、ドレフュス事件がおこると狂信者または愚か者になったように、事件がその人びとにとっての人間の価値を変え、さまざまな党派のランクづけを変更したうえ、その党派自体も、それ以来、解体されたり再編されたりしたのだ。このような変遷に強力な寄与をしたもの、純粋に知的な親和力をもつ影響をそこにつけ加えたもの、それはすぎ去った時であり、その時は、われわれの反感や軽蔑を忘れさせるのみならず、われわれの反感や軽蔑を説明していた根拠自体をも忘れさせる。もしも若いカンブルメール夫人のエレガンスを分析したならば、夫人は私たちの建物に店を出していたジュピアンの娘だとわかっただろうし、それ以外に夫人を輝かしい身分にすることができたのは、その父親がシャルリュス氏に何人もの男をとりもったからだとわかるだろう。しかし、それらが相まってきらびやかな効果が生みだされたとはいえ、すでに遠い過去のものとなったそうした要因のほうは多くの新参者には知られることがなくなったばかりか、その要因に通じていた人たちも、過去の不名誉よりも現在の華やかさに想いを馳せるあまり、そのことを忘れ果てていた。なぜなら人はひとつの名前をつねに現在の意味で受けとるからである」(プルースト「失われた時を求めて14・第七篇・二・P.182~183」岩波文庫 二〇一九年)
過去に自分たちが率先して手を染めた事態が途方もない「不名誉」へ転倒した場合、なぜそうなったのか、「その要因に通じていた人たちも、過去の不名誉よりも現在の華やかさに想いを馳せるあまり、そのことを忘れ果て」る。だが現在が過去と共鳴すればするほど過去は動かしようのない歴史の記録として繰り返し反復再生される。歴史教科書一つ取ってみても解決を見ていない諸問題がぞろぞろ出てくる。
だからかどうかはわからないが、中には過去の歴史が再生されようとするたびに不都合きわまりない立場に陥る人々がいるため、ともすれば現在をも過去をも直視せず向き合おうともせず逆に改竄することさえ厭わない人々が大手を振って選挙に立候補したりする卑しい光景の横行をしばしば目にする。そして問題はとりわけ現在をも過去をも見ないあるいは見ようとしない人々の手で半ば強引に未来が描かれようとしていることに顕著に現れてくる。