白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21(番外編)・二代目タマ’s ライフ157

2023年10月19日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇二三年十月十九日(木)。

 

早朝(午前五時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

朝食(午前八時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

昼食(午後一時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

夕食(午後六時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

ドリブルして遊んでいたシリンジをどこかへ滑り込ませてしまったようなので飼い主がソファを持ち上げて探しているとタマがそばへたたたとやってきて飼い主のすぐ横から一緒にソファの下を覗き込む。タマにすればどこかへ消えてしまったシリンジを探しているというよりも飼い主が今探しているものは何かということに関心があるらしい。かなり真面目に覗き込んでいる。

 

黒猫繋がりの楽曲はノン・ジャンルな世界へ。マドンナのいう「あなた自身を表現しなさい」というメッセージは確かに力強い。ゲイには受けた。とりわけマッチョ系には。しかしここで注目したいのはレズビアンがレズビアンを愛するときのささやかで繊細な一瞬の身振りの音楽化。大雑把なマッチョ礼賛とはたびたび対極に置かれ続けてきた。ロミーはマドンナではなくマッチョ系でもない。そこで取り入れられるのは例えば「あなたの人生を楽しんで」という先人の言葉である。クラブ・シーンはこれまで多種多様な音楽が生産される謎めいた場であったがこれからもそうであり続ける。


Blog21・戦争が語る「宗教的なもの」

2023年10月19日 | 日記・エッセイ・コラム

連日伝えられている激化するばかりのパレスチナ紛争。宗教的なものとは一体なんなのか。考え込んでしまう。

 

報道を見ていて、それとは別にふと思い出した事件がある。一九八七年神奈川県で起きた「悪魔祓いバラバラ殺人事件」。福島章はこの殺人事件の精神鑑定に当たるとともに改めて記した「解説」に「猟奇事件の宗教的性格」という一節を組み込んでいる。もっとも、当時の報道はただ単に興味本位優先のものばかりが目立った。ごく単純な経緯として福島章は次のように述べている。

 

「一九八七(昭和六十二)年二月下旬、神奈川県F市の木造アパートの一室にこもって、一組の男女が一心にある作業に従事していた。その作業とは、殺害した男性の死体をバラバラに解体することであった。すべての皮膚を剥ぎ取り、内臓や眼球は摘出した。摘出した内臓は切り刻んでビニール袋に入れて封印し、あるいは細断して下水に流した。筋肉はすべて骨から剥がして、骨は解剖学の標本のようにバラバラの白骨の状態にするなどという凄惨な行為であった。男女は、あたかも何ものに取り憑かれたかのようにこの行為に熱中し、夜もほとんど眠らずに働いたが、三日目に臨場した警察官に、殺人と死体損壊の疑いで逮捕された」(福島章「悪魔祓いバラバラ殺人事件」『現代の精神鑑定・P.363』金子書房 一九九九年)

 

鑑定は計三回行われた。第一回は鈴木二郎が担当。第二回は中田修が担当。第三回は福島章が担当。裁判ではいずれの鑑定も結果が異なり決定的でないという理由から「痴情による犯罪」というあり得ない判決が出された。

 

被疑者は幾つかの新興宗教団体関係者と知り合っていたようだが犯行の経緯を追ってみても名前の上がったどの宗教団体の教義とも決定的な関係はないと考えられる。この事件のほぼ二年後にいわゆる宮崎勤「連続幼女殺人事件」発生。連日マス-コミを賑わせることになった。後者の事件は当時「オタク」との関連付けで語られることが多かった。しかし今や当時の「オタク」を軽く越える情報機器を日常的に手にした人々が爆発的に激増。世界中であふれ返っている。にもかかわらず宮崎勤「連続幼女殺人事件」のような事件も並行して爆発的に増えたかといえば逆であって激増したとは言えない。さらに「連続幼女殺人事件」発生は東西冷戦終結の年でもあった。


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて581

2023年10月19日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

母の朝食の支度。今朝は母が準備できそうなのでその見守り。

 

午前六時。

 

前夜に炊いておいた固めの粥をレンジで適温へ温め直す。今日の豆腐は太陽食品「金胡麻とうふ」。1パックの二分の一を椀に盛り、水を椀の三分の一程度入れ、付属のたれを入れ、レンジで温める。温まったらレンジから出して豆腐の温度が偏らずまんべんなく行き渡るよう豆腐を裏返し出汁を浸み込ませておく。おかずはキュウリの糠漬け。

 

(1)糠を落とし塩分を抜くため一度水で揉み洗い。(2)漬物といっても両端5ミリほどは固いので包丁で切り落とす。(3)皮を剥く。(4)一本の半分のままの細長い状態で縦に三等分する。(5)三等分した細長いキュウリを今度は5ミリ程度の間隔で横に切り分けていく。(6)その上にティッシュを乗せてさらに沁み込んでいる塩分を水とともに吸い上げる。今朝はそのうち十八個程度を粥と一緒に食する。

 

昨日夕食は昆布のにしん巻きのにしんの部分。ポテトサラダ。

 

参考になれば幸いです。

 

今朝の音楽はビル・エバンス「AUTUMN LEAVES」。


Blog21・便乗的「記憶喪失」

2023年10月19日 | 日記・エッセイ・コラム

なぜ「数多くのゲルマント夫人」なのか。前回述べた。数多くのアルベルチーヌもアンドレも常に数多くの「私」とともに出現したきた経緯がある。その都度一回限りの組み合わせが無限に更新されていく。それは同時にその都度一回限りの言葉の寄せ集めとしても出現する。そしてその無限の系列は茫漠とした砂漠のようで果てしがない。

 

ドレフュス事件が世の中の話題をかっさらっていた時期。面白い変化が見られた。「ある人間がドレフュス事件に先立つ時期には人気者であったのに、ドレフュス事件がおこると狂信者または愚か者になったように、事件がその人びとにとっての人間の価値を変え、さまざまな党派のランクづけを変更したうえ、その党派自体も、それ以来、解体されたり再編されたりした」。ほとんど大多数の日本人にとっても馴染みの光景だろう。戦前、戦中、戦後。同一人物がどれほど大きく変貌したか。同一人物がまるで異なる三人の別々の人物ででもあるかのように変わった。同一性を保証していたのはただ単なる「名」に過ぎないといわんばかりの光景が出現した。

 

さらに時間の作用は二つの忘却をもたらす。

 

(1)「われわれの反感や軽蔑を忘れさせる」。

 

(2)「われわれの反感や軽蔑を説明していた根拠自体をも忘れさせる」。

 

(1)は誰にでもありがちで自分の身にも覚えがないわけではないという点でさほど問題にはならない。ところが重大問題としていつまでも禍根を残さずにいられないのは(2)のケース。日本では太平洋戦争終結後、「反感や軽蔑を説明していた根拠自体をも忘れさせる」作用にわざと便乗する形で少なくない数の戦犯が戦後政界に華々しく登場するという前代未聞の事態を出現させた。

 

「私にとって数多くのゲルマント夫人が存在したように、そのゲルマント夫人や、スワン夫人や、そのほかの人びとにとっては、ある人間がドレフュス事件に先立つ時期には人気者であったのに、ドレフュス事件がおこると狂信者または愚か者になったように、事件がその人びとにとっての人間の価値を変え、さまざまな党派のランクづけを変更したうえ、その党派自体も、それ以来、解体されたり再編されたりしたのだ。このような変遷に強力な寄与をしたもの、純粋に知的な親和力をもつ影響をそこにつけ加えたもの、それはすぎ去った時であり、その時は、われわれの反感や軽蔑を忘れさせるのみならず、われわれの反感や軽蔑を説明していた根拠自体をも忘れさせる。もしも若いカンブルメール夫人のエレガンスを分析したならば、夫人は私たちの建物に店を出していたジュピアンの娘だとわかっただろうし、それ以外に夫人を輝かしい身分にすることができたのは、その父親がシャルリュス氏に何人もの男をとりもったからだとわかるだろう。しかし、それらが相まってきらびやかな効果が生みだされたとはいえ、すでに遠い過去のものとなったそうした要因のほうは多くの新参者には知られることがなくなったばかりか、その要因に通じていた人たちも、過去の不名誉よりも現在の華やかさに想いを馳せるあまり、そのことを忘れ果てていた。なぜなら人はひとつの名前をつねに現在の意味で受けとるからである」(プルースト「失われた時を求めて14・第七篇・二・P.182~183」岩波文庫 二〇一九年)

 

過去に自分たちが率先して手を染めた事態が途方もない「不名誉」へ転倒した場合、なぜそうなったのか、「その要因に通じていた人たちも、過去の不名誉よりも現在の華やかさに想いを馳せるあまり、そのことを忘れ果て」る。だが現在が過去と共鳴すればするほど過去は動かしようのない歴史の記録として繰り返し反復再生される。歴史教科書一つ取ってみても解決を見ていない諸問題がぞろぞろ出てくる。

 

だからかどうかはわからないが、中には過去の歴史が再生されようとするたびに不都合きわまりない立場に陥る人々がいるため、ともすれば現在をも過去をも直視せず向き合おうともせず逆に改竄することさえ厭わない人々が大手を振って選挙に立候補したりする卑しい光景の横行をしばしば目にする。そして問題はとりわけ現在をも過去をも見ないあるいは見ようとしない人々の手で半ば強引に未来が描かれようとしていることに顕著に現れてくる。