白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21(番外編)・二代目タマ’s ライフ149

2023年10月11日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇二三年十月十一日(水)。

 

早朝(午前五時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

朝食(午前八時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

昼食(午後一時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

夕食(午後六時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

便の調子をよく見ていると退院して二日目の午前中の大便は軟便。二代目タマの場合、去勢手術後の抗生剤投与でも一時軟便が出たので今回の手術後も出ておかしくない。ずっと続くようならかかりつけ動物病院へ相談をとのことだったので様子を見ていた。すると昨夜から軟便は収まり通常の便に戻った。食事内容は変えていない。水分も十分摂れているようだ。

 

初代タマは人間の食事に関心を示すことはほとんどなく、示したのは家のオーブンで焼いたパン。焼き上がり次第テーブルに並べていたらパンの上表面をいきなりぱくっ!そういうことはあった。二代目タマの行動は初代よりずっとケモノめいていてきっと肉や魚が好物だろうと見えはするものの見た目だけのことに過ぎず、肉類ではなくなぜかパセリを見ると近寄ってきて皿からパセリだけを引っこ抜いて持ち去ろうとする。先日はキャベツを皿から引き抜いてどこかへせっせと運び去ろうとしていた。予想のつかない測り難さにコミカルな横顔が垣間見える。

 

黒猫繋がりの楽曲はまだ繋がる。今日はおそらく世界中で知られている名曲。


Blog21・ギターのエクササイズとリッチー・ブラックモア

2023年10月11日 | 日記・エッセイ・コラム

ギターのエクササイズというのは、あえてジャンンル分けすればもちろん多岐に渡るわけだが、二代目タマが黒猫ということで「BLACK」からの言葉遊びでもと思い、「二代目タマ’S ライフ」でリッチー・ブラックモア「BLACKMORE」から思いつくままに洋楽を上げている。

 

で、日常生活の範囲内で時間を設けて行なっているギターの実際のエクササイズで、四日前くらい、リッチー・ブラックモアの楽曲を幾つか久しぶりに弾いてみた。十年以上弾いていないのでどうかと思いながらだったが案外指が覚えていた。しかし有名なものばかり。「LONG LIVE ROCK’N ROLL」、「KILL THE KING」、「SMOKE ON THE WATER」、「SPOTLIGHT KID」、「I SURRENDER」、「HIGHWAY STAR」など。弾いていてふと気づいたことがある。

 

リッチー以前のロック・ギター界。エリック・クラプトンやジェフ・ベックやジミー・ペイジがいたのだが、今の若い人たち、なかでも十代のあいだでもリッチー人気は少なからずあって、クラプトンやベックを弾く子らが定番曲を覚えるのと同等かあるいはそれ以上にリッチーの後期の楽曲でエクササイズしている。レインボーの終わり頃に出た「BENT OUT OF SHPE」以後、ディープパープル復活後から晩年にかけての楽曲をも弾いている。ただ単に弾くだけではない。祖父や祖母の目の前で弾いてやっている。爺さん婆さんにすればあまりの懐かしさに涙しないわけにはいかない光景。もっとも、腰はもう立たないわけだが。

 

スタイルを変化させることで息長く生き延びたギタリストというのは確かにいる。クラプトンはあまり変わっていないがペイジはツェッペリン時代すでに何度もスタイルを変えており、ベックはソロになってからアルバムを出すたびに違ったアプローチを聴かせてきた。しかしそのぶん残念なことにファンは減った。リッチーはその逆でパープル時代からほとんど変わっていないし変わる必要もなく、今ではまだ十二、三歳くらいの子どもたちにもその影響を与え続け、始めてギターを手にした小中学生たちに必須のエクササイズを提供しつづけている。これはこれで大したことだと思ったわけだ。

 

そこで五十五歳になった今、たとえ冗談でも弾くことはないと思っていた「BENT OUT OF SHPE」以後、ディープパープル復活後の楽曲をエクササイズに取り入れることにした。「FIRE DANCE」とか「ANYA」とか。この手のリフやソロ構成を新しく覚えるのは数えてみれば約四十年ぶり。結構楽しいものだ。理論的にいえばペンタトニック主体なのでリッチーからジャズへ、クラッシックへ、フュージョンへも行ける。


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて573

2023年10月11日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

母の朝食の支度。今朝は母が準備できそうなのでその見守り。

 

午前六時。

 

前夜に炊いておいた固めの粥をレンジで適温へ温め直す。今日の豆腐は四国化工機「にがり充てん」。1パックの三分の二を椀に盛り、水を椀の三分の一程度入れ、白だしを入れ、レンジで温める。温まったらレンジから出して豆腐の温度が偏らずまんべんなく行き渡るよう豆腐を裏返し出汁を浸み込ませておく。おかずはキュウリの糠漬け

 

(1)糠を落とし塩分を抜くため一度水で揉み洗い。(2)漬物といっても両端5ミリほどは固いので包丁で切り落とす。(3)皮を剥く。(4)一本の半分のままの細長い状態で縦に三等分する。(5)三等分した細長いキュウリを今度は5ミリ程度の間隔で横に切り分けていく。(6)その上にティッシュを乗せてさらに沁み込んでいる塩分を水とともに吸い上げる。今朝はそのうち十八個程度を粥と一緒に食する。

 

昨日夕食はシャケのムニエルを少し。ナスのすまし汁。全身倦怠感が強く身近な人とでも話をするのはたいへん体に辛くこたえるという。今朝も午後に予定していた幼馴染みとの再会を断らざるを得なかったばかり。癌患者では圧倒的に増える顕著な状態。患者家族や医学の世界では常識なのだが、一方マス-コミはこの種の常識にはほとんど触れず逆に膨大な資金のかかるレアなケースばかり伝えている。

 

マス-コミにすれば年金を受給する高齢者が一人でも早く死ねばこんなにうれしいことはないという形になる日本政府とちっとも変わらない態度。なぜだろう。さらに学生時代に性暴力のたらい回しに合い三十年ほど経ってPTSDや精神障害に苦しむ女性らの側ではなく逆にマス-コミとコネを作って世論操作に忙しい加害学生らの側をずっと擁護してやっているのもこれまた不可解。

 

参考になれば幸いです。

 

今朝の音楽はキャノンボール・アダレイ「DANCING IN THE DARK」。


Blog21・未来はすでに想定外を内在する

2023年10月11日 | 日記・エッセイ・コラム

次のセンテンスは見た目にも長い。ところが言っていることは極めて真っ当。現在と過去とは共鳴するが、一言で共鳴といっても過去のある時点ではまるで予想の付かなかった組み合わせばかりの共鳴が延々連発されていくと言えば早い。

 

語り手は「多くの人の結びつきが相まってひとつの状況がつくられたので、私にはその状況こそが完全な統一体であり、個々の人物はその構成要素にすぎない」と述べるわけだが「完全な統一体」を追い求めようと「わが人生にあらわれた多くの人のすがたを補って完全なものにするため、私の記憶のなかの相異なる領域からべつの人物を見つけてくること」を追求すればするほど「私の生涯になんらかの位置を占めた人物のなかで、いや事物のなかでさえ、わが生涯においてつぎつぎとさまざまな役割を果たさなかったものはない」という認識に立ち至る。

 

「この人たちは、その生涯の途上で、私の前に何度たちあらわれたことだろう。この人たちの生涯のさまざまな状況はたしかに同じ人物を提示しているように見えたが、それがあらわれたときの形態や目的は変化していた。ところがこの人たちひとりひとりの生涯の糸が通過した私の生涯のさまざまな節目は、はじめは最もかけ離れたように見えたべつの節目ととうとう結びつくことになった。まるで人生は、どれほど異なる図柄を織りなそうとしても、限られた数の糸しか所持していないかのようである。私のさまざまな過去において、たとえば私のアドルフ叔父訪問や、元帥の従姉妹にあたるヴィルパリジ夫人の甥や、ルグランダンとその妹や、中庭でフランソワーズと親しくしていた元チョッキの仕立屋ほど、たがいにかけ離れたものがあっただろうか?ところがいまや、これら相異なる糸はすべて織り合わされて横糸となり、こちらにはサン=ルー夫妻の、あちらにはカンブルメール若夫婦のすがたが浮かんでいる。モレルをはじめこのような多くの人の結びつきが相まってひとつの状況がつくられたので、私にはその状況こそが完全な統一体であり、個々の人物はその構成要素にすぎないように思われた。そして私の人生もすでにかなり長くなったから、わが人生にあらわれた多くの人のすがたを補って完全なものにするため、私の記憶のなかの相異なる領域からべつの人物を見つけてくることもあった。この館のまさしく栄光の象徴というべき場所に飾られているので今ここで目にするエルスチールの作品にも、私はヴェルデュラン夫妻やコタール夫妻の最も古い想い出をはじめ、リヴベルのレストランでの会話や、アルベルチーヌと知り合った午後の集いなど、多くのものをつけ加えることができた。たとえば美術の愛好家なら、ある多翼祭壇画のパネルのひとつを見せられれば、それ以外のパネルがどの教会や美術館や個人コレクションに散らばっているかを想い出し(やはり愛好家なら、あれこれ競売カタログを調べたり古美術商を訪ねたりして、ついには自分が所蔵している作と対をなすもうひとつの作を探し出すのと同じように)、頭のなかで祭壇画の基部を、ついには祭壇全体を再構成できる。ウィンチで巻きあげられる桶(おけ)が途中で何度も反対側のロープのさまざまな側面に触れるように、私の生涯になんらかの位置を占めた人物のなかで、いや事物のなかでさえ、わが生涯においてつぎつぎとさまざまな役割を果たさなかったものはない。単なる社交上の知り合いでも、物質的な対象でも、何年も経って私の記憶のなかに見出すときには、人生がそのまわりに休みなくさまざまな糸を織りなし、ついにはそうした糸が歳月の比類なく美しいビロードでそれをふんわり包むのが見られたもので、そのさまは古い庭園のただの水道管が苔(こけ)むしてまるでエメラルドの鞘(さや)で覆われているかのようであるのとそっくりだった」(プルースト「失われた時を求めて14・第七篇・二・P.136~138」岩波文庫 二〇一九年)

 

状況次第でころころ変わる過去の記憶の「統一体」というものを把握したと思った瞬間、すでに新しい状況のもとに置かれるわけであり、その都度いつも組み合わせはまるで違った変貌を遂げていくばかりなのだ。時間は決して停止することを知らない。ゆえに未来は現在において常にすでに想定外を内在している。現在と過去との一瞬の共鳴は間を置かず未来への更新の条件として置かれるけれども、更新の条件自体がそもそも支離滅裂でばらばらな素材から生成されるほかない。