新・徒然煙草の咄嗟日記

つれづれなるまゝに日くらしPCにむかひて心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく紫煙に託せばあやしうこそものぐるほしけれ

帰省の途中で平安時代にタイムトリップ #1

2024-05-20 17:45:10 | 旅行記

先週の日曜日から別邸帰省中です。

私が帰省 & Uターンするときは、クルマのときも新幹線のときも、ほとんどどこにも立ち寄らず本宅⇔別邸を移動するだけです。例外は、郡山・仙台・盛岡とかでのMISIAのライヴに絡めて帰省したとき(たとえばこの記事)と、一関に1してして平泉(記事)小坂を楽しんだ時(記事)くらいのもの。

今回は、水沢ICでいったん東北道を降り、えさし藤原の郷(さと)に行ってきました。
「えさし藤原の郷」には以前から興味を持っていて、どこにあるのだろうかと調べたら、水沢ICから遠くないではないか と、今回の帰省ではなくても、いつかは行こうと思っていました。
それが、今回は午前中に岩手県内に入れるペースでしたし、なによりも天気「暑からず寒からず」で上々でしたので、さっそく行ってみました。

水沢ICから一般道を走ること15分ほどで、「えさし藤原の郷」に到着しました。

駐車場が広くて驚き、そして、それがかなり埋まっているのにも驚きました
NHK大河ドラマ「光る君へ」のロケで使われ、「紀行」でも紹介された影響もあるのだろうな…
しかも日曜日だったし…

さもそも、この「えさし藤原の郷」とはなんぞや? ですが、説明板を抜き書きしてしまいましょう。

歴史公園えさし藤原の郷は、平成5(1993)年7月20haの広大な敷地に厳密な時代考証のもと再現された日本初の平安時代の歴史テーマパークです。国内唯一の「寝殿造」の再現をはじめ、大小合わせて約120棟の建築物が建ち並びます。
ここ「江刺」奥州藤原氏初代清衡公の生誕の地で、清衡公が平泉に移るまで暮らし、平和都市平泉の構想を思案した地と伝えられています。清衡公の父・経清公は、亘理地方(現・宮城県亘理郡)を治めていた朝廷側の役人でしたが、岩手県の豪族「安倍氏」の娘婿となり江刺に移り住みました。江刺と奥州藤原氏の密接な関係は、この時から始まりました。(中略)
経清公・清衡公親子の偉業を顕彰し、奥州黄金文化発祥の地として「歴史公園えさし藤原の郷」は誕生しました。また、平成5年の大河ドラマ「炎立つ」のメインロケ地となったことをきっかけに、数多くのドラマや映画の撮影も行われています。
一千年の時間を超え、さあ出かけましょう、超時代旅行へ!

だそうです。

説明文にある数多くのドラマや映画の撮影も行われていますはダテではなく、入場門脇には、ここで撮影されたドラマや映画の紹介パネルがズラリ

NHK大河ドラマなんて、3作に1作はここでロケをやってるんじゃないのか という感じで、反対側には「陰陽師0」「首」の紹介パネルもありました。
さっそく、観覧料1,000円(安い)Suicaでお支払いして入場 (駐車場は無料)

まずは、「政庁北門」をくぐって

8~9世紀頃の様式で再現されたという「政庁」から。

8~9世紀の様式の政庁

「政庁」と聞いて思い出したのは、秋田城趾で見た政庁の模型と、

東北歴史博物館で見た多賀城の政庁の模型(どちらも8世紀頃)でした。

なお、秋田城多賀城も、「城」といいつつ、実質は古代の地方行政機関です。
念のため…

えさし藤原の郷「政庁」のおもしろいところは、この8~9世紀の様式「政庁」背中合わせに、平泉藤原時代の様式「政庁」が建てられていることです。

説明板によると、

平安時代後期の政庁は12世紀頃のもので、唐の影響を受けて正殿を中心に左右対称に建物が配置され、太い朱塗りの丸柱は格の高いことを示しています。檜皮葺入母屋造の正殿と脇殿は回廊で結ばれ、高床式の蔵を築地塀揚土塀(あげつちべい)で囲んでいます。
中央政権の権威を表した華麗な造りになっています。

とのこと。

築地塀は判るけど、揚土塀って何???
こちらのサイトにある「練塀」みたいなものかな???

判らないまま先にすすみますと正殿脇殿の中にはいろいろなモノが展示されていまして、楽器とか、

遊び道具とか、

そして、いかにも平安時代らしい3領の大鎧とか…。

そして、正殿の中では、「源頼義の陸奥守着任」の様子が再現されていました。

この正殿意外だったのは、天井がなく、小屋組が丸見えだったこと。

このえさし藤原の郷は「厳密な時代考証のもと再現」されたというのですから、こういう造りだったのでしょう

ところで、「光る君へ」第4回「五節の舞」は、この政庁の前庭に舞台を特設して撮影されたそうな。

と、ここまで2つの建物を見ただけだというのに、30分が経過していました。

でも、まだ12:30ちょい過ぎですから、のんびりとまいりましょう。

ということで、「#2」につづきます。

つづき: 2024/05/21 帰省の途中で平安時代にタイムトリップ #2 

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泊まりがけは17年ぶりの新潟遠征 #2-3

2024-03-10 16:48:00 | 旅行記

「泊まりがけは17年ぶりの新潟遠征 #2-2」のつづきです。

吉野活版所の前を通り過ぎてからは、スマホのGoogleマップを頼りに、ひたすら新潟市歴史博物館みなとぴあを目指しました。
とはいえ、もうお昼時で、どこかで食事をしたい。
みなとぴあにはレストランなさそうで、Googleマップを見ても、私が歩く方向には食事ができるお店は2軒しか表示されません。
選択の余地は少ないな… と、ちょっと不安になりながら「御祭堀(五菜堀)」という道を東に歩いて行くと、その2軒のうちの最初の店がありました。

なにやら立派な建物です (この写真は第四北越銀行住吉町支店を背に撮ったもの。今にして思えば、この銀行の写真も撮っておくべきでした)
このお店は「魚や 片桐寅吉」という和食屋さんで、建物は登録有形文化財だそうな
ちょっと敷居が高そうでしたが、店頭に出された「お品書きを見ると、2,000円程度昼食がいただけるようなので、このお店で食べることにしました。
店内に入ると、古いけれど立派ひな飾りがあって(写真はありません)、いかにも「旧家」の雰囲気です。

このお店のリーフレットによると、

1885(明治18)「片桐鮮魚問屋」を立ち上げた片桐寅吉が晩年暮らした家屋でございます。
大海原を駆け巡り、北洋漁業をこよなく愛した寅吉は、やがて北陸でも一大問屋と言える鮮魚商となりました。
江戸時代より変わらぬ「魚や」として、現在までこだわってきた鮮度と味を、日本庭園を眺めながらご堪能ください。

だそうで、天井の高いお座敷にテーブルが並べられた作りになっていて、なにやらイイ感じ…

私が頂いたのは、銀だら「焼き魚定食」(1,900円)の味噌汁を豚汁にチェンジ(+200円)したもの。

銀だらは、「皮パリ & 身トロ」で、実に美味しかった
もちろん、ご飯美味しかった
きれいに整備されたを眺めながら旨い食事を摂る、、、、旅行らしい贅沢な気分に浸れるひとときでした

「X」に、「この店で昼食とポストしたところ、フォロワーさんから「近所に美味しい大福が買えるお店がある」という情報をいただきました。
さっそくググってみると、確かにそのお店「さわ山」は近い。
よし、寄ってみよう ということで、「魚や 片桐寅吉」をあとにしました。

   

ところで、「魚や 片桐寅吉」第四北越銀行 住吉町支店がある「御祭堀(五菜堀)」は、通りの名前っぽくありませんが、こちらのリーフレットによれば、

御祭堀(ごさいぼり):江戸時代、御祭堀という堀の両側に付けられた小路であり、古い絵図では「さい小路」「御菜堀」と記されることもあった。
堀は明治の町名改正で五番堀とされたが、戦後になって埋め立てられ道路となった。今は「五菜堀」と記されることが多い。

と、今では堀の名前ではなく通りの名前です。
さらに、

昔の新潟町は、地域ごとに職業が決められていました。風間小路から片桐小路、御祭堀のあたりは「肴(さかな)町」または「助賈(すけご=魚屋)町」と呼ばれる地域で、現在の本町通11番町の西側には「大助賈(おおすけご)」よばれる魚問屋が並んでいたといいます。
当時新潟町で魚の店売りができるのはここだけでした。

だそうです。
この地域のことは、またあとで触れることになります。
なお、という字を確認・入力するために、超久しぶり漢和辞典を引きました

   

「魚や 片桐寅吉」2ブロック北に、大きなお屋敷がありました。
「北前船の時代館」と公開されている「旧小澤家住宅」です。

この建物は、江戸時代後期から新潟町で活躍していた商家・小澤家の店舗兼住宅だそうで、広さはなんと1600平方メートル、敷地が正方形だとすれば40m四方もの大邸宅です

新潟市のサイトによると、

かつての新潟町における町家の典型例であり、かつ明治時代に成長した豪商の屋敷構えを構成する一連の施設がほぼそのまま残っていることから、建造物 7棟 (主屋、新座敷、離れ座敷、道具蔵、家財蔵、蔵前及び渡り廊下、門及び東塀) と敷地は、市指定文化財になっています。

とありますが、「町家」といえば、「狭い間口に長ぁ~い奥行き」のイメージですが、こんな長大な間口「新潟町における町家の典型例」なんですか…
「吉野活版所」の辺りは、私がイメージする「町家」そのものだったんだけど…

「北前船の時代館 旧小澤家住宅」内部が公開されていますが(観覧料は一般:200円)、13時になろうかという時刻だったことから(このあと大福を買って、みなとぴあを観て、15時頃には朱鷺メッセに着きたい)外観を眺めるだけにとどめ、「粋な黒塀、見越しの松に「お富さん」の冒頭を心の中で口ずさみながら「さわ山」さんを目指しました。

「さわ山」さんは簡単に見つかり、順番待ちする間に熟慮の末(繁盛しているお店でした)大福桜餅1個ずつ購入しました。
「新潟なら『笹団子』だろ」とも思ったのですが、「笹団子」はまたいつか…
なお大福桜餅は、このあとの私の行動の過程で、バッグの中でかなり変形してしまいましたが、帰りの新幹線の中で夕食のデザートとしていただきました。
とても美味しゅうございました

   

もと来た道をちょっと戻り、「この道の突き当たりが『みなとぴあ』」という通りを歩きました。
この通りがちょっと変わっていて、車道の幅に比べて、両側の歩道が異様に広い。しかも南側の歩道の横には小さな水路が流れています。
その「謎」は、案内板を見て解けた気がしました。

この通りは「早川堀通り」という名前で、ここもかつてはが流れていて、堀が車道に、両岸の道が歩道になったことが察せられました

さらに調べたところ、こちらのサイトによると、この道路は10年前に整備されたそうで、

新潟市が早川堀通りの整備に伴い、かつて堀のあった湊町の風情を感じられる水辺空間の創出に、地元との協議を重ね復元されたもの。

だとか。
さらに、

また、篠田市長は「新潟を象徴する素晴らしい通り。みなとピアと旧小澤家、下本町をつなぐラインであり、さらに磨きをかけて、新潟の名物通りに仕上げていただきたい。この通りがさらに楽しく、潤いの通りになるよう、我々も共に頑張りたい」と語った。

とのこと。
私が通ったときは、人通りもクルマの通りも少なく、ちょっと寂しかったのですが、でも、きれいな、歩いていて気持ちのよい通りでした。

ということで、新潟市歴史博物館みなとぴあまではあと少し。
つづきの「#2-4」は新潟遠征記の完結編の予定です。

【追記】「予定」はあくまでも「予定」でしかありません (2024/03/11 21:22)  

つづき:2024/03/11 泊まりがけは17年ぶりの新潟遠征 #2-4

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泊まりがけは17年ぶりの新潟遠征 #2-2

2024-03-08 19:05:42 | 旅行記

1週間のインターバルをおいて、「泊まりがけは17年ぶりの新潟遠征 #2-1」のつづきです。

「ダイジェスト」にこの日の街探索ルートを載せましたが、「新潟市観光 mini MAP」にプロットした別バージョンを載せます。

西堀通(寺町)を右折して鍛冶小路に入り、ちょっと進むと、セブンイレブンの前で(私にとっては)珍しいものを見つけました。

横型歩行者用信号機です。

新潟市内の信号機縦型で、それは「雪国あるある」何の不思議もないのですが、横型歩行者用信号機なんて初めて見ました
ネットで調べてみたところ、道路交通法施行規則の別表第一(第四条関係)「備考」で、

道路の状況により必要があるとき又は主として歩行者のために設ける信号機(以下この表において「歩行者専用信号機」という。) 若しくは可搬式の信号機を設けるときは、二・五メートル以上の高さとすることができる。

と定められていて、逆に言えば、歩行者用信号機は、信号機の下端が地上から2.5m以上高くなければならないということ。
ところが、この交差点の歩道にはアーケードがあるため、ここにおなじみの縦型の信号機を設置することは法令違反になってしまうというわけ。

なるほどね… と、さらに寄り道して調べると、群馬・桐生市「樹徳高校入り口」交差点に、かなり例外的な歩行者用信号機があることを知り、Google Mapのストリートビューを見てみました。

ほぉ~、普通の交差点なのに、歩行者用信号機が横型で、しかも、異様に低い位置に取り付けられています。
実はこの辺り、かつて歩道にはアーケードがあって、この横型歩行者用信号機はそのなごりなのだとか。

やはり復習のブログ書き勉強になります

   

さて、このセブンイレブンでお茶を買ったあと、私は鍛冶小路をさらに進み、東堀通との交差点を左折して進路を北北東に変えました。

そして、東堀通と新津屋小路の交差点で、これまた変わった商店街をみつけました。

にいがた人情横丁

100数十mにわたって、背中合わせの棟割り長屋のように、間口の狭い商店が連なっています
ここは「本町中央市場商店街」、通称「にいがた人情横丁」というところらしい。
私が行った時は、「シャッター通り」になっていたのですが、どうやらここは基本的に「日曜定休」のようです

この「人情横丁」、まるで新津屋小路(にいつやこうじ)の中央分離帯が商店街化したように見えます。もともと新津屋小路は中央分離帯があるような広い道じゃないのに…

このは、新潟遠征の復習とブログ書きの参考にしようとして視た「ブラタモリ」「新潟~新潟は"砂"の町!?(2017/7/30放送) で解けました
初回放送を視たはずなのに、タモリさんと近江ちゃん()が、この人情横丁で雨宿りがてら銀だらの塩焼きを食べていたなんて、まったく記憶にありませんでした。
で、昔、新潟の街にはが縦横に通っていて(これは知ってた)、この人情横丁は、その(新津屋小路堀)を埋め立てた上に作られたのだそうな。そして、現在、人情横丁を挟んでいる 2本の狭い道路は、堀の両岸の道だったという…。
なるほど~ でした。
なお、歩いてきた西堀通東堀通には、まさに西堀・東堀が通っていた由。

さて、人情横丁はほとんどの店が閉まっていたので、前半のブロックだけで切り上げ、白竜大権現のところで左折し、本町通から大通りに出ました。

おぉ、国道7号線の始点だ

ふるさと秋田市には「旧国道」と呼ばれる市道と、「新国道」と呼ばれる県道がありますが、この「国道」とは国道7号線のことで、私の生家や入学した小学校「新国道」(当時は本物の国道だった)ほぼ沿線でした。

福島市でこれまたなじみ深い国道13号線の始点を見たとき、沼津国道246号線の終点を通ったとき以来の感動(大げさ)でした。

   

ここから東堀通に戻り、北に進んでいくと、右手に覚えのある屋号を掲げたビルが…
「さけ茶漬け」で有名な加島屋の本店です。(基本的に日曜日はお休みみたい)

加島屋 本店

以前から「さけ茶漬け」は旨いけど高いんだよなぁ と思っていたら、たまたま何かのTV番組で「さけ茶漬け」の製造過程をやっていて、それを視たら、これは安売りできない商品だ と思いましたとさ。

加島屋さんの筋向かいに、大きな木造の建物がありました。

3階建ての古い木造建築というだけでも珍しいのに、大通りに背を向けているというのも珍しい。

これはいわくありげだと思い、地図を見ると、どうやらこの建物は古町花街を代表する料亭「鍋茶屋」裏側らしい。

これは正面から拝見せねば と、来た道をちょっと戻り、新堀通から「新潟観光 mini MAP」「鍋茶屋通(古町花街)」と表記されている通りに入っていきました。

そして、鍋茶屋通に入ってすぐに、「鍋茶屋」さん。

いかにも「格を感じさせる風情です。
「ブラタモリ」で、タモさんがお座敷遊びを体験するシーンがあったことは記憶していましたが、見かえすと、その収録場所が、この「鍋茶屋」さんでした。
やはり遠征前に「ブラタモリ」を視ておくべきだったか…

 width=鍋茶屋通に面した鍋茶屋さんの正面から古町通にかけて「取付道路」のような道がありました。
これは、もしかして、運転手付きのクルマでやってきたお客さん用の駐車場に使うのかな?

かつての私の勤務先は「新橋の料亭街」近くにありまして、近所の高級料亭の周りの道路では、夜になると運転手さんが乗ったままの黒塗りのクルマ群れをなして駐車していましたっけ…

この辺りは基本的に「夜の街」のようで、私が歩いた「日曜日の正午近く」眠っているようでした。
ちょっと退屈しながら古町通を歩き続け、国道7号線を横断し、救世軍の向かいで、魅力的古い建物に出会いました。

看板建築です

見た目はしっかりと手入れされているようですが、人気(ひとけ)はありません
仕方ないので(?)、写真を撮るだけで通り過ぎましたが、この記事を書くにあたって調べたら、「コーヒー焙煎所とリソグラフ印刷スタジオ」として現役の建物でした (HP)

こちらのサイトによると、この建物は、1916年に、当時の吉野活版所の当主・吉野松次郎氏の設計で建てられたもので、2017年まで印刷業が営まれていたそうな。

「看板建築です」と断定してしまったものの、本当にそうか? と、Googleマップの航空写真を見ると、案の上、洋風のファサードの奥は、普通の三角屋根でした
でも、「看板建築」は、関東大震災(1923年) からの復興過程の東京が発祥とされているんだけど、この建物の竣工はそれに先立つ1916年…。はて…

難しいことは放っておきましてGoogleマップを見ていたら、吉野活版所ごく近くに、漫画家の高橋留美子さんの生家(産婦人科医院らしい) があることを知りました。

私、そんなことはつゆ知らず、そこ(現在は駐車場)を通り過ぎました

きょう、鳥山明さんの訃報が流れていました。急性硬膜下血腫による急逝ということで、同世代の高橋さんもショックを受けているんじゃなかろうか

「#2-3」につづきます。

つづき:2024/03/10 泊まりがけは17年ぶりの新潟遠征 #2-3

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泊まりがけは17年ぶりの新潟遠征 #2-1

2024-03-02 12:20:57 | 旅行記

「泊まりがけは17年ぶりの新潟遠征 #1-3」のつづき、新潟遠征 2日目のスタートです。

新潟2日目の朝は「目覚まし」に頼ることなく目覚め、カーテンを開けると、窓ガラスがびっしりと結露していました。結露した窓ガラスを見たのは久しぶりのような気がします。
本宅乾燥しまくりだし、別邸の寝室は結露する余地もないほど室温が下がりますからねぇ…
天気予報では、の見込みだそうで、気温は暖かくも寒くもないという、冬の新潟にしては、観光するのに悪くはなさそうです

でも、どこを巡る? どこに行く?
毎朝のルーティーン、アイスコーヒーを淹れて飲みながら、「新潟市観光 mini MAP」とにらめっこ。

考えがまとまらないまま朝食を摂りました。
コロナ禍のときは、定食のみだったり、ブカブカの手袋をしたりと、不自由だったホテルの朝食も、今ではすっかり「普通」に戻りました
このホテルの朝食は、副食は「3-」レベルでしたが、味噌汁は「4」ご飯は「4+」で、「魚沼産こしひかり」だというご飯が美味しかった

食後、部屋に戻ると、この日の行動の検討を再開
そして至った結論が、「ダイジェスト」で書いたように、

とりあえずバス白山公園前まで行き、そこから古くからの街を北東方向に、「新潟市観光 mini MAP」スマホのGoogleマップを頼りに、行き当たりばったりに歩いて、新潟市歴史博物館みなとぴあまで行くことにしました。

というものでした。

行動計画がある程度決まったところで、ホテルをチェックアウトして、まずは新潟駅まで行き、コインロッカーに荷物を入れて…のつもりだったのが、新潟駅のコインロッカーが少ない
いや、数は足りているのかもしれないけれど、設置場所が少ないのですよ。
私は万代口の東側から駅構内に入ったのですが、無い…
南口側をぐるっと廻って、ようやく見つけました。
私が見落としただけなのかと思って、さっき新潟駅の構内図を見たら、やはり2か所しか無い

今は駅舎の工事中だから少ないのか、はたまた、ずっとこの状態のままで行くのか、どちらなんでしょ

それはともかく、荷物をコインロッカーに入れて身軽になった私は、10:30発の観光循環バス(私が乗ったのは「What's Michael」号ではありませんでした)で出発

新潟駅前から、車内で流れる観光案内を聞きながら、10分強白山公園前に到着しました。

バス停の隣りといってもよい場所にある新潟県政記念館とは、3年ぶりの再会でしたが、やはりステキでした。

新潟県政記念館耐震改修工事のため、'22年12月から'28年3月末まで長期休館中
もっとも、3年前に、新潟県政記念館を外観・内部とも思う存分見学したことから(記事)、今回は予定にも入れていませんでした

さて、裁判所の角を右に曲がって西掘通に入りました。
この通りは、延々とお寺が続く「寺町」で、さっそくお寺の門前で気になるモノを見つけました。

これはアレではないか

聖獣大好き伊東忠太による本願寺伝導院(旧・真宗信徒生命保険)の周りを守る聖獣の一つだ (本願寺伝道院の訪問記)

ということは…
やはり、このお寺(本浄寺)浄土真宗本願寺派のお寺でした

そして、お隣の真浄寺さん(こちらは真宗大谷派)でも気になる建物がありました。
西堀寺町最古級に属するという本堂(1786年建立)もさることながら、その右手前の建物に注目

煉瓦造りの立方体の上に、本瓦葺き寄棟の屋根が乗っかっているこの建物は何??
正面から見ても、よく判りません
なお、真浄寺さんの梵鐘立派でした。

判らないまま、お隣の超願寺さん(真宗大谷派)の境内にお邪魔すると、ここにもありました

しかも、右から左へ「堂骨納」と書かれています。
そうかそうか、納骨堂だったのか…

   

ここまできて、気づいたことがあります。

それは、お寺も民家も、瓦葺きの建物が多いということです。
秋田辺りでは、凍害の懸念があり、かつ重い瓦葺きの建物は、最近こそ見かけるようになったとはいえ、ホントに少ないのです。
新潟市は、そのイメージに反して、積雪が少なく、それほど冷え込まないのかな? と疑問に思ったところ、こちらのサイトによると、1961-2001年の1~2月の平均積雪量は、2m超はザラ上越は別格として、長岡市でも80cm程度だというのに、新潟市30cm程度なんだ
この記事を書くまで知りませんでした

   

さて、寺町巡りの最後は、「名誉市民『會津八一』(秋艸道人)の墓と歌碑」があるという瑞光寺(曹洞宗)です。

會津八一は、本堂の前に、本堂と同じ方向を向いて立っていました(歌碑墓に向かって右側)

 width=

この場所は、境内の一等地だよねぇ。

會津八一の墓にお参りをしたあと、瑞光寺を出て、西堀通をちょっと歩いたところに、案内板がありました。

「400年の歴史を秘めた新潟の寺町」と題して、

永禄11年(1568年)の上杉謙信の書簡に、新潟という地名が出てきます。
これは、謙信にそむいた村上の本庄繁長を攻撃するため、謙信が部下に宛てて出した書簡です。
このことから、新潟という地名が一般に使われ、すでに交通の要地となっていたことが推測されます。
永禄11年頃すでに、善導寺、長善寺、宝亀院、不動院が開基し、次いで、元亀・天正年間に真浄寺、法音寺、長照寺、宗現寺、本覚寺が開基、その後、24の本寺と18の前寺・末寺が甍を並べるまでに至り、明治初年、西堀と町名改正になるまで、寺町と呼ばれ、しだれ柳の堀端に、新潟人の魂を守り続けてきました。

だそうです。
この案内板、最初に見たかった…。

というところで、寺町巡りはここまでにして、西堀通を横断して古町地区に入っていきました。
ここから先は、「#2-2」で書きます。

よし、きょうのブログ書きが終わった
有明に行く準備をしよ

【追記】諸般の事情により、「泊まりがけは17年ぶりの新潟遠征」シリーズは数日お休み します  (2024/03/03 11:39) 

つづき:2024/04/08 泊まりがけは17年ぶりの新潟遠征 #2-2

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泊まりがけは17年ぶりの新潟遠征 #1-1

2024-02-28 18:44:52 | 旅行記

「泊まりがけは17年ぶりの新潟遠征 #M」のつづきは、遠征初日のこと。

初日は、「ダイジェスト」に書いたように、本宅から新潟に移動して朱鷺メッセ「JUNKO KOSHINO コシノジュンコ 原点から現点」展「MISIA星空のライヴXII Starry Night Fantasy」を楽しんで、新潟駅前の居酒屋ミー友さんと飲んだ、という一日でした。

私は11時ちょい過ぎに大宮駅発の上越新幹線で新潟に移動したのですが、大宮駅で地下の埼京線ホームから1Fに上がると、こんなポスターがありました。

「ガタガタ言うなよ! これからニイガタ!!」と、心の中で呟いたのですが、結局、新潟では、牡蠣ラーメン食べませんでしたです

   

私にとって違和感ありありだったのは、大宮駅を出発して10分たらずなのに熊谷駅で停車したこと。
もっぱら私が利用している東北新幹線「はやぶさ・こまち」だと、大宮を出発すると1時間ちょっと走り続けて仙台までノンストップで行ってしまうものですから、ヲイヲイって感じ…。
往路で乗った「とき317は、大宮から新潟までの停車駅が熊谷・高崎・長岡・燕三条の4駅という「(比較的) 速い新幹線」だったのですがねぇ。
ちなみに、復路に乗った「とき346号は、各駅停車でした

新潟に前日入りしたミー友さんによると、3連休初日23日の新幹線はかなり混んでいたそうですが、24ほどほどの乗車率で、私の隣りの席はずっと空席でした。

上越・北陸新幹線のお楽しみの一つは、群馬県内で見える山々です。

妙義山も、榛名山も、

どうしてこんなトゲトゲしているんでしょ

このように北関東良い天気だったのですが、川端康成「雪国」で書いた頃よりさらに長くなった国境のトンネル「大清水トンネル」を抜けると、、、

やはり「雪国でした。
そりゃぁねぇ、この時季の日本海側はこんなものですって

でも、雪景色は早々に終わり、長岡を過ぎると、ぜんぜん積雪がありませんでした

せっかく、雪道に強い靴を履いてきたんですけど…
でも、を体験しに新潟まで来たわけではありませんから、がないにこしたことはありません。

   

定刻に新潟駅に到着。

新潟駅の新幹線ホームは、車両の両側のドアが開くという、私鉄のターミナル駅みたいな構造で、後から開くドアから出ると、同じ高さの在来線ホーム(秋田行き特急「いなほ」が停車中)バリアフリーで乗り換えられるようになっていました。
もちろん私は、1フロア下の改札口から出たのですが、あれま 新潟駅が大変貌を遂げていました 新潟駅は、3年前に来た時にも、万代口で工事が行われていましたけど、コンコースがなんともきれいになっていました。
新しい駅舎はほぼ完成して、現在はバスターミナルを整備していました。

最近はもっぱら駅の近くのホテルをとることの多い私、今回も、万代口からほど近いホテル(ここに泊まるのは17年ぶり2回目) を予約していまして、これまたいつものように、チェックイン開始時刻よりかなり早いものの、ホテルまで行って荷物を預け、さぁ、行動開始です

まずは昼食

新潟といえば、やはりへぎそばでしょ
本宅のすぐ近くに、へぎそばを出すそば屋さんがあったんだけど、2年前に閉店してしまったんですよねぇ…

ということで、食べました

そば「小(1.5人前)」に、天ぷら「中」を組み合わせたら、なかなかのボリュームでした。

つゆが少ないな…と思っていたら、テーブルにつゆの入ったポットが置かれていて、自由に足せました ただ、これが判ったのが終盤だったのは不覚でした
へぎそばツヤツヤ&ツルツルしてコシのあるところ(なにせ「越の国」)は大のお気に入りなんですが、首都圏の濃厚ガツンとくるつゆに慣れてしまうと、ちょっともの足りなさを覚えます。でも、これもまたへぎそばです。

   

お腹が満ちたところで、朱鷺メッセに向かいました。

公称値「新潟駅から徒歩20分」と、歩くにはそこそこの距離ですが、天候は悪くないし、腹ごなしも兼ねて歩きました。
17年前も今回と同じホテルから朱鷺メッセまで歩いていきましたし、今回はスマホで現在地を確認できますから、ルート大丈夫

しかも、ほぼ中間点ANAクラウンプラザホテルの前まで来ると、私を待っていたかのように、朱鷺メッセのある万代島への案内板まであるのですから

そして、朱鷺メッセに到着

時刻は14:00ちょい前で、これから「JUNKO KOSHINO コシノジュンコ 原点から現点」展を観て、15:00開場「MISIA星空のライヴXII Starry Night Fantasy」に臨むには、絶好のタイミングでした

朱鷺メッセでのあれこれは「#1-2」につづきます。

つづき:2024/02/29 泊まりがけは17年ぶりの新潟遠征 #1-2

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泊まりがけは17年ぶりの新潟遠征 ダイジェスト

2024-02-26 18:27:13 | 旅行記

先週末の土日、「MISIA星空のライヴXII Starry Night Fantasy」新潟公演1泊2日ででかけてきました。

今でこそ私、MISIAを追いかけて日本各地に遠征しておりますが、MISIA遠征」の最初の地が、この新潟でした。2003年6月の「MISIA星空のライヴII」@新潟県民会館以降、2005年3月の「THE TOUR OF MISIA 2005 THE SINGER SHOW」@朱鷺メッセ、2007年1月の「THE TOUR OF MISIA 2007 ASCENSION」@朱鷺メッセと、ほぼ2年間隔で、新潟へ泊まりがけで遠征したものでした。

そこからしばらくご無沙汰し、前回は2021年5月の「MISIA星空のライヴ ACROSS THE UNIVERSE」@新潟テルサで、このときは日帰りを敢行 日帰りとは言っても、新潟に着いてから、会場行きのシャトルバスが出るまでの3時間に、この18年前に気になった新潟県政記念館しっかり観光してきました(記事)

   

前置きが長くなりましたが、まずは、例によって、旅程です。

【初日 2月24日(土)】
本宅⇒徒歩最寄り駅埼京線大宮駅上越新幹線新潟駅⇒徒歩ホテル⇒徒歩昼食⇒徒歩朱鷺メッセ (新潟県立万代島美術館「JUNKO KOSHINO コシノジュンコ 原点から現点」展⇒展示ホール:MISIA星空のライヴXII)⇒シャトルバス新潟駅前徒歩⇒飲み会⇒徒⇒ホテル

2日目 2月25日(日)
ホテル⇒徒歩新潟駅:コインロッカー新潟駅前⇒観光循環バス白山公園前⇒徒歩(寺町⇒上古町⇒古町⇒古町花街⇒昼食餅屋さん 新潟市歴史博物館みなとぴあ柳都大橋)⇒朱鷺メッセ「MISIA星空のライヴXII⇒シャトルバス新潟駅上越新幹線大宮駅埼京線最寄り駅⇒徒歩本宅

2日間に巡った場所のうち、出発前から行こうと決めていたのは、メイン「MISIA星空のライヴXII」は当然として、他には万代島美術館新潟市歴史博物館みなとぴあだけでした。

先月下旬、万代島美術館では、2月24-25日にはどんな展覧会をやっているのだろうか? と調べたところ、2月23日から「JUNKO KOSHINO コシノジュンコ 原点から現点」展が始まるというではありませんか
MISIAのライヴ(THE TOUR OF MISIA JAPAN SOUL QUEST) の衣装を担当されたコシノジュンコさんの展覧会が、ピッタリのタイミングで、ライヴ会場と同じエリアで開催されるとなれば、これは行くしかない
ということで、早々に前売券を購入しました。

また、新潟市の観光スポットをネットで探すうちに興味を惹かれたのが、朱鷺メッセとは信濃川の対岸に位置する新潟市歴史博物館みなとぴあでした。
交通の便は悪そうですが、建物好きの私としては興味津々

さて、朱鷺メッセ(ライヴと展覧会)新潟市歴史博物館みなとぴあに行くとして、それをどのように2日間に配置するかを考えた末、コシノジュンコ展初日新潟市歴史博物館みなとぴあ2日目に行くことにしました。
それはよいとして、問題は2日目で、新潟市歴史博物館みなとぴあから朱鷺メッセまでは、のんびり歩いたとしても20分程度のものです。どのように時間を使おうか…と、遠征前にはほとんど考えることなく遠征2日目の朝、ホテルで頂いた「新潟市観光 mini MAP」(A3サイズの1枚もの)にらめっこして検討しました。
その結果、とりあえずバス白山公園前まで行き、そこから古くからの街を北東方向に、「新潟市観光 mini MAP」スマホのGoogleマップを頼りに、行き当たりばったりに歩いて、新潟市歴史博物館みなとぴあまで行くことにしました。

2日目白山公園前から新潟市歴史博物館みなとぴあ経由の朱鷺メッセまでの徒歩ルートがこちらです。

ほんとに行き当たりばったり足の向くまま気の向くまま歩きましたので、地図に軌跡をプロットするのが大変でした。「この地点からここまではどこを通ったっけ」とか…。
こんなにテキトーでも、ほぼ時間ピッタリ(約4時間)だったし、見どころが多く楽しい街歩きだったし、昼食美味しかったし、美味しい大福桜餅を買えたし(帰りの新幹線の車中で食べた)、我ながら見事な旅程だったと思っています

遠征全般を振り返っても、MISIAのライヴちょっとしたアクシデントはあったものの、ますます最高かつ最幸更新してくるし、コシノジュンコ展は予想以上に素晴らしくかつ楽しかったし、「あること」を除いて、良い遠征になりました。
危惧された天候も、傘が必須の雨が降ったのは、最後の最後、朱鷺メッセ⇒新潟駅最寄り駅⇒本宅の区間だけでしたし…

なお、旅行記本編は、MISIAの新潟 2 daysのことから始めます。

旅行記本編:2024/02/27 泊まりがけは17年ぶりの新潟遠征 #M

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良弁僧正1250年御遠忌慶賛遠征記 ふりかえり

2023-11-01 17:40:13 | 旅行記

ようやくきのう、10月7~9日の2泊3日で決行した「良弁僧正1250年御遠忌慶賛遠征」遠征記完結しまして、ほっと一息ついているところです。

3週間強の期間に、全17本もの記事になってしまいましたので、初めての趣向として、この遠征記の目次を作ってみることにしました。
普通、目次は、本編の前にあるものですが、このブログの場合、行き当たりばったりで書いていますので、そもそも、最初に目次を載せるのは無理なのです
そこで、「索引」代わりに、全17本へのリンクと、それぞれの主な内容というか、観光先を並べておこうと思います。

   

【ダイジェスト】
 良弁僧正1250年御遠忌慶賛遠征記 ダイジェスト

【初日編】
 良弁僧正1250年御遠忌慶賛遠征記 #1
  準備、移動
 良弁僧正1250年御遠忌慶賛遠征記 #2
  東大寺大仏殿(ライヴ会場)

【MISIA編】
 良弁僧正1250年御遠忌慶賛遠征記 #M-1
  セットリスト、ゲストの皆さん
 良弁僧正1250年御遠忌慶賛遠征記 #M-2
  ライヴでのMISIA
 良弁僧正1250年御遠忌慶賛遠征記 #M-3
  ライヴでのあれこれ、落ち穂拾い

【2日目編】
 良弁僧正1250年御遠忌慶賛遠征記 #2-1
  今辻子町、油阪町、東大寺大仏殿
 良弁僧正1250年御遠忌慶賛遠征記 #2-2
  東大寺二月堂、同法華堂(三月堂)
 良弁僧正1250年御遠忌慶賛遠征記 #2-3
  手向山八幡宮、東大寺鐘楼、同俊乗堂
 良弁僧正1250年御遠忌慶賛遠征記 #2-4
  東大寺大仏殿の周り、同戒壇堂
 良弁僧正1250年御遠忌慶賛遠征記 #2-5
  興福寺、グッズ買い
 良弁僧正1250年御遠忌慶賛遠征記 #2-6
  東大寺ミュージアム、「MISIAのおことば」

【最終日編】
 良弁僧正1250年御遠忌慶賛遠征記 #3-1
  大神神社
 良弁僧正1250年御遠忌慶賛遠征記 #3-2
  大神神社、大和郡山市
 良弁僧正1250年御遠忌慶賛遠征記 #3-3
  郡山城追手門
 良弁僧正1250年御遠忌慶賛遠征記 #3-4
  郡山城二の丸 (旧奈良県立図書館、石仏・石塔)
 良弁僧正1250年御遠忌慶賛遠征記 #3-5 [完結編]
  郡山城天守台、柳澤神社

   

こんな「目次」が何の役に立つのか見当がつきませんが、まぁ、トライアルということで…

手抜き記事で失礼いたしました

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良弁僧正1250年御遠忌慶賛遠征記 #3-5 [完結編]

2023-10-31 15:05:28 | 旅行記

「良弁僧正1250年御遠忌慶賛遠征記 #3-4」のつづきは、ようやく完結編です。

さっき見た説明板では「本丸には南側の竹林橋跡の土橋から入るが」とありましたが、一昨年3月に150年ぶりに復活したという「本丸への正規ルート」たる極楽橋を渡って本丸に足を踏み入れました。

極楽橋の上から南側を見ると、

空濠があって、奥は石垣で濠が塞がれています。
柳沢文庫前で見た「郡山城絵図の世界」によれば、本丸の周りは「の」の鏡文字のような形に内濠で囲まれていて、この部分にも水が溜められていたようにも見えます。

反対側(北)は、「#3-3」で書いた「鬼門消し」の辺りには水が溜まっていましたものねぇ。が降り続ければ普通の濠になったのかも…

本丸曲輪に入ってまず目に止まったのは神社でした。

この神社は、その名も「柳澤神社」で、御祭神は柳澤家として初代郡山藩主となった柳澤吉里公ではなく、その父・柳沢吉保公。

由緒書きによると、

享保9年(吉保の)御子柳澤吉里公が国替で甲府から転じ15万石をもって郡山城に入城。以来6代140年余、明治維新まで郡山の礎を築き繁栄へ導いた。
明治13年、ご功績を称えると共に、大和郡山の繁栄と安寧幸福を祈願し創建される。

だそうで、明治に入ってから創建された比較的新しい神社でした。
実は、大和郡山の名産品の金魚は、柳澤のお殿様あってのものらしい。
観光協会のサイトから引用しますと、

大和郡山市における金魚養殖の由来は、享保9年(1724年)に柳澤吉里候が甲斐の国(山梨県)から大和郡山へ入部のときに始まると伝えられています。
幕末の頃になると、藩士の副業として、明治維新後は、職禄を失った藩士や農家の副業として盛んに行われるようになりました。もっともこれには最後の大和郡山藩主柳澤保申候のおしみない援助があったことが大きいと言われています。

だそうで、それは神社を建てて祀りたくなるのも理解できます
「祀りたくなる」といえば、遠征から帰って、撮った写真を見ていて気づいたのですが、本丸の東、二の丸から更に濠の向こう側(西の丸)にある麒麟曲輪には、5代将軍徳川綱吉の御霊屋があったらしい

そりゃ、一藩士の子息として生まれた柳澤吉保大名にまでなれたのは、徳川綱吉の「思し召し」あってのことですからねぇ
旧領主その他が江戸幕府へのおべんちゃら(?)として建てた東照宮が日本各地にあるものですが(東大寺にさえあった)東照大権現さておいて、大恩ある徳川綱吉公を弔い続けたとは、義理堅い柳澤家です

   

さて、本丸の天守台です。

説明によれば、

(天守台の)石垣の解体修理に先立ち発掘調査を実施した。その結果、礎石列や金箔瓦が出土し、豊臣政権期1階が7×8間規模の天守が建っていたことが判明した。また、付櫓台地階を伴う築城時の入口を確認した。織豊期城郭の天守の地下構造の様相が判明しているものは少なく、貴重な成果となった。

だそうで、現在天守台にのぼる石段は、明治時代につくられたものなんだとか。

天候がイマイチながらも、天守台からの眺めはなかなかでした。
比較的、東側の眺めがイイ

んん? あれは薬師寺

案内板には、

郡山城西ノ京丘陵の南端部に築かれている。この天守台の標高は81m、城下町地帯の標高は53m、比高は28mであるが、四周に比較的眺望がきく立地をとっている。なかでも東方への展望が開け、大和東山の連山が一望できる。平城京跡はもちろんのこと、南都の諸寺奈良町天理~桜井の龍王山三輪山も望める。さらに南方に目を転じれば、大和三山も視野に入る。

とありましたが、見えたのは、説明板では「南都の諸寺」とひとくくりにされている薬師寺と、ゴミ処理場の煙突ゴルフ練習場邪魔されながらも、なんとか東大寺大仏殿くらいのもの

遠くが霞んでいたことと、周りの木が高いからなんだろな

7日と8日の夜は、ここから東大寺大仏殿どんな風に見えたんだろ? 音は聞こえたのかな? などと考えましたが、天守台に上がれるのは、今月は 7:00-17:00です

ということで天守台から降り、「#3-3」で書いた「さかさ地蔵」の説明板だけ見ました。「さかさ地蔵」前は、団体の観光客が群れていて、説明板の写真だけでいいや となった次第です。
石垣の裏込石にされたお地蔵さんを拝見するのは不憫でしたし…。

   

帰りは「竹林橋跡の土橋」を通って退城しました。

本丸から竹林橋を渡った突き当たりは、「二の丸屋形」と呼ばれたエリアで、

藩主の居館や藩の役所などが立ち並ぶ、郡山城の中心だったところです。
明治6年の廃城令以降、明治14年には学校施設が建てられ、現在は奈良県立郡山高校校舎になっています。

だとか。

以前、私は、お殿様天守の中で暮らしているものだと思い込んでいたものでした。
でも、天守狭い上に階段だらけ(しかも急な階段が多い)ですから、住むにはかなり不便。実際は、本丸二の丸御殿を建てて、普段はこちらで暮らしていたようです。

それで思い出すのは熊本藩(細川氏)です。熊本城はあんな名城なのに、立派本丸御殿があるのに、「不便だから」と、わざわざ外堀代わりの川の外にある花畑(はなばた)屋敷で暮らしていたんでしたっけ…
きっと、熊本城を築城した加藤清正公は、草葉の陰歯ぎしりしていたことでしょう

   

それはさておき、本丸から出た時点で、時刻は13:40でした。

私が乗る予定の電車は、近鉄奈良駅発 14:50ですから、それまで1時間とちょっとしかありません。
この日の朝、

ルートの途中にあるので、時間に余裕があったら… です。

と考えていた唐招提寺断念して、またの機会にということにしました。

そして、大和郡山駅から大和西大寺駅まで行き、乗り換えの待ち時間に、ホームから安倍前首相が襲撃された現場に心で黙礼し、

やってきた電車に乗って近鉄奈良駅に戻りました。

駅近くで「お茶して時間を調整し、そこからは予定どおり京都東海道新幹線に乗り換えて帰路につきました。

さすが3連休最終日の夕方だけあって、新幹線の指定席はほぼ満席の状態で、前日の朝に指定席を確保しておいて良かったと思ったのでした。

改めてこの遠征を振り返ると、天候にはちょっと恵まれなかったものの、「MISIA PEACEFUL PARK Dialogue for Inclusion 2023」2 days最高 だったし、東大寺ではめったにお目にかかれない秘仏にお会いできたし、その他の観光も充実していたし、良き旅となりました。

めでたしめでたし…。

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良弁僧正1250年御遠忌慶賛遠征記 #3-4

2023-10-30 18:35:04 | 旅行記

「良弁僧正1250年御遠忌慶賛遠征記 #3-3」のつづきです。

郡山城追手門裏手二の丸の一段高い場所に立っていたこの建物、

これは、旧奈良県立図書館の建物だそうで、説明板によれば、

この建物は、明治41年(1908)、日露戦争の戦勝を記念して奈良公園内(現在の県庁の南側に建てられた奈良県最初の県立図書館です。建設当初は奈良県立戦捷記念図書館と称し、本館は南向きに建てられ(現在は西向き)背後に煉瓦造りの書庫や木造の附属屋が接続していました。昭和43年(1968)本館のみがここ郡山城内に移築され、以降、市民会館や教育施設として利用されてきました。

だとか。
「奈良公園内(現在の県庁の南側)」というのは、興福寺の敷地北東角なのかな
でもこの場所で「南向きに建てられ」というのはあまりに不自然だな…

奈良県庁付近の地図

もしかして、登大路の北側に、奈良県庁と登大路に挟まれる感じで建っていたのかもしれません
ネットで情報を探したところ、旧奈良県庁舎(1895年竣工)は現庁舎(1965年竣工)の東側、つまり、現在のバスターミナルの辺りに立っていたわけで、旧奈良県立図書館は、上のGoogleマップで「EV充電スタンド」とある辺りに、登大路に面して、県庁と並んで立っていたものと推察されます。
奈良県のサイトから旧県庁舎の写真を拝借しましょ

この建物と旧奈良県立図書館が並んでいる光景(1908~1965)を想像すると、なんだかワクワクする私です。

旧奈良県立図書館の設計者は、奈良県技師の橋本卯兵衛という方だそうで、この窓のデザインとか、ナカナカです。私、唐破風は嫌いですけど…

この左右対称で正面に唐破風の車寄せを持つデザインは、奈良国立博物館(奈良博)裏手春日大社の参道(三条通り)を向いて(南向き)建っているこちらの建物と似た雰囲気を漂わせています。

こちらの建物は奈良博の仏教美術資料研究センターこの記事で書いたように、1902年に、建築史家・関野貞の設計により、奈良県物産陳列所として建てられたもの。
時期的にも場所的にも近い

ちょっと整理すると、

1895年 旧奈良県庁
1902年 旧奈良県物産陳列所
1908年 旧奈良県立図書館

と、明治末期の奈良公園周辺には、和風テイスト溢れる公共建築物が相次いで建てられたことになります。
ここで気になるのは、旧奈良県庁に先立って1894年に竣工したこちらの建物です。

国宝迎賓館赤坂離宮(訪問記)を手がけた宮廷建築家にして、奈良・京都・東京の国立博物館の設計をコンプリートした片山東熊による奈良国立博物館(ぶつぞう館)です。

片山内匠頭(ホントの役職)は、「これからは本格的洋風建築の時代じゃと意気込んでいたはずなのに、周辺にあとから建てられる建物は前記の3件のみならず、東京駅丸の内駅舎を設計した辰野金吾さえも、見かけは和風奈良ホテル(1909年竣工、片岡安との共同設計)を作ってしまうしで、振り向いたら誰もいない」状態
もっとも、そんなこと奈良市民からの不評なんぞ気にしないのが建築家の建築家たる所以(私見です)なわけで、片山内匠頭は次々と洋風建築を設計し続けたのでありました。

ずいぶんと脇道にそれましたが、旧奈良県立図書館は、土日祝日のみ、それも1階ホールだけ、見学できるようでしたが、私はパスして、郡山城本丸を目指しました。

   

本丸に向かって歩いて行くと、石仏石塔集中して立つ場所がありました。
そんな中に、「両面石仏」という説明板のある石仏がありまして、その両面を1枚の写真にしますとこんな具合。

昭和48年(1973)、郡山城本丸石垣より出土した。
奈良などの寺院から、石垣の転用材としてここに運ばれたものであろう。舟形の石材(花崗岩)の両面に、浮き彫り(薄肉彫り)で像容を表す。上端部が欠損しており、現状で高さ65cmを測る。片面は中央に大きく十王の一人(泰山府君)の坐像が彫られ、向かって左側に金棒を持つ鬼、右に従者が配置されている。
また、もう一面には蓮台に地蔵立像を浮き彫り(半肉彫り)とし、その左右に十王を薄肉彫りで配置している。地蔵は右手に錫杖、左掌に宝珠を持つ通形で、首から上を欠損する。亡者は泰山府君の前で生前の罪を暴かれるが、一方で地蔵菩薩によって地獄の責め苦から救われる
つまりこの両面石仏においては、堕地獄の恐怖とそこからの救済が表現されている鎌倉後期の製作と思われ、民衆に対し、罪の怖さと信仰の尊さを説くために使われたものだろう。全国的にあまり例を見ない、非常に貴重な作例である。

仕事とはいえ、こうした石仏を石垣に積む作業に携わった人たちどんな気持ちだったでしょうか
おそらく、仕事を終えると、徴用されなかったお地蔵さんお詫びをして、自分が地獄に堕ちないようにと必死お祈りをしてたのだろうな…

こんな感傷は、私だけではないようで、石塔にも示されているようでした。

普通の五輪塔に見える一番大きな石塔は「寄せ集め塔」なんですって (他の石塔もそうかもしれない)

柳沢文庫の脇に立てられていた石塔。あたかもオリジナルを保った石塔のように見えるが、実は複数の異なる時代の石塔の部材を組み合わせた「寄せ集め塔」である。
具体的には、下から、
 ①宝篋印塔屋根(傘)の段形 (鎌倉後期)
 ②五輪塔の反花座 [かえりはなざ]
  (鎌倉後期~南北朝期/天地逆)
 ③小型五輪塔の反花座 (室町後期)
 ④五輪塔水輪 (室町期/天地逆)
 ⑤五輪塔火輪 (室町期)
 ⑥五輪塔空風輪 (室町期) となる。
石材はいずれも花崗岩で、総高は約 1.2m(六尺)を測る。郡山城の石垣を築く際に搬入された石材を柳澤侯爵別邸(現在の柳沢文庫建物)が新築された明治39年(1906)以降地元郡山の石工が六尺塔として再構成したものだと思われる。

だそうです。
明治の石工さんたちは、石工の大先輩たちの作品がこんな「ただの石」扱いされたことにいたたまれなくなったんだろうな…

説明板に出てきた「柳澤侯爵別邸(現在の柳沢文庫建物)」のエントランスがこちら。

むくりのついた屋根の大きな車寄せが印象的ですが、私は内部の観覧はパスして、玄関前の掲示ケース内に貼られていた「郡山城絵図の世界」をパシャリ

この絵図は、江戸時代の郡山城の姿を偲ぶ資料になりそうです

さぁて、復興(復元?)された極楽橋を渡って、いよいよ本丸

なんですが、「#3-5」につづきます。
どこまで続くんだ

つづき:2023/10/31 良弁僧正1250年御遠忌慶賛遠征記 #3-5 [完結編]

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良弁僧正1250年御遠忌慶賛遠征記 #3-3

2023-10-28 17:23:53 | 旅行記

「良弁僧正1250年御遠忌慶賛遠征記 #3-2」のつづきです。

郡山城は、近鉄郡山駅から歩いて10分もかからない場所にあります。

柳御門跡を通り抜け、

三の丸緑地にあった案内図を見て、見物のルートを検討しました。

そして、正々堂々(?) 追手門から入って、天守台を目指すことにしました。
しっかりと整備されたお城もキレイですが、こんな「いかにも城跡」っぽい眺めも良いものです

郡山城趾

追手門前に到着しました。

おぉ、立派櫓門です

「柳沢文庫」と染め抜かれた幟をちょっと気にしながらも、追手門前にある文字数たっぷり「郡山城ならびに追手門(梅林門)の由来」を読みました。

これによると、現在の追手門は、昭和後期に、

近時郡山城復興の声が高まり、第一次として市民の手による追手門が秀長築城にふさわしい姿で復元された。

だとか。なるほど…

で、郡山城の歴史をこの説明板から略記すると、

1580年、松永久秀を破った筒井順慶築城に着手
1585年、大和・和泉・紀伊3ヶ国の太守(100万石)として入城した豊臣秀長本格的に築城
1600年の関ヶ原の戦いの後に郡山城を接収した徳川方は、この城を取り壊し建物のすべてを伏見城に移築
1615年、大坂の陣後、水野勝成が郡山に転封(6万石)され、城の再興に着手
1618年、徳川家康の外孫(母が家康&築山殿の長女・亀姫)の松平忠明が転封(12万石)され、家康の口利きで、追手門(当時は「一庵丸門」と呼ばれた)を始めとする諸門を伏見城から再び郡山城に移築
その後、本多氏(忠勝の次男忠朝系)⇒松平信之本多氏(忠勝の長男忠政系)と藩主が引き継がれる
1724年、柳澤吉里が甲府から転封(15万石余)
柳澤吉里⇒信鴻⇒保光⇒保泰⇒保興⇒保申と代替わりの後、明治維新で廃城

ということらしい。
そっかぁ、柳沢吉保の系統が江戸時代の後半ずっと郡山藩主(城主)だったのか… と、「柳沢文庫」の幟が理解できました
徳川綱吉側用人として権勢を誇った柳沢吉保でしたが、綱吉逝去後もしっかりと血筋を繋いで明治維新まで大名家であり続けていたとは知りませんでした。
失脚後の田沼意次一族とはぜんぜん違う…

ところで、江戸時代前半のかなりの期間、郡山藩主を務めた本多家、その系図を調べたら、大名家にありがちな養嗣子がボコボコあって複雑怪奇
ついには、系図を手書きして整理してしまいました

   

さて、追手門(旧称:一庵丸門梅林門)をしげしげと眺めました

この追手門「秀長築城にふさわしい姿で復元された」そうで、軒の「五三桐」紋金色に輝いています。

ん?
豊臣家の紋は「五七桐」じゃなかったか?
豊臣秀頼が寄進したという蓮華王院(三十三間堂)「太閤塀」軒丸瓦「五七桐」です。

ま、細かいことは置いといて\(^^\)  追手門をくぐりました。

そして、天守台の見える内濠沿いにあった説明板を見ると、

方角を確かめると、、、、おお、本丸のこの凹み(土砂がたまってますけど)、私の大好物丑寅(北東)鬼門消しではありませんか

この写真は私の「丑寅コレクション」入りが決定です

この説明板から「本丸」の部分を転記します。

本丸全体は南北150m、東西70mで、北端の天守台がある一角がすこし西側にずれて接続する形をなる。本丸の周囲は高さ10~14mの高石垣と幅10~30mの内堀に囲まれている
本丸内には月見櫓、白沢門、竹林門、坤櫓、厩向櫓などの建物が建ち、それぞれが多聞櫓で連結されている、天守台の周囲は堀で囲まれていた。
内堀には二つの橋が架けられていた。東側の毘沙門郭から極楽橋を経て正規のルートであり、極楽橋は表門として位置づけられていた。現在、本丸には南側の竹林橋跡の土橋から入るが、竹林橋は本来は裏門の扱いであった。

説明板には、つづいて石垣に関する記述があって、その中にこんな興味深いことが書かれていました。

正面に見える本丸東麺の石垣の最下部に四角い石材がいくつも並んでいる状況がみてとれる。南北幅20m、高さ2mの範囲に約60石が積まれている。すべて墓石、地蔵などの転用石材である。郡山城の石垣には転用石材が数多く使われているのが特徴であるが、ここは城内で最も集中する場所であり、また、全国的に見てもこれほど集中的に積まれている事例はない。初期の城づくりのすさまじさがうかがわれる。

この辺りですな。

天守台の石垣には、「さかさ地蔵」と呼ばれる、お地蔵さんのお姿そのままに、逆さまに石垣の中に積み込まれている場所があります。

団体らしき観光客が群れていて、私はじかに見るのは諦めました
本丸石垣の転用石材筒井順慶によるものか豊臣秀長によるものか不明ですが、天守台のこれは豊臣秀長の時代の「所業」らしい。

これらの天守台や郡山城の石垣に積み込まれた石仏、墓石並びに城史有縁の諸霊を慰めるため、毎年お城まつりの初日に数珠くり法要が営まれます。

だそうですが、こんなことをするから、筒井家豊臣家悲しい末路を辿ったのではないかと思ったりして…

ここで振り向くと、天守台とは反対側の二の丸エリア興味深い建物が見えました。

せっかくですから、近くから見物することにしました。

このまま書き続けると、記事が長くなってしまいますので、ここで一旦切って「#3-4」につづきます。

つづき:2023/10/30 良弁僧正1250年御遠忌慶賛遠征記 #3-4

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