間延びしつつある沖縄旅行記、「沖縄旅行最終日は降ったり止んだり(その3)」のつづきです。
おなじみの「蛍の光」(「ホタルノヒカリ」ではない
)、もっぱら1番だけ歌われていますが、4番まであるのだそうで、沖縄県平和祈念資料館では、1881(明治14)年発行の「小学唱歌」と、1906(明治39)年発行の「教育唱歌集」にそれぞれ載せられた「蛍の光」の歌詞が比較展示されていました。
1881(明治14)年版が、
千島のおくも沖縄も、
やしまのうちのまもりなり。
いたらん國にいさをしく、
つとめよ、わが背、恙(つつが)なく。
そして、1906(明治39)年版は、
臺湾(たいわん)の果(はて)も樺太も、
やしまのうちのまもりなり。
いたらん國にいさをしく、
つとめよ、わが背、恙(つつが)なく。
資料館の説明によれば、
1881年発表の歌詞は、1979(明治12)年の琉球処分(沖縄県設置)と1875(明治8)年の「樺太千島交換条約」の締結を反映している。1906年の方は、1895(明治28)年の下関条約で台湾が、1905(明治38)年のポーツマス条約で北緯50度以南の樺太が日本領になったことをうたっている。
のだそうです。
私、寡聞にして「蛍の光」に4番まで歌詞があることをこの時まで知りませんでした。っつうか、何番まであろうが関係ない、という感じ
ところが、改めて「蛍の光」の歌詞を読むと(Wikipediaの記事をご参照方)、てっきり「別れを惜しみつつ門出の決意を詠う」歌かと思っていたら、その実、かなり「教育的な歌」だったことが判ります。
勉強になりました。
さて、沖縄県平和祈念資料館の常設展示は、明治初年の「琉球処分」から1945(昭和20)年4月の米軍上陸までの「沖縄戦への道」、米軍上陸から日本陸軍沖縄守備隊が首里を撤退するまでの「鉄の暴風」、沖縄戦終結までの「地獄の戦場」、戦争体験者の「証言」、そして現在に至る「太平洋の要石」に分かれています。
琉球王国の時代(薩摩侵入後)から、明治維新後には「沖縄県」として日本に組み入れられ、太平洋戦争では民間人を巻き込んだ地上戦が繰り広げられ、終戦後は27年間にわたってアメリカ(軍)の統治下に置かれ、「本土復帰」後も広大な米軍基地が広がっている、こんな沖縄の歴史と現状を見るにつけ、キーボードを叩くスピードが落ちてしまいます。
いろいろと考え込んでしまったきっかけになったのは、「復帰運動」の展示を見たときでした。
沖縄の人たちにとって「復帰」したい先はどこだったのだろうか、明治維新以降、日本に組み入れられたことが沖縄の人たちにとって最良の道筋だったのだろうかと…。
もちろん、19世紀後半の東アジア激動の時代から帝国主義の時代にかけて、沖縄が「琉球王国」として独立を保っていられたとは到底考えられません。
「琉球王国」の体裁を取り繕うことができたとしても、日本か清か欧米諸国の後ろ盾が必要だったことは必至だったと思います。それは、李氏朝鮮~大韓帝国の歴史を見ても明らかでしょう。
また、沖縄の地理的(地政学的)な位置を考えても「完全中立」はあり得ない道筋だったと思います。
それでも、こんな私の考えや想像は、沖縄の人たちからすれば所詮「よそもんのたわごと」でしかないのだろうと思います。
そして、「復帰運動」にしても、日本の戻りたいという気持ち以上に、日本よりさらに「よそもん」のアメリカ(軍)の統治下から外れたいという気持ちが強かったのではないかと思うのです。
沖縄旅行2日半の見聞を通じて、こんな思いを抱いた私は沖縄県平和祈念資料館を出て駐車場に戻り、次の目的地へと出発したのでありました。
と、、、平和祈念公園で撮った写真を紹介するタイミングを逸してしまった
そんなわけで、まずは立派な亀甲墓
そして、式典広場。
今度の土曜日(6月23日)、この式典広場で「沖縄全戦没者追悼式」が行われます。
つづき:2012/06/18 沖縄旅行最終日は降ったり止んだり(その5)