「中学生のとき以来の羽黒山、初めての加茂水族館 #2」のつづきです。
もう一度、羽黒山五重塔を眺めた
あと、出羽三山神社の本殿(三神合祭殿)を目指して石段を登り始めました。
時刻は、写真のタイムスタンプによれば、12:11
「#2」で書いたように、
中学2年の遠足のとき、この五重塔を観たこととか、三神合祭殿にお参りしたことは覚えているんだけど、石段を登った記憶はない
だった私としては、ちょいと登れば本殿に着くだろう と軽い気持ち
で登り始めたのですが、、、これがキツかった
そもそも、石段の段差が適正と思われる高さの2/3くらいのもので、一段一段登るのは細かすぎるし、かと言って1段飛ばしで登る
のはキツい
というなんとも中途半端
なもの。
それでいて、ところどころ、石段が目の前に壁のように連なっているのですよ
日頃運動不足の私には苦行としか言いようのない「山登り」です。
約1年前に広島・宮島の弥山に登って以来(記事はこちら)の「苦行」でしたが、弥山のときは、頂上までのおおよその所要時間
を知っていたし、「まだ上がある」ことが見て判りました。
でも、今回は、随神門前にあった案内図(所要時間が50~60分)をしっかりと読まなかったし、中学2年の遠足のときは「苦行」を体験した記憶が無いし、見通しが利かないし、という状況。
次のカーブを曲がれば本殿があるかもしれない という期待を抱いては、目の前に現れる新たな急な石段に愕然
とすることの繰り返し
でした。
考えてみれば、出羽三山は修験道の山、この石段を登るのも修行だったわけで…
しかも、この時の私の場合、ゴールがどこにあるか判らないまま、ひたすら石段を登りつづけた
のですから、これは肉体的にも精神的にも厳しかった…
日本の山登りの「風習」として、上りの人と下り
の人がすれ違うとき、「こんにちは
」と挨拶を交わします。
このときも、ヒーヒー言いながら石段を登る
私に、下ってくる
人たちが「こんにちは~」と軽く声をかけてくれるのですが、こちらは「ごんにぢは
」と搾り出すように挨拶を返しました。
そのたびに、「下りは楽
だろうけれど、こちらは大変
で、挨拶するのも辛い
んだよ」と毒づきたい気分でございました。
それはともかく、途中に「茶屋」があって、木々の間から庄内平野が見えました。
上に載せた写真は、下り
のときに撮ったもので、上り
のときは写真を撮る余裕さえありませんでした。
とにかくこのときは、随神門から五重塔に向かって継子坂を下ったときのような「マイナスイオンを浴びて…」なんて悠長なことは言っていられなくなっていて、ひたすら登り続けていました。
そして、ふと思いついてスマホでGoogle Mapを開いて「現在地」を見ると、まだ2/3しか登っていないことがわかって、またまた呆然
いまさらここから引き返すわけにもいかず、ゴールを目指して登り続けました。
そして、
赤い鳥居
ついに本殿に到着か?
ホントに到着しましたぁ~~
時刻は13:02
ということは、約50分かけて登り切りました
はぁ~~~、疲れたぁ~~
さっそく、月山神社、湯殿山神社、そして、出羽神社にお参り…。
神社だというのに麓に五重塔があったように、本殿(三神合祭殿)の前には鐘楼がありました。
元和3年(1617)台風で倒れたのを翌年山形藩主最上源五郎
家信が再建する。
だそうで、中の梵鐘(重文)は、
建治元年(1275)年8月27日の刻銘・高さ2.85m・口径1.67m
厚さ21.5cm・重さ10t足らず(口伝)
社伝では、文永11年(1274)10月の蒙古襲来の折、幕府より所望され祈願したところ、鏡池より九頭竜王の光影が出て酒田の湊に飛行した。すると蒙古の船は残らず海中に没したという。これにより鐘を寄附されたと云う。
と、かなり歴史といわくのある梵鐘らしいですな。
上に載せた説明文に出てくる鏡池は、本殿(三神合祭殿)の目の前にあります。
鏡池(御手洗池)前に建てられた「羽黒山鏡池玉垣奉献建立之碑」と題する、とにかく字数の多い石碑によれば、
海抜414mの羽黒山は 出羽三山を行場とする羽黒派古修験道の中枢として古より繁栄した御山である 歴史書には 平安時代修験者が広く諸国を教導したことを伝え 鎌倉以降は山伏の代表的霊場と仰がれる大峰山や熊野山をも凌ぐ権威を誇るまでに隆盛したことが記載されている この御手洗池より出土しだ600面近い銅鏡はこれらを裏付けるものである
とな。
この出羽三山神社の鏡池(御手洗池)から出土した銅鏡は、東京国立博物館(トーハク)で拝見したことがあります
この銅鏡の見聞録はこちら。
どういう経緯で、羽黒山から出土した銅鏡がトーハクに渡ったんでしょうねぇ
と考え込んだところで今夜はおしまいです。
つづき:2020/01/07 中学生のとき以来の羽黒山、初めての加茂水族館 #4