あらゆる別離に先んじよ、別離がちょうど今
過ぎてゆく冬に似て、君の背後にあるかのように。
いくたの冬、その一つこそ、限りない冬であり、
その冬を凌ぐなら、君の心は総じて耐え忍ぶ力を得よう。
つねにオイリュディーケのなかに死してあれ――、さらに歌いつつくだりゆけ。
さらに賛めつつ純粋の聯間(れんかん)のうちにもどりゆけ。
ここ、地上の消えゆく者らの間、傾きの国のなかで、
ひびきとともに身を打ち砕く、鳴りひびくグラスとなれ。
在れよ、――そして同時に非在の条件を知れ、
君の心の切々たる振動の限りない根拠を知れ、
この一度しかない存在に、あますなく振動をとげんがため。
充溢した自然の、用いられた貯えにも、鈍く黙した
貯えにも、――それら言いしれぬ総計に
歓呼して君を加算せよ、そして数を絶すよ。
(生野幸吉訳)
すべての別離に先立って在れ、あたかもそれが
いま過ぎてゆく冬さながら、おまえの背後にあるかのように。
なぜなら もろもろの冬のうちのひとつこそ限りない冬、
その冬を凌ぎつつ おまえの心は総じて堪えとおすのだから。
つねにオイリュディケのうちに死んで在れ、いよいよ歌いつつ昇り、
いよいよ讃えつつ帰りゆけ、純粋な関連のなかへ。
ここ 消えゆく者たちのあいだ、傾きの国にあって、
響きつつすでに砕いた鳴りひびく玻璃で在れ。
在れ――そして同時に非在の条件を知れ、
おまえの心の切実な限りない根底をこそ、
このただ一度の生においてその振動を完全になしとげるため。
ゆたかな自然のすでに用いられた貯えと
鈍く無言な貯え、またその言い表わせぬ総計に、
歓呼しつつおまえ自身を数えいれ そして数を消し去れ。
(田口義弘訳)
いよいよ讃えつつ帰りゆけ、純粋な関連のなかへ。
後期のリルケにとって深い意味を担うものは「関連」だと思われます。リルケは「所有」の代わりに「関連」を学びとることに言及しているようです。「関連」とは、存在者同士が「利用」から開放されて、ただ本質的存在として照応しあい、さらに時間と空間からも自由な内的状況でしょう。これは「星座」に例えることもできようか?
こうして「純粋な関連」とは、死者たちの世界、あるいは眠りや夢の世界に似たものとなるのでしょうが、それは「オイリュディケ」の死にゆだねられている?
このソネットでは「在れ」という命令形が3度記されています。これは「非在」を認識しつつ「存在」する者のみが知る精神の振動の振り幅にも思えます。玻璃が砕けるような痛ましい振動の・・・。自然の豊かさのなかでは、人間は数値化される存在にはならないのですから。
* * *
ここまで読んできましたが、お2人の翻訳とさまざまな歴史的証言の正確さについては、頭が下がる思いです。このお2人の「注解」なしでは、これらのソネットを読むことはできなかったことでせう。いやいやまだまだ理解したとは言えないことでせう。しかししかし大変失礼ながら、ドイツ語を日本語の詩として置き換えることの困難さが見えてきます。翻訳された日本語が硬質すぎるのです。(←生意気で申し訳ありませぬ。)
「オルフォイス」も男性、詩人も男性、翻訳者も男性、読むわたくしは一応「女性←あんまりお利巧ではないわたくし・・・。」です。この距離がなかなか埋まりません。最後まで多分この気分を引きずってゆくのかもしれません。ああ~。
過ぎてゆく冬に似て、君の背後にあるかのように。
いくたの冬、その一つこそ、限りない冬であり、
その冬を凌ぐなら、君の心は総じて耐え忍ぶ力を得よう。
つねにオイリュディーケのなかに死してあれ――、さらに歌いつつくだりゆけ。
さらに賛めつつ純粋の聯間(れんかん)のうちにもどりゆけ。
ここ、地上の消えゆく者らの間、傾きの国のなかで、
ひびきとともに身を打ち砕く、鳴りひびくグラスとなれ。
在れよ、――そして同時に非在の条件を知れ、
君の心の切々たる振動の限りない根拠を知れ、
この一度しかない存在に、あますなく振動をとげんがため。
充溢した自然の、用いられた貯えにも、鈍く黙した
貯えにも、――それら言いしれぬ総計に
歓呼して君を加算せよ、そして数を絶すよ。
(生野幸吉訳)
すべての別離に先立って在れ、あたかもそれが
いま過ぎてゆく冬さながら、おまえの背後にあるかのように。
なぜなら もろもろの冬のうちのひとつこそ限りない冬、
その冬を凌ぎつつ おまえの心は総じて堪えとおすのだから。
つねにオイリュディケのうちに死んで在れ、いよいよ歌いつつ昇り、
いよいよ讃えつつ帰りゆけ、純粋な関連のなかへ。
ここ 消えゆく者たちのあいだ、傾きの国にあって、
響きつつすでに砕いた鳴りひびく玻璃で在れ。
在れ――そして同時に非在の条件を知れ、
おまえの心の切実な限りない根底をこそ、
このただ一度の生においてその振動を完全になしとげるため。
ゆたかな自然のすでに用いられた貯えと
鈍く無言な貯え、またその言い表わせぬ総計に、
歓呼しつつおまえ自身を数えいれ そして数を消し去れ。
(田口義弘訳)
いよいよ讃えつつ帰りゆけ、純粋な関連のなかへ。
後期のリルケにとって深い意味を担うものは「関連」だと思われます。リルケは「所有」の代わりに「関連」を学びとることに言及しているようです。「関連」とは、存在者同士が「利用」から開放されて、ただ本質的存在として照応しあい、さらに時間と空間からも自由な内的状況でしょう。これは「星座」に例えることもできようか?
こうして「純粋な関連」とは、死者たちの世界、あるいは眠りや夢の世界に似たものとなるのでしょうが、それは「オイリュディケ」の死にゆだねられている?
このソネットでは「在れ」という命令形が3度記されています。これは「非在」を認識しつつ「存在」する者のみが知る精神の振動の振り幅にも思えます。玻璃が砕けるような痛ましい振動の・・・。自然の豊かさのなかでは、人間は数値化される存在にはならないのですから。
* * *
ここまで読んできましたが、お2人の翻訳とさまざまな歴史的証言の正確さについては、頭が下がる思いです。このお2人の「注解」なしでは、これらのソネットを読むことはできなかったことでせう。いやいやまだまだ理解したとは言えないことでせう。しかししかし大変失礼ながら、ドイツ語を日本語の詩として置き換えることの困難さが見えてきます。翻訳された日本語が硬質すぎるのです。(←生意気で申し訳ありませぬ。)
「オルフォイス」も男性、詩人も男性、翻訳者も男性、読むわたくしは一応「女性←あんまりお利巧ではないわたくし・・・。」です。この距離がなかなか埋まりません。最後まで多分この気分を引きずってゆくのかもしれません。ああ~。