ふくろう日記・別室

日々の備忘録です。

孤独の発明(The Invention of Solitude.)  Paul Auster

2011-01-27 15:13:05 | Book


翻訳:柴田元幸


1947年、ポール・オースターはニュージャージー州で、中流階級のポーランド系ユダヤ人の両親の元で生まれる。
1970年に コロンビア大学大学院修了後、石油タンカーの乗組員としてメキシコに移る。
その後フランスに移住したが、1974年にアメリカに戻る。
帰国後、大学時代から交際していた女性と結婚する。


しかし、この小説は自伝ではないが、子供が幼い頃に離婚したことになっている。子供とも別れた。
これが「孤独」というキーワードに大きく関わっていることも避けがたい。
柴田元幸の「訳者あとがき」によれば、ポール・オースターの執筆世界が「狂気」だとすれば、
家族(2人目の妻と2人の子供。)が彼を「狂気」から「正気」にさせてくれる世界なのだと。


以下、引用部分は太字とします。


『不可分のモナド。それから、いまようやく思いあたったかのように、一個のひっそりとした微細な細胞のことを考えた。
 いまからおよそ3年前、彼の妻の肉体を這い上がってゆき、やがて彼の息子となった細胞のことを。』



1970年代には、ポール・オースターは詩人であった。またマラルメなどフランス詩人の翻訳もした。
1982年に出版された、この「孤独の発明」が作家としての第一作となる。


複雑な人間との関わりと、記憶の向こう側に起きた出来事との人間の繋がりなど、
そうしたものの積み重ねと繋がりのなかで人間は生まれて生きているのだろう。
その基盤にあるものは「孤独」なのだと思う。それを見据えることこそ生きていることなのだろう。
このオースターの小説の第一作が「孤独の発明」であるということは、ひどく象徴的に思えてならない。
さらに言えば、これらの言葉は置き変え不可能だと思えるほどに緊迫しているのだった。


『ポンジュ(フランシス・ポンジュ…フランスの詩人)にとっては、書く行為と見る行為のあいだに何の隔たりもないのだ。
(中略)だとすれば記憶というものも、我々のなかに包含された過去というより、むしろ現代における我々の生の証しになってくる。
(中略)そこに存在するためには、自分を忘れなくてはならないのだ。
 そしてまさにその忘却から、記憶の力が湧き上がる。それは何ひとつ失われぬよう自分の生を生きる道なのだ。』

『あるいはまた、ベケットがプルーストについて書いているように、「記憶力のよい人間は何も思い出しはしない。何も忘れていないからだ。」
 そしてまた、自覚的な記憶と無自覚な記憶とのあいだに区別を立てる必要がある。過去をめぐる長大な小説のなかでプルーストがしているように。』



この小説は「見えない人間の肖像」「記憶の書」との2部構成であり、
前者では、父親と父方の祖父母の暗い事件を、当時の新聞記事などを捜し出し、引用しつつ克明に描いている。
もちろんこれは自伝ではないが、「つらくはないのですか?」と問いたいくらいの克明な描き方でした。
そこには祖父母の暗い事件から、彼の父親の生き方に落とされた影が見えてきます。


後者の「記憶の書」では、「記憶の書。その1」から「12」までに分断されていて、
その連鎖によって、読者は書き手とともに「記憶」を彷徨うことになる。
「12」以降は「記憶の書の題辞候補」、「記憶の書。その日の晩。」、「記憶の書の結びの文章。」
……となっている、その全体のプロローグとエピローグは同じ文章で書かれています。

『何も書かれていない1枚の紙をテーブルの上に広げて、彼はこれらの言葉をペンで書く。
 それはあった。それは2度とないだろう。』


『何も書かれていない1枚の紙をテーブルの上に広げて、彼はこれらの言葉をペンで書く。
 それはあった。それは2度とないだろう。思い出せ。』
(←「思い出せ。」のみ追加されている。) (1980~1981)


このペンが書きはじめられる時がこわいのだね。
ポール・オースターという作家の感性の、異常なまでの熱心さ、あるいは濃密さ、引用される知識の豊かさに圧倒される。
いつもその覚悟で読まなければならない宿命が読者に課される。しかし難解ではない。丁寧過ぎるのかもしれぬ。
何も書かれていない紙。その周囲をつつむ孤独な空間。そこから生まれてきた膨大な言葉たちよ。


(平成8年発行…平成21年9刷…新潮文庫)