ふくろう日記・別室

日々の備忘録です。

思い出袋 鶴見俊輔 (その4=最終)

2011-02-18 23:22:41 | Book


この「思い出袋」は初出は「図書」。「1月1話」として2003年1月号~2009年12月号まで連載されたものに、
「書ききれなかったこと―結びにかえて」という「書きおろし」を加えて2010年に完結されたものです。
その間に鶴見俊輔は80歳から87歳になっています。貴重なものを頂いた思いがいたします。

鶴見俊輔の生い立ちと思想は、日米両国の文化のなかで生まれ、強靭な思想となって育てられ、
それは自由と孤独と郷愁(日米双方への。)に満ちたものと思われます。

この「書ききれなかったこと―結びにかえて」の最後の文章は、忘れることはないでしょう。
以下、引用します。これは鶴見俊輔の言葉ではなく、彼が選びとった言葉です。


『ところが歴史のない国、正確には先住民の歴史の抹殺の上につくられた開拓民の国アメリカでは、
 「金儲けの楽しさ」は妨げるものをもたずに展開してゆくことになる。
 トクヴィル的に述べれば、自分の富の増大と地位の向上をめざすことが人間の使命だというような精神が
 社会を覆っていったのである。そしてそのアメリカが世界の経済、政治、軍事の中心に座ったとき、
 伝統的なものと奥の方で結ばれているそれぞれの社会の抵抗する精神は、その力を弱体化させていった。』

  (内山節・「図書」2009年6月号より。)

フランクリン・ローズヴェルトは米国を安定させるために日米戦争を必要とした。
オバマ大統領は、自分の国で歯止めをかけられるか?……というのが、鶴見俊輔の大きな疑問。
彼が参画していた「べ平連」は非暴力の運動であり、ヴェトコンに対する共感がある。
1945年9月2日、ホーチミンがヴェトナム独立宣言のなかに、アメリカ独立宣言を引用したことと併せて考えると、
ヴェトナム戦争はアメリカがアメリカと戦って敗れた戦争であったと、アメリカ国民が理解するのはいつか?
……ということが鶴見俊輔の結びの言葉です。 

 (2010年第3刷 岩波新書)

シュルレアリスム展―パリ・ポンピドゥセンター所蔵作品による―

2011-02-18 14:59:15 | Art
17日午後、国立新美術館にて観てまいりました。
この傾向の絵画は、美術の歴史を読むためには大きな存在なのでせうが、170点の作品を観るのは神経が疲労困憊でした。



展覧会場入口で、まず驚いたことは、解説のはじめに「シュルレアリスム」は「男性名詞」だと書いてあったこと。
1924年「いとしい想像力よ、」と、シュルレアリスム宣言をしたのは、当時28歳の詩人のアンドレ・ブルトンだった。
これが20世紀最大の芸術運動の口火を切ったということになっています。


 《アンドレ・ブルトン 1935年・マン・レイ ゼラチン・シルバー・プリント》

これらの絵画については、疲れるから書きません。
その代わり、と言ってはなんですが、これは遊べるものでもあります。
上のマグリットの絵に向かって左側の顔を切りぬいて、右側にはめ込んだらどうなるのか?
帰宅してから、切り張り遊びをしました。疲れた神経に効きますよ(^^)。

そのためには絵葉書が2枚必要だなぁと思いましたが、ミュージアム・ショップでは上のパンフレットが山積み。
これを数枚失敬しました(^^)。そうしますと、以下のように微妙にはめ込みができないことが判明しました。
マグリットはわたくしの期待を裏切りました。


 《これはめ込み失敗作です。》


作品展示展開は5つにわかれていました。ほぼ時代順になっているようです。
1919年から1966年までの約50年の短い歴史です。わたくしが生まれる前から我が青春期までとなりませうか?

①ダダからシュルレアリスムへ(1919~1924)
②ある宣言からもうひとつの宣言まで(1924~1929)
③不穏な時代(1929~1939)
④亡命中のシュルレアリスム(1939~1946)←このあたり、第二次世界大戦。
⑤最後のきらめき(1946~1966) 

シュルレアリスムは、画家や詩人にとどまらず、文化全域に影響を与えています。
広告、映画、本の装丁などなど、今でもこの影響は我々の生活の細部にまで残っているのでせう。

『シュルレアリスム。私にとってそれは、青春の絶頂のもっとも美しい夢を体現していた。 マルセル・デュシャン・1966年』


以下、少しだけ作品紹介します。


 《「ギョーム・アポリネールの予兆的肖像」 ジョルジョ・キリコ・1914年》


 《「シエスタ」 ジョアン・ミロ・1925年》


 《「部分的幻覚:ピアノに出現したレーニンの6つの幻影」 サルバドール・ダリ・1931年》

 *    *    *

 《おまけ》