ふくろう日記・別室

日々の備忘録です。

母への詫び状  藤原咲子

2016-08-15 21:50:01 | Book




読了に至るまで、私の中には微かな違和感が拭えませんでした。前記しましたが、1945年生まれの咲子さんと、1944年生まれの私は、ほぼ同じ時期に、満洲の新京から日本への引揚を果たしています。
咲子さんの二人の兄上は、私の二人の姉とほぼ同年です。大きな違いは私たち一家には父が共にいてくれたことでした。さらに、引揚は「正式」と「正式ではない」という2つの形態があったらしく、咲子さんご一家は後者で、我々一家は前者であったらしい。その上、私達一家は引揚が決まるまでは、命の危険はありましたが、新京から移動することはなかったのです。さらに、新京での父は中国人の公司に働くことすらできました。それでも大変な貧しさで、私も咲子さんと同じく栄養失調の赤ん坊で、どうやら歩くことができたのは、引揚後3歳を過ぎてからでした。母の実家にひとまず帰宅、翌日には母と私は、即入院、「あと数日帰国が遅れたら、この子は死んでいた。」とドクターがおっしゃったそうです。さらに上の姉は肋膜炎にかかり、下の姉は皮膚病に悩まされました。

咲子さんの母上の「藤原てい」さんの、ご主人様が同行できなかったがためのご苦労は「死」と隣り合わせです。二人の幼い男の子と、生後間もない女の子を連れての移動は、誰も死ななかったことが奇蹟だと言っても過言ではないでしょう。咲子さんの母上のご苦労は極限に達していたことでしょう。それを「流れる星は生きている」という小説として、今日まで読まれ続けられていることに、私は深い意味を思います。

それでも「流れる星は生きている」が、咲子さんの心に届くまでに、たくさんの母娘の葛藤と歳月が費やされているのですね。母娘とは近すぎて見えないものなのでしょうか?

赤子時代を栄養失調だった子供が、普通の子供の体力に戻るには時間がかかります。ちょっとした怪我の治りが遅い。すぐに病気をする。皮膚が弱いし髪の毛も薄い。体力がないので、普通の子供と同じ行動がとれない。それは、親からみれば不憫ですから、引揚後も心を痛めます。しかし、それ以上に親たちは疲れていたのです。心を病んでいたのです。おそらく、親たちは死ぬまでそれを忘れることはないでしょう。赤子だったからこそ、その苦境を少しだけ忘れることができたのでしょう。

戦後の引揚者のみならず、誰でも戦中戦後には、心身ともに病みます。大人も子供も。そこから解放されて、母上とやさしい関係を取り戻すのに、たくさんの時間が費やされていますね。母上が小説を書かれたのは、それだけの必然性があったのだと思います。私たちが憎むべきは「戦争」です。母親ではありません。


今日は終戦記念日ですね。


 (2005年 第二刷 山と渓谷社刊)