この本は5年ほど前に購入したものですが、以下の文章はこの著書の「はじめに」のなかから抜粋しました。大変に魅力的な導入の言葉です。ぽちぽちと読んで楽しんでいます。しかし大切な本になるであろうというたしかな予感があります。
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『物や事に感じて平静を乱された時に、その心の揺れをととのえようとする手立ては人次第であろう。何によって惹き起こされた心の揺れか、その原因と、人それぞれの性情や素養との関係によって、手立てのあらわし方もおのずから定まってゆく。もし仮りに言葉を頼むとすれば、言葉は原因との折り合いをつけようとする働きの中に、誰かに向って、あるいは何かに向って訴えようとする働きも兼ねることになろう。
人は又その心の揺れを、沈黙に封じ込め得る存在である。けれども私がこれから付き合ってゆこうとしているのは、沈黙を守り通せなかった人々であって、頼られている言葉は詩歌、すなわち「うた」が中心である。』
『うたはあのようにも詠まれてきた。』
『人はあのようにも心を用いて生きてきた。』
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取りあげられたものは「勅撰和歌集」「伊勢物語」「蜻蛉日記」「和泉式部集」「和泉式部日記」「源氏物語」「建礼門院右京大夫集」「長秋詠藻」長秋草」「拾遺愚草」などに見られる「相聞」「問答」の歌を集めたものです。たとえば「伊勢物語」では、このような歌のやりとりがあります。
梓弓ま弓つき弓年を経てわがせしがごとうるわしみせよ 男
梓弓ひけどひかねど昔より心は君によりにしものを 女
(講談社刊・2002年第一刷、2004年第二刷)
「頼られている言葉は詩歌・・・」
「人はあのようにも心を用いて生きてきた。」
こんな言葉に出会いますと、大袈裟ではなく、心が震えるような感覚になります。言葉も心ももっともっと大切にと思います。
「良い」というのか「良質な」文章というのか、たちまち虜になりました。少しアプローチしてみます。有り難う御座いました、良い人を教えて頂きました・・・^^;
これを買った頃には、詩で「相聞」ができないものか?と思ってその参考資料として購入いたしました。
でもこれには気の合う相手が1人必要ですので、なかなか実現しません。「連詩」は何度か楽しんだのですが・・・・・・。