私たちは花と交わる、葡萄の葉と 果実と。
それらはただこの年の言葉を語るだけではない。
幽暗のなかから立ち昇る色とりどりの顕わなるもの、
おそらくそれは大地の力を強める死者たちの
嫉みの艶をおびている。
どれほど私たちは彼らの関与に気づいていよう?
その自由な骨隋を混ぜて粘土の地味を肥やすのが、
もう長らく死者たちの流儀なのだ。
ただそれにしても――死者たちはすすんでそうするのか?
この果実は重苦しい奴隷たちによって作られ、
丸く固められて私たちに 彼らの主人に向けて突きあげられるのか?
それとも死者たちこそ主人で、根のところに眠っている彼らが、
そのありあまる豊かさのなかから私たちに恵んでくれるのか、
無言の力と接吻から生まれたこの中間の物を?
(田口義弘訳)
田口義弘の註解を集中して読んではいるものの、どうしても頭の中から掃いのけることのできない一文があります。それは、梶井基次郎の「桜の樹の下には」です。ああ。とうとう書いちゃった。。。
梶井基次郎(1901~1932年)がリルケ(1875~1926年)を意識していたのかは不明ですが、地中に抱かれてある、さまざまな「死」は、かつての地上の「生」であったことは、この生命世界では摂理であり、循環であることは明らかなことでせう。この梶井基次郎とリルケとが書いたものは特別のことではない。
このソネットの始まりの一行そのものが、すでにこの風景を予測していたのではないか?
すると一本の樹が立ち昇った。おお 純粋な超昇!
この「立ち昇る=steigen」というリルケの偏愛とも思える言葉の選び方は、樹だけではなく音楽にまで及ぶ。以下に「ソネット」にはありませんが「葡萄」の詩を記しておきます。以上に記したこととの共通性があまりにも多いからです。
〈『ささやかな葡萄酒の当たり年』をめぐる作品群より〉
アポロ風の巻き髪の 日の光に輝くブロンドの
葡萄畑に沿うて 山羊の群れが行く。
念入りに添木で支えられた 葡萄の木のいずれにも、
思ってみるがいい その内部には流動が溢れ漲っている。
重い乳房にゆったりと足を運ぶ 山羊の群ればかりではない。
絡まり合う葡萄の蔦の その内部にも
立ち昇って来る大群がある、僧侶たち 夢占い師たち、
槍をかざして押し進む密集方陣の軍勢が
大地の中から湧き上ってくる、半ばは死者たちの中から
半ばはいまだ思い起されたこともない土壌(つち)の中から、
太陽の圧倒的な力に立ち向かい
人の手が呼び起されて。
この詩は1923年末、ミュゾットで書かれた作品です。「草稿・断片詩篇・1906~1926年」に収録されています。「完成詩篇・1906~1926年」の「ヴァレーの谷よりの草案詩、またはささやかな葡萄酒の当たり年」をめぐるいくつかの草案・断片のひとつ、だそうで・・・・・・あああ、ややこしいなぁ。ぶつぶつ。。。ともあれ、「ドゥイノの悲歌」と「オルフォイスへのソネット」はリルケの晩年の最高の詩集となるための道のりは計りしれないものであったということは充分にわかってきます。
付記
「子供たちはその内に小さな死を、また大人は大きな死を。女は胎の中に、男は胸の裡にと。この自らの死というものは、いずれもみな持っていたのだ。」
(マルテの手記より。)
それらはただこの年の言葉を語るだけではない。
幽暗のなかから立ち昇る色とりどりの顕わなるもの、
おそらくそれは大地の力を強める死者たちの
嫉みの艶をおびている。
どれほど私たちは彼らの関与に気づいていよう?
その自由な骨隋を混ぜて粘土の地味を肥やすのが、
もう長らく死者たちの流儀なのだ。
ただそれにしても――死者たちはすすんでそうするのか?
この果実は重苦しい奴隷たちによって作られ、
丸く固められて私たちに 彼らの主人に向けて突きあげられるのか?
それとも死者たちこそ主人で、根のところに眠っている彼らが、
そのありあまる豊かさのなかから私たちに恵んでくれるのか、
無言の力と接吻から生まれたこの中間の物を?
(田口義弘訳)
田口義弘の註解を集中して読んではいるものの、どうしても頭の中から掃いのけることのできない一文があります。それは、梶井基次郎の「桜の樹の下には」です。ああ。とうとう書いちゃった。。。
梶井基次郎(1901~1932年)がリルケ(1875~1926年)を意識していたのかは不明ですが、地中に抱かれてある、さまざまな「死」は、かつての地上の「生」であったことは、この生命世界では摂理であり、循環であることは明らかなことでせう。この梶井基次郎とリルケとが書いたものは特別のことではない。
このソネットの始まりの一行そのものが、すでにこの風景を予測していたのではないか?
すると一本の樹が立ち昇った。おお 純粋な超昇!
この「立ち昇る=steigen」というリルケの偏愛とも思える言葉の選び方は、樹だけではなく音楽にまで及ぶ。以下に「ソネット」にはありませんが「葡萄」の詩を記しておきます。以上に記したこととの共通性があまりにも多いからです。
〈『ささやかな葡萄酒の当たり年』をめぐる作品群より〉
アポロ風の巻き髪の 日の光に輝くブロンドの
葡萄畑に沿うて 山羊の群れが行く。
念入りに添木で支えられた 葡萄の木のいずれにも、
思ってみるがいい その内部には流動が溢れ漲っている。
重い乳房にゆったりと足を運ぶ 山羊の群ればかりではない。
絡まり合う葡萄の蔦の その内部にも
立ち昇って来る大群がある、僧侶たち 夢占い師たち、
槍をかざして押し進む密集方陣の軍勢が
大地の中から湧き上ってくる、半ばは死者たちの中から
半ばはいまだ思い起されたこともない土壌(つち)の中から、
太陽の圧倒的な力に立ち向かい
人の手が呼び起されて。
この詩は1923年末、ミュゾットで書かれた作品です。「草稿・断片詩篇・1906~1926年」に収録されています。「完成詩篇・1906~1926年」の「ヴァレーの谷よりの草案詩、またはささやかな葡萄酒の当たり年」をめぐるいくつかの草案・断片のひとつ、だそうで・・・・・・あああ、ややこしいなぁ。ぶつぶつ。。。ともあれ、「ドゥイノの悲歌」と「オルフォイスへのソネット」はリルケの晩年の最高の詩集となるための道のりは計りしれないものであったということは充分にわかってきます。
付記
「子供たちはその内に小さな死を、また大人は大きな死を。女は胎の中に、男は胸の裡にと。この自らの死というものは、いずれもみな持っていたのだ。」
(マルテの手記より。)
ちょっとお話はずれますが、タイトルはわすれましたが、ある推理小説で、遺体が埋められた場所をあじさいの花の色の変化で突きとめたというお話も思い出しました。
あじさいは土質によって色が変化するそうです。遺体によって土質が変わったのだということでせうね。
植物、果実、花の色、犯罪
これは、結構、大いに、連想があるかも。
なるほどなあ。
リルケの世界も、そうなのかも知れませんね。
特に、性愛を歌うときに、そうだ。ソネットでは。第2部の連続する花のソネット(Akiさんが既に引用した)。
以前「世界らん展」を観たのですが、花疲れしました。どうしてそうだったのか?蘭という花はとりわけ「生殖器」だと思わせる花だったせいではないか?と・・・。