花たち、つまりそれは整える手に似るものよ、
(かつての、今の、少女たちの手に)、
庭の卓の隅から隅へあふれんばかり、
疲れ、そうしてやさしく傷つけられ横たわっていた花よ、
もういちど、始まった死から医(いや)してくれる
水を待ちながら――、そしてこんどは、
手さぐる指の、電流のように通じあう
二つの極のあいだに取りあげられた花よ、
その指は、かろやかなものよ、おまえたちの期待以上にいたわるのだ。
おまえが甕のなかにいることに気づき、
おもむろに冷やされながら、懺悔のように、少女の指の温みを、
折られたことの犯した、にぶい、倦(たゆ)げな過ちのように
水中にもどすとき。それはふたたび少女たちへの
聨関(かんれん)となり、少女らは花ひらきながらおまえたちと1つに結ぶ。
(生野幸吉訳)
聨関・・・つながりかかわること。関連。
多くの経験内容が一定の関係に従って結合し、一つの全体を構成すること。リンケージ。
花らよ ついにあの整える手らに親近なもの、
(かつてのそしていまの少女らの手に)、
庭の卓子のうえでしばしばその隅から隅のまで
くたびれ そして軽く損なわれて横たわり、
始まった死からもういちど自分を
取りもどしてくれる水を待ち――そしていま
感知する指と指との流れる両極のあいだに
ふたたび持ちあげられたおまえたち軽やかな、
自ら思っていた以上にそれらの指に優しく力づけられ、
水甕のなかでふたたび自分を取りもどすと
おもむろに冷えてゆきながら 少女らの暖かさを、懺悔のように、
摘まれたことの鈍い気だるい罪のようにただよわせ、
それを関連のしるしとしてふたたび彼女らに、
自らも咲きつつおまえたちと結びつくだろう者らに返す、花らよ。
(田口義弘訳)
これで「オルフォイスへのソネット第二部」の花たちのソネットを3編書いてきました。これらは「花」をテーマとした小さなグループとなっています。
リルケはここに書かれた「少女ら」という言葉に、人間の形姿の美や純潔性を体現しえる存在としての1つの意味を込めているようです。これはほとんど「花ら」と同意語だと思えます。そして「男性」と対立する位置に置かれているようです。
花は少女らに手折られて、庭の卓子のうえに、仮死の状況としてあふれています。花は地下との水脈を断ち切られたまま横たわり、仮死の状態から、もう1度いのちを蘇らせてくれる水を待っています。
花は水甕に入れられて、おそらく数日のいのちを生きながらえることだろう。その水甕を用意するのも、やさしい少女のあたたかな手にほかならないのだが、その花を手折った罪を犯したのも少女なのだった。束の間の花と少女との赦された時間。。。
今朝も移動書斎にて読む。前よりは理解が深まったような気がしました。また、そこに来たときに解釈をせむや。
タクランケさんの解釈をお待ちしています。
ところで、オルフェウスへのソネットの訳と鑑賞を本にした助広剛さんという学者の名前と書名を見つけました。中古本でも高いなあ。出版が2002年。まだリルケも日本で生きていたかという感じです。でも著者は1932年であったか、この年代のひとたちの熱中した詩人なのでしょうね、リルケという詩人は。
Akiさんから戴いたリルケ詩集(生野幸吉訳)の解説に、戦後のリルケの流行とその詩人を否定したのが、ゴットフリート・ベンだと書いてあって、これで根絶したかのごとき書き方をしております。その後遺症がいまだに影響しているのかも知れません、わが国においても。
それでも、ソネットを読むことは、楽しい。これは、いまやマイノリティーの楽しみです。
天邪鬼さん。是非最後までガンバ!