薔薇よ 花の王座にあるものよ、古代の人びとにとって
おまえは単純な縁をもつ蕚(うてな)だった。
私たちにとってしかしおまえは 豊かな無量の花、
汲みつくすことのできぬ対象。
富裕に咲きほこりつつ おまえは衣に衣を重ねて、
輝きからのみなる肉体を包んでいるかのよう。
だがおまえの花びらのひとひらひとひらは同時に
あらゆる衣裳の回避であり拒否なのだ。
幾世紀にもわたっておまえの香りは私たちに向かって
さまざまなこよなく甘美な名を呼びかけている――
ふとそれは賞賛のように 大気のなかを漂っている。
けれども 私たちはそれを名づけるすべなく憶測し・・・・・・
そして想い出がその香りと化して流れる、
呼びおこしうる時間から私たちの乞い受けた想い出が。
(田口義弘訳)
ばらよ、女王の座を占める花よ、古代にあって
おまえは単純な花びらをもつ蕚だった。
わたしたちにはしかし、かずしれぬ花弁を重ねて充ちる花、
汲みつくせない対象。
おまえはその豊富のなかで、かがやきにほかならぬ
ひとつの裸身を包む衣だ、それはまた包む衣だ。
けれどもおまえの花びらのひとつびとつは、同時に
あらゆる衣裳を避け、否んでいる。
幾世紀このかた、おまえの香りは
その甘美きわまる名をさまざまにわれらに呼びつづけた。
突然、その名は名声のように空中にひろがっている。
しかしわれわれは、どう名付けてよいのかを知らず、憶測を重ねるばかり・・・・・・
そして追憶がその香りに移り住む、
呼びかけのできる時間からわたしたちが乞い受けた追憶が。
(生野幸吉訳)
おまえは単純な花びらをもつ蕚だった。
古代の薔薇は花びらが一重の「エグランティーヌ←この花を探しましたが、残念ながらみつかりません。」という種類のもので、色は炎のなかに現れる赫と黄に限られていると言う説と、古代にはすでに花びらが豊富な種類の薔薇があり、「エグランティーヌ」はオリエント起源のものとする説に分かれています。いずれにしましても、このソネットが書かれたヴァレーの庭園には、すでに豊富な花びらを持った薔薇や、「単純な花びらをもつ蕚」の薔薇が共存して咲いていたのでしょう。
リルケの薔薇に寄せる想いは初期の時代から、比喩として、あるいは光を纏う美しいものの化身として何度も登場する花で、その1例は「新詩集」にある「薔薇の内部」にも読むことができます。そしてついに薔薇はリルケ自身の墓碑銘ともなったわけです。
またこのソネットの後半部では、「香り」という見えないものを繰り返し、言葉に翻訳(この場合の翻訳は異国の言葉を自国の言葉の変換するという精神の作業ではなく・・・・・・。)しようとさえ感じられます。それは単に「香り」だけに留まらず、その内部と外部との2つの構造であり、あるいは光のように把握できない肉体であり、それすら虚構のように捕まえることはできない。花びらのように幾層にも隠され、そして拡散する光りのようなもの?薔薇を讃えるためにリルケは言葉を駆使し、それでも届くことのないという断念すら見えてきます。
だがおまえの花びらのひとひらひとひらは同時に
あらゆる衣裳の回避であり拒否なのだ。
という箇所など、とてもエロティックな感じがします。他の箇所でも、第2部のソネットVが、同じエロティックな感じを感じさせるソネットです。花に対して共通するリルケの感じ方があると思います。
また、それぞれのところに行ったら、論じてみたいと思います。
第二部Ⅴのソネットはアネモネですね。次回はここをやってみます。
タクランケさんの原文からの解釈が書かれることをお待ちしています。