藤原咲子(1945年生れ)の父は新田次郎、母は藤原てい、兄は藤原正広(1940年生れ)と藤原正彦(1943年生れ)である。
お母上の書かれた小説「流れる星は生きている」を、幼いゆえに、わずかな誤読から数十年に渡る歳月を母上と共に不幸な時間を過ごされた咲子さんが、父上の死後から「父への恋文・2001年」「母への詫び状・2005年」「チャキの償い・2014年」と、3冊の著書を出版されました。これはお父上との約束でもあったのでしょう。
私と生年が近いこと、同じ満洲の新京からの引揚者だったこと。共に栄養失調の赤ん坊で、病気がちな少女時代を過ごしたことなど、様々な共通点から、咲子さんの3冊の本を読んでみました。
『咲子はまだ生きている。でも、咲子が生きていることは、必ずしも幸福とは思えない……。背中の咲子を犠牲にして、ふたりの子、正広、正彦を生かすか……』(流れる星は生きている)より。
ここが咲子さんの誤読の始まりでした。母娘の不幸な時間のなんと長かったこと。敗戦後、幼い子供はどんどん死にました。私も瀕死状態までいきました。殺された子供もいました。中国人に預けられたまま生きてきた子供もいます。その危うい状況をお母上はたった一人で間違いを犯すことなく、3人の子供を生かして帰国されました。奇跡です。その後母上が長く闘病生活を送られたことは特別な出来事ではないです。子供にとっては寂しいことだけれど。
父上の新田次郎の大きな愛に支えられて、少女時代から大人の女性に成長、赤子時代の栄養失調から言葉の発達が遅れたという理由(が、あるかどうか知らないけれど。)によって、父上の「文章指導」は長く続けられました。母上が記録として書かれた小説は、多くの読者を得ることになりましたが、咲子さんに読まれるまでには多くの時間がかかっています。
明らかに「母嫌い」「父恋」のいびつな状況のなかで、彼女は大人になりました。誰のせいでもない。憎むべきは「戦争」です。母上ではありません。
(2001年 第三刷 山と渓谷社刊)