ふくろう日記・別室

日々の備忘録です。

クリムト、シーレ ウィーン世紀末展

2009-10-08 15:38:51 | Art
(グスタフ・クリムト パラス・アテナ)

(ドイツのシュトゥックの描いたパラス・アテナ)

 この2点の制作年は同年です。並べてみると興味深い。
 (シュトゥックの絵画はこの展覧会にはありません。念の為。)


 6日午後、雨降るなかではありますが、日本橋高島屋8Fホールにて観てまいりました。なるべく雨を避けて、JR「東京」駅からではなく、地下鉄「日本橋」駅から地下道で行くコースを選びました。絵を観ることは好きですが、雨に濡れることは嫌いなのでした。

 どの美術展に行っても、目が行ってしまうものは「子供」を描いた絵です。

(エルンスト・クリムト  祈る子供たち)

(グスタフ・クリムト  画家カール・モルの娘マリー・モル)

 「ウィーン・ミュージアム所蔵」作品から、144点の作品の展示でした。「ダスタム・クリムト」と「エゴン・シーレ」の名前で代表されていますが、実際には同時代を生きた多くの画家の作品が展示されています。マカルト、モル、モーザー、オッペンハイマー、ココシュカ、などなど・・・・・・。

 1887年に開館したウィーン・ミュージアム(旧ウィーン市立歴史博物館)の所蔵品はローマ時代からバロック時代、さらに現代に至るまでのウィーンの歴史的遺物や美術品など多岐にわたっています。その中でも「グスタフ・クリムト」や「エゴン・シーレ」など19世紀末から20世紀初頭にかけてウィーンで活躍した画家たちの絵画は質量ともに大変充実しているようです。

(グスタフ・クリムト  愛)

(グスタフ・クリムト  彫刻)



 この展覧会は、そのわずか30年足らずの間のウィーンの画家たちの作品を集めています。「アカデミズム」から別れた「ウィーン分離派」を中心に、絵画、デザインなどの表現者たちが交流した時代でした。このような流れは世界の美術史のなかでは繰り返されたことでしょうね。そこをすべて「ウィーン分離派」と括るには、それぞれの画家の個性が許してはくれないだろうと、美術館のなかを彷徨いながら思うのでした。

アイヌ神謡集  知里幸恵 編訳

2009-10-04 01:16:24 | Poem
 知里幸惠(ちり ゆきえ)は、1903年(明治36年)生まれ。1922年(大正11年)心臓病で急死。たった19年の生涯でした。その翌年に「アイヌ神謡集」が出版されました。
 この本の定本は、その大正12年の「知里幸恵編『アイヌ神謡集』・郷土研究社刊」であり、北海道立図書館北方資料研究所蔵の「知里幸恵ノート」を、編集部が閲覧して、補訂したものです。

 知里幸恵は登別のアイヌの豪族の血筋を引き、豊かな大自然のなかで育ち、旭川の女子職業学校で日本語、ローマ字、英語を学びました。そして母と伯母からキリスト教を学ぶことによって、父祖伝来の信仰を深め、純化したものと思われます。
 17歳の時の金田一京助との出会いが、この「アイヌ神謡」の翻訳と出版への工程をより進めたものと思われますが、「生涯の仕事に。」という決意もならず彼女は夭逝されて、ここに収められたアイヌ神謡は13編、残念ながらすべてということにはなりませんでしたが、これが「アイヌ神謡」として世に出た初めてのものでしょう。皮肉なことですが、この本がわたくしの手に届いたということは、先住民であったアイヌへの大和の侵略によって、日本語、新しい宗教がアイヌの歴史を葬り去ろうとしか過去があったからでしょう。


 これはアメリカ・インディアンの口承詩にも言えることかもしれません。祖先からの知恵と信仰と言葉、自然とともに生きてゆくことは自然への感謝と信頼であること、あたりまえのようでありながら決してあたりまえではない生きることの厳しさとやさしさを、侵略者たちは崩壊したのです。


 これらアイヌ神謡は、文字がなく口承ですから、言葉の音として、本文はすべてローマ字で書きおこされていて、それを知里幸恵が日本語訳したものです。こうした仕事が出来る方はめったにいなかったことでしょう。
 ここで謡う神は「梟」「狐」「兎」「小狼」「海の神」「蛙」「小オキキリムイ」「沼貝」です。「オキキリムイ」とは「人祖」です。これらの「神謡」からはもっとも根源的で平和に生きる意味が問い直されてゆきます。また「神謡」は、個々の物語に固有のリフレインがひんぱんに見られます。特にわたくしが美しいと思ったのは「梟の神の自ら歌った謡」のなかにあるこのリフレインでした。しかし文字の上でのリズムしかわからないのが残念です。


   銀の滴降る降るまわりに、
   金の滴降る降るまわりに、



 アイヌの口承文学の中で、物語性をもったものは大きく分けて「神謡」(カムイユカラ)「英雄叙事詩」「散文説話」の三つに分けることができるそうです。その「遠い声」に耳をすませていたいと思います。

  *   *   *

《付記》

 知里真志保(ちり ましほ・1909年~1961年)は、アイヌの言語学者。知里幸恵の弟です。室蘭中学校(現在の北海道室蘭栄高等学校)卒業。成績優秀だったのですが、貧困ゆえに進学できず、地元の役所に勤めました。金田一京助はその才能を惜しみ、東京杉並区の金田一家に招き、旧制第一高等学校(現在の東京大学教養学部)に8番の成績で合格しました。

 金田一京助(1882年(明治15年)~1971年(昭和46年))は、アイヌ語研究で知られる日本の言語学者、民俗学者。

 こうした人間関係が、歴史の記憶からうすれてゆく「アイヌ言語」と共に、文学や歴史もわたくしたちに届けられたのでしょう。


 (岩波文庫 1878年第1刷・2005年第37刷)

花衣ぬぐやまつわる・・・・・・  田辺聖子

2009-10-01 21:18:42 | Book
 「わが愛の杉田久女」というサブタイトルのついた上下2巻の、久女の評伝です。大正のはじめに高浜虚子が女性の俳句普及のために「ホトトギス」に「台所雑詠」と名づけた女性専用の投稿欄を設け、この成果として、長谷川かな女(1887~1969)、阿部みどり女(1886~1980)中村汀女(1900~1988年)、星野立子(1903~1984)などのすぐれた女性俳人が登場しました。中でもとりわけ優れた才能を発揮し、俳句に新しい可能性をもたらしたのが「杉田久女(1890~1946)」でした。


 「久女」は高級官吏である赤堀廉蔵と妻・さよの三女として鹿児島県鹿児島市で生まれる。1908年(明治41年)東京女子高等師範学校附属高等女学校(現・お茶の水女子大学附属中学校・高等学校)を卒業。ここまでの教育を受けた子女は、殆ど社会的、経済的に恵まれた家に嫁ぎますが、そこでの嫁としての窮屈な生活があることに「久女」は精神的危機を感じていたのでしょう。

 彼女が選んだ縁談の相手のなかから、1909年(明治42年)東京美術学校(現・東京芸術大学)を卒業して、旧制小倉中学(現・福岡県立小倉高等学校)の美術教師で画家の卵の「杉田宇内・・・美丈夫だったとか。。」と決めて結婚し、夫の任地である福岡県小倉市(現・北九州市)に住むことになります。小倉はその時期には「工業都市」としてめざましい経済発展をし、成り上がり的な裕福な資産家が多く、文化面では決して豊かな土地ではなかったようです。

  目の下の煙都は冥し鯉幟    久女

 それにくらべて教師の収入は少なく、贅沢に育った「久女」には辛いものがあったとは思いますが、それ以上に「宇内」の画家としての未来への希望に賭けたのでしょう。しかし・・・・・・(以下、引用です。)


 「もっともっと貧しくてもよいから、意義ある芸術生活に浸りたい・・・・・・」
 久女は眼に涙をためていう。宇内も、久女が虚栄からそういうのではないことはわかっている。しかしそのほうが、ほんとはずっと厄介なのだ。
 ダイヤや着物や名誉が欲しい女なら対処のしようもあるが、感情の動揺しやすい、自然や人生に何かにつけて高揚感を味わい、また、どうかするとわけもなく憂鬱になる、そういう絶えず白熱した発光体を裡にもっているような女が正面の大手門から堂々と〈意義ある芸術世界に浸りたいのです。平凡と安逸だけを貪るよりも、あなた、さあ、いまからでもすぐ絵筆を持って!〉と攻めてくるのは、男にとってさぞ、やるせないことだったろうと思われる。(中略)

 「貧しくても意義ある芸術生活」を送るべく神からその運命を背負わされた者は、花咲かぬまま地獄をかいまみ苦しみの末に悶死する、そんな運命が待ち受けているかもしれないのだ。そういう地獄と天国の綱渡りのような人生は、人に強いるべきことではないのだから困る。
 何がなんでもその道を選ばなければ生きていけないような、限られた人間だけが、その道を〈選ばされて〉しまう。人為ではない。巨いなる超越者の手によって。
 宇内にはその辺が見えていたにちがいない。
 しかし彼はそのあたりの機微をことこまかに妻と話し合い、妻の思いこみを訂正し、芸術と実人生の相関関係について論じ合う、という手のかかることを避けている、宇内の怠慢という以上に、それまでの日本の夫婦に、話し合いの伝統なんかないのである。明治の文物は開花したようにみえるが、男と女の共通語が育つ土壌ではないのだ。
・・・・・・(引用おわり。)


 ・・・・・・現代においても、その共通語は熟していないのではないか?

 主婦として母として「久女」が怠慢だったわけではないし、「宇内」は「久女」の料理をおおいに気にいっていた。家事の合間には随筆や小説なども書き、放蕩者の兄の「月蟾」(←月とひきがえる?)との同居は、意に染まぬものではあっても、彼から俳句の指導を受けたことが俳人「杉田久女」の出発点でした。「宇内」は狭い家での義兄の同居に対しては大変好意的でした。

  *   *   *

 お話は変わりますが「久女」は、ほぼ我が祖母と同年代です。祖母も裕福な家に生まれ「日本女子大学校=現・日本女子大学」を卒業し、「羽二重しか織らない。」というプライドの高い機屋に嫁いでいます。祖父は1人息子で音楽家になりたかった夢を捨てて、家業を継いだそうですが、そのための勉学に行った先は京都でしたが、下宿住いではなく、旅館住いだったそうです。

 結婚してからも祖父は放蕩の限りをつくし、家業を潰しました。東京で新しくおこした事業は順調にいき、千葉に別荘を建てました。しかし関東大震災でなにもかも失くし、千葉の別荘に移転して、そこには縁ある被災者でいっぱいになったそうですが、贅沢に育った祖父母ではあっても、そういう苦労を厭わない人でした。これもあるいは高度な教育を受けた者のまことの姿勢ではないでしょうか?

 祖父母は幼いわたくしにとっては、厳しいお行儀見習いで緊張させられた存在ではありましたが、虚弱だったわたくしを毎日夕方に散歩に連れていってくれたのは祖父でした。着物のたたみ方、四季折々の行事、料理、自然界への気付きなどを教えてくれたのは祖母でした。 いつもダンディーな祖父に比べて、祖母はいつでも質素な人でした。幼いわたくしの記憶が届く限りの祖父母は、庭つきの板塀のこじんまりとした家に住み、ご近所の方々から「ほとけのS家」と言われていました。そんな思い出を誘う本でした。祖母は短歌をたしなむ女性でした。ひらがなをやっと読める頃から「百人一首」で遊んでくれた人は祖父でした。何故か父母よりも祖父母の思い出が多いのですね。

 俳人「杉田久女」の活躍はこれから始まるのですが、この先はまた改めて。。。

 (2006年・第3刷・集英社文庫・上下巻)