赤谷線敷設の動きが出たのは、大正6年 大一次大戦で日本全体が空前の好況に沸いていた時。 官営八幡製鉄所は、放置されていた赤谷鉱山の開発を決め、鉱山運鉱線建設を決めた。
翌大正7年6月から測量が始まった。「黙って見過ごす手はない」と当時の新発田町・赤谷村・五十公野村・米倉村・川東村・松浦村の六議会は、この鉄道を旅客・貨物も取り扱うよう猛烈な運動を開始した。
ただ、地元選出代議士・北蒲原郡長・各町村長の上京・請願を繰り返したが、答えはすべて「ノー」だった。
会社や官僚の頭には「鉄」しかなかった。運鉱線は地元の期待を無視し、急ピッチで工事。大正11年12月に赤谷線は完成した。次回に続きます。